夜中につむぐ愛のやりとり
物事を見極めるためには、まず観察する。
どうしてこの状況に至ったのか。
なぜ起こったのか。
注意深く目を向けてみれば、自然と頭の中で物事は積み上がっていく。
床に落ちた真っ青なコートと蛇みたいにとぐろを巻いたベルト、椅子の背もたれに絶妙なバランスで引っかかった帽子、ベッドの縁から垂れているクラバットとコートとおなじ色のベスト。
そして、わたしのもののはずであるベッドに堂々と、我が物顔で長い足を伸ばして眠る、彼。
ゆっくりとおなかが上下しているのを見て、規則正しい寝息を立てていることがわかる。着ているシャツのボタンは三つほど外れていて、いつもならきちんとしまわれているはずの裾もすべて出ていた。
脱ごうとして力尽きたのか、寝苦しくて脱ごうとしたのか。
そこまではわからないけれど、半裸のまま寝られるよりはましだった。
なぜ、部屋の持ち主であるわたしを差し置いて寝ているのか。
まったく不思議な話ではあるが、彼が──サボがこうしてやってくることは、よくあることだった。
たとえば早朝目覚まし時計が鳴る数時間前とか、任務と任務の間の仮眠のときとか、一日の仕事を終え翌日に備えるときとか。
一年のうちにまれにある休日のときなど、丸一日床に足をつけさせてもらえないことさえある。彼は目ざとくかぎつけて、平然な顔をして、毛布をはいでもぐり込んでくるのだった。
最初は戸惑っていたわたしも、今ではすっかり彼の行動に慣れて、あしらい方も心得た。寝起きのよくない彼を、やさしく揺り起こすこともできる。そもそも彼がこうして断りもなくやってくるときは、大抵ひどく疲れていて、だれにも邪魔されずに眠りたいとき。好きにさせてあげるのが、一番良い薬であった。
指がかじかむ。雪深い冬の島が、近いせいだ。夕食をとっていたころは夏を迎えた秋の島が付近にあったおかげで、乾いた風が吹いていて心地よく、気温もまずまず高かった。飲んでいたスープのあたたかさが少し邪魔だと思えていたくらいなのに、今はあの温度が恋しい。羽織っているコートの袖口を握る。羊皮紙の上でまだ乾いていないインクに気をつけながら、ペン先を走らせる。
「間違えた」
夜の帳が降り、底冷えする部屋に、掠れた低い声が通る。
「間違えた」
「おはよう」
「違う、こんなはずじゃなかった」
目を覚ましたサボは、天井のある一点を見つめながら、うわ言のようにつぶやいていた。寝ぼけている彼とは話が通じない。普段から似たようなものだけど、それ以上に自分の世界に引きこもる。だから、きちんと覚醒するまで放っておいた方がいい。経験は雄弁に語る。
書きかけの手紙を仕上げた。赤いシーリングワックスを溶かし、垂らして、スタンプで押さえる。それからまた新しい便せんを取り出し、ペン先に詰まった紙の繊維を拭き取り、使っていたインク壺は片づけて別の壺を取り出す。蓋を開け、ペン先を沈めれば、ほのかに青がにじむつややかな黒に包まれる。わたしのお気に入り。限られたときにだけ使う特別なインク。弧を描くように滑らせれば、カーテンから覗く夜空みたいにも見えてきれい。
「なァ」
「うん」
「今、何時だ」
「もうすぐ日付が変わる」
「飯、食いはぐった」
「食堂行けば、まだあるかも」
「お前、なに食った?」
「ピザ」
「ピザか」
ラーメン食いてェなァ。ぼそっとつぶやかれたサボの声を、聞き流す。手紙に綴らなければならない文字を考えるのに、意識が向いていた。ふさわしい言葉が浮かばない。なにを書けば相手が納得し、満足するのか、想像がつかないから。そもそもこうして書いて渡したあと、きちんと読むのかもわからない。中身を確認しないまま燃やされる可能性もあって、ちょっと怖い。
「ご飯、食べに行く?」
ベッドに寝転がる彼を横目で見る。さっきまでどこでもないところを見ていたくせに、今はこちらに顔を向けて、ひたすらに見つめていた。髪がぼさぼさで、あちこちにひどい寝癖がついている。オールバックになっているから、白い額がテーブルライトの青白い光を受けて、光っていた。
「いい、いらねェ」
「そう」
「お前と食えなきゃ意味がねェ」
「またわがまま言って」
「くそ、起きてればよかった……」
「そんなにこだわらなくても、いつでも食べられるのに」
「食えねェよ」
お前、これからどこに行くかわかってんのか?
そう言いながら眉をひそめる彼に、わたしは肩をすくめた。すぐに、呆れたような表情をされた。あぁ、と声を出しながらため息を吐いて、わたしの枕に肘をつく。
「あと四時間もあれば港に着くだろ」
「そうね」
「そうしたら、数ヶ月は会えなくなる」
「そういう任務だからね」
「おれもそのあとすぐ出なきゃならねェ」
「忙しいね」
「な?どう考えても時間が足りなさすぎる。飯食って、風呂入って、お前と寝るのに、四時間だぞ?」
「十分じゃない?」
「全然足りねェ、八時間あったって足りねェ」
「たった三つのことに、そんなに時間はいらない」
「……寝るのはただ“寝る”だけじゃねェぞ」
「そうだとしても、よ」
「おれが早ェって言ってんのか?」
「ううん、サボはしつこい。よく知ってる」
「大体なァ、お前は淡白すぎんだよ」
「そう見える?」
「あァ、いつもそうだ。なんにも望まねェ。いつだって受け身で、流されるまま」
「うん」
「そのくせ急に頑固になって、話も聞かなくなる」
「あー……そうかも」
「そういうところが、気に食わねェ」
「ごめんね」
「おればっか好きみてェだ」
「うん」
「うん、じゃなくて、否定しろよ」
手紙を書く手を止め、顔を上げる。サボは口をへの字にして、不満の色を隠しもしていなかった。そんなに怒らなくたっていいのに。わたしは笑って言ってみせたけれど、彼はますます不機嫌になるばかりだった。
「ねぇ、こっちに来て」
ペンを置き、椅子の背もたれにしっかりと寄りかかる。サボはしばらくしかめた顔でわたしを見ているだけだった。静寂に包まれた部屋に、時計の秒針が一秒を刻む音と、互いの息づかいだけが広がる。ただ、見つめ合っていた。
やがてなんの返事もなく、彼は起き上がった。体重がかかったせいでマットレスが軋み、毛布が床に落ちる。あとで拾わないと。
「これ、だれ宛だ?」
数歩にも満たない距離を歩いて向かってきた彼は、すでに書き終えた封筒の束や、書きかけの便せんに視線を落とす。
「軍の幹部の人たちとか、この間任務に行った子とか、協力してくれる民間の施設とか、いろいろ」
「おれには書かねェのに」
「手紙ほしい?」
「ほしい」
「仕事の?それともラブレター?」
「おい、勘弁してくれよ。ラブレターに決まってんだろ」
「確認は大事」
「お前はおれと喧嘩してェのか?喧嘩したまま何ヶ月も過ごさせる気か?」
「まさか」
大げさにため息をついて肩を落とす彼に、つい苦笑してしまう。手紙がほしいと、実は以前から言われていたけれど、まさかここまで真剣だったとは。
だらりと下ろした腕に手を伸ばし、大きい手のひらをやわらかく握る。手袋をしていない素肌は、寝起きなのと能力のおかげであたたかかった。
「今、あなた宛の手紙書いてる途中なの」
「嘘つけ」
「本当」
よく見てみて、と促すように、サボの顔の前に紙を差し出す。
「……“親愛なる、サボへ”」
「ねぇ、ほかになに書いてほしい?」
「……おれ宛……」
「そうよ、いらない?」
もともと大きな目をさらに大きくしながら、まだ書き途中の紙面を一心に見つめる横顔に訊くけれど、またも返事はなく。時が止まったように、動かなかった。
「サボ」
「……」
「ねぇ、」
「……」
「続き、書きたいんだけど」
「本当におれ宛だ……」
「うん」
「お前が……おれに書いてる」
「うん」
「夢か?これは……」
「現実だと思うけど」
「あぁ、もう……くそっ……」
紙にしわが寄る音がして、それからサボは椅子に座るわたしを抱きしめてきた。背中に回された腕に力がこもると少し苦しくなって、肩口に寄せられた彼の顔を熱く感じた。
「好きだ」
「うん」
「お前は?」
「好きだけど、サボには負けちゃうかも」
「なんだ、それ」
「ふふ、でもそうだと思う」
目の前にある、無造作にはねた髪を撫でつけながら、耳の中に吹き込むようにつぶやく。
「サボには、敵わない」
それは紛れもない事実。わたしの中にもたしかに彼への特別な思いはあるけれど、彼の持つ濃く、深い感情に比べたら熟成していないワインのよう。どれだけ言葉を紡いでも、腕を広げて抱きしめてキスをしたとしても、肌を重ねながら隣で眠ったとしても、稚拙な愛の真似事のように見える。彼には決して勝てない。合理的な物事が好きなようで、底に眠るのは激しく重い愛の濁流。わたしはいつも、翻弄されるばかり。
「……これ、おれのコートか?」
「そうだよ。気づくの遅いね」
「なんで着てんだ」
「寒くて毛布使いたかったけど、サボが寝てたから」
広い背中を撫でながら、笑う。
「それから出ていく前に、サボの匂いをもらおうと思って」
それは、時間が経つほど香って、わたしの後ろ髪を引き続ける。彼が時々身につける香水は、おそろしく甘い匂いがして、いつまでも胸にたまる。以前は離れれば離れるほど恋しさが募ってしまうから、時間のかかる任務の前にはつけないでと頼んでいたのだけれど、今はこの香りがないと落ち着かない。
姿はなくても、隣にいてくれる気がして。
いつでも背中を押してくれている気がして、奮い立てるから。
突然、身体が浮いた。
抱き上げられたと気づいたときには、ベッドの上に乗せられていた。押し倒され、大きな身体が覆いかぶさった。
「サボ」
「時間がねェ、さっさと終わらせる」
「だめだよ」
「頼むよ、我慢させんな」
サボは眉根を下げながら、苦しげに顔をゆがめ、深く息を吐く。
「だめ」
両手で彼の頬をはさんで、引き寄せる。
触れる寸前に目を閉じれば、自然と唇が重なった。
「キスだけね」
言い聞かせるようにささやいて、キスをする。
何度も。触れて、ついばんで、歯を立てて、舌先で舐めて。軽やかな音を立てて離れたとき、低い声が急かすようにわたしの名前を呼んだ。それに答えようと口を開けたところで、いつの間にか温度の上がった手がわたしの後頭部を捕らえる。深く、深く、わずかなすき間さえ憎らしいというみたいに口を塞がれて、舌が絡んだ。
しばらくは受け入れていたけれど、息が続かなくなって、彼の胸を押した。お互いに呼吸が乱れていた。まだ服を着ていて、素肌にも触れていないのに、なにも経験していない子どもみたいに余裕のない様がおかしくて、自然と笑いが込み上げた。
「“わたしの想いはあなたとここに残っているから”」
「シェイクスピアか」
「好き?」
「別に、嫌いじゃねェけど」
「書いてもいい?手紙に、」
「あとで考える」
彼はそう言ってわたしの顔中にキスを落としだした。目尻や頬、鼻先にとたくさん降ってきて、やわらかい戯れがくすぐったくてまた笑う。
あごの骨を伝って首筋へ。気づけばシャツはめくれていて指先が這い、喉のくぼみや鎖骨を舐められた。
「もう四時間切ってる」
時計を見ると、すでに日付を超えていた。
「一回だけ」
わたしの下唇を吸いながら、サボは言う。もしここで拒めば、長い任務を終えても引きずるくらいへそを曲げる気がした。返事のかわりに彼を抱きしめる。いつだって折れるのはわたしで、身を委ねるもわたしで、彼はただ愛を注ぐだけなのだった。
ワードパレット使用作品
1.規則正しい寝息/観察/白い額
Thanks 憂/@torinaxx