悪いことがしたかった話
繁華街の中と外は、夢と現実みたいに世界が違う。
ひとたび足を踏み入れれば、月の表面を進むように浮き足立つ。ひっそりと湧き立つ恥など捨て、流れる空気に身を委ねてみればあっという間。すべてを忘れて夢中になる。月を、星を、霞ませ、打ち消すネオンの光を浴びて、笑ったり話したり踊ったり。なにをするのも自由だし、縛るものもない。ただひたすら、たのしむことだけを考えれば、それでいい。夜の街では、許される。
そして、いつしか、夢は覚める。
入口は出口になり、いつの間にか自然と足がその場所へと向かう。飲んだアルコールも姿を消し、通りすがりにまとった煙たい匂いも離れている。人気の失せたゲートを潜る。訪れたときは目に入らなかったものが、見えた。日頃、雨風と潮風にさらされているせいなのか、ボロボロに錆びた鉄のアーチ。フィラメントが焼き切れかけた電飾は、点いたり消えたりを不気味にくり返していた。道端には散乱したゴミ、割れた酒瓶、まだ火の消えていない吸いかけの煙草が落ちていて、建物の壁の一部が濡れてすえた匂いがした。物陰で酔っ払っているであろう男女が抱き合っているのも見つけたけれど、見ないふりをして。
通り過ぎれば、もうそこは現実。
暗闇の中で見る煙草の先は、赤く光っていた。
南の空に浮かぶサソリの姿を思い出す。英雄でもないのに、逃げ出したい気持ちが、胸の中に灯った。ぼんやりと頼りない白熱電球を抱く街灯の下に伸びる影は、すらりと長い。逃げたとしても、どこまでも追いかけてきそう。空の端、地平線の端、海の果て。きっとなにをしても無駄だと、思う。本当にそんなことをするつもりはないし、彼も決して許さないだろうけど。
「サンジくん」
声をかけると、彼が静かにほほ笑んだのがわかった。咥えていた煙草を隠すように、わたしが近づくまでに足元に落として、靴底で踏み消していた。よく見ると、近くには真新しい吸い殻と、汚れて風化した吸い殻がたくさん落ちていた。ここは喫煙者にとって、ちょうどいい場所なのかもしれない。空気に溶けきらない、新鮮な煙たい匂いを鼻先に感じながら、思った。
「どうしたの?」
「おとぎ話から抜け出したプリンセスを迎えに」
そう言って、彼はうやうやしくお辞儀をしてみせた。夜も更けているというのに、くたびれて見えるところがひとつもない。まるでこれから舞踏会にエスコートする王子様のような、洗練されたうつくしさがあって、ぽっと頬が熱を持つ。いつもの知っている、彼そのものの態度であるのに、手足がうずいて勝手に動き出してしまいそうになった。
「なにそれ」
「もうすぐ日付が変わるから、魔法が溶けちまうだろ?」
心配してたんだ、と低い声はささやく。いつ来るかもわからないわたしを、きっと、ずっと待っていてくれたやさしさが、肌に染みた。それと同時に、どこか子ども扱いをされているようにも感じた。
夜遊びなんて、だれだってやってるじゃない。
かわいげのない言葉が脳裏に浮かぶ。決して、こんなことを言うつもりはないのに、わずかでも思い浮かんでしまったことにため息が出る。わずらわしい気持ちをふり払うように、小さく首を横にふって、忘れようとした。
「なにして遊んでたんだい?」
「えっ」
「君が遊びに行くなんて、めずらしいから」
「……そうかな」
「うん」
「そんなこと、ないけど」
「うん。でも、最近は、船に残ってたりしただろ?だから、」
「わざわざ言うようなことなんて、ないから」
それまで合わせていた視線を外し、彼を追い越して歩き出した。なぜだろう。なんだかとても、許せない気持ちになっていた。
一歩進むごとに喧騒は遠く。かわりに、冷えた潮風と砕ける波の音の存在を感じる。夜の底で息をする世界はしんと静まり返っていて、ふたり分の足音だけが反響していた。すれ違う人は、いない。わたしと彼しか、道を歩いていなかった。
なァ、待って。ナマエちゃん。ご機嫌ななめなのもかわいいけど。
どこか焦ったように、彼が後ろから話しかけてきた。わたしは、脇目もふらず進んでいる。それなのに、あっという間に肩を並べた。異名を持つその長い足が、簡単に距離を縮めた証拠だった。
「放っといて」
「悪いけど、それは聞けねェ相談だ。夜道は危ないんだぜ」
「平気だってば」
「平気じゃねェよ」
「…………」
「……ナマエちゃん」
「…………」
「無視しないで」
「…………」
「おれ、それ、さみしくなるから好きじゃねェよ」
「それなら、もうおしまい」
なにに対してのおしまいなのか。自分でもよくわからないけど口走っていた。すぐに、言わなければよかったと、後悔が肩にまとわりついた。深く息を吸い、吐く。冷えているのに湿っぽい空気が、泣いているときに味わう鼻の奥の痛みに似ていて、気が沈むのを感じた。足取りも重い。けれど、止まることができない。やっぱり勝手に動いているみたい。頭と身体が上手く噛み合っていない不快感が、神経を支配して、指先を強張らせていった。
「待って」
さっきまでと違い、しっかりと気持ちのこもった声とともに二の腕を掴まれた。つま先で小さな砂利を蹴りながら立ち止まる。サンジくんの手は、あたたかかった。わたしの腕が冷えているせいなのかもしれないけれど。温度差に息が詰まる。自分が、彼のやさしさを受け取るのにふさわしくない気がして、それを事実として突きつけられた気がして、胸がしめつけられた。
「なァ」
「嫌」
「置いてかないで」
「嫌よ」
「教えてくれ」
「離してよ」
「君が傷ついてる理由を知りたい。おれに、力にならせてほしい」
「嫌だってば」
「信じられねェ?おれは、レディのためならなんだってできるよ」
そうね。
知っている、とても。
彼はいつだって、どんな人にもやさしい。女の子にも、認めたがらないけれど男の人にだって。
それが彼のいいところ。わたしも好きで、おなじ船に乗る仲間たちも好きなところ。なんだけど。
「わたしは?」
「……え?」
「わたしのためには、してくれないの?」
自分で発したはずなのに、想像以上に澱んで重たいひと言に、内心おどろく。サンジくんも、声を詰まらせていた。また後悔する。でも、それはずっと胸の内に秘めて、隠して、見ないふりを知らないふりをしていた、まぎれもない本心だから。いつかは伝えたかったことだったから、続けるしかなかった。
「一度くらい、わるいこと、したかったの」
「…………」
「サンジくんじゃない人と仲良くして、一晩中遊びたかった」
「……でも、帰ってきたね」
「つまらなかったの」
似合わないことはするものではない。身にしみて、理解した。わたしに、浮ついたことなんかできないって。
「わたし、サンジくんじゃなきゃだめなのよ」
サンジくんは、わたし以外の女の子にもやさしくできるし、仲良くできるのだろうけど、わたしは違う。どうしたって、相手に彼の片鱗を探してしまう。そんなことをしたって無駄で、無意味だとわかっているのに、やめられない。相手を、そして自分を傷つける行為であるにも関わらず。
「サンジくんの、せいだから」
いつの間にか覚えてしまった悪癖に、うんざりする。でも、わたしだけがわるいのではないと思う。
だって、他人はつめたい。自分勝手で、表面だけ取り繕って、簡単に嘘をつく。
どうしてすべての人が彼のようにやさしくないのか。
どうしてすべての人が彼のように他人を尊重し、思いやれないのか。
下心をにじませた身勝手さには吐き気がするし、頭痛もする。おもしろく思えるところなんて、なにもない。彼にしか感じない。
わたしは、サンジくんがいい。傷つけないし、愛してくれる。だから、わたしもおなじだけの、それ以上の愛を、返そうと思える。
「一緒にいてくれないと、嫌だから」
こんなこと、本当はだめに決まってるのに。
わたしは彼に自由でいてほしいから。束縛なんて醜い真似はしたくないのに。
それなのに、一度吐いてしまったら心が軽くなった。肩や指先の強張りがとれて楽になった。彼の気持ちを考えず、自分勝手なことを言っているのに。まさしくわたしはわたしの嫌いな人間そのもだった。身勝手さに辟易し、拙いのだとあらためて知ってしまい、今度こそうなだれるしかなかった。
サンジくんも、わたしも、しばらく口を開かなかった。
わたしはずっと視線を落として自分の手や靴の先を見ていて、彼がどんな表情をしているのか、なにを言いたそうにしているのかを見なかった。なにも言わないということは、呆れているのだろうと思って、あきらめの感情も抱いていた。
「ナマエちゃん」
だから、少し、身構えた。
先に静寂を切り裂いた彼に。
これまで築き上げてきたものを失いたくなくて。
「あんまりかわいいこと言わないで」
ずっしりと濃厚なガトーショコラみたいな。砂糖をたっぷり入れて煮詰めたジャムみたいな。甘い、甘い声で、言われた。
二の腕を掴んでいた手がするりと下りて、わたしの手を包み、握る。
見上げれば、慈しみに満ちた笑みをたたえた彼が、あたたかな眼差しを向けていた。
「おれ……おれ、どうにかなりそうだ」
「サンジくん」
「ごめん。ナマエちゃんを傷つけたのに、おれ、うれしいって思っちまってる」
「……最低ね」
「そうだよな、本当にごめん。こんなこと、あっちゃならねェのに」
「なにが、そんなにうれしいの?」
「たくさんあるよ。でも一番は…………あぁ……どうしよう」
彼は、どちらかと言えばひとり言のようにつぶやき、大きく息を吐きながら、いつもよりもやわらかくわたしを抱きしめてきた。
スーツに染み込んだ煙草の匂い。かすかに香る洗剤と香水の匂い。それから彼の体温。
すべてが混ざって、わたしの身体の中へを入ると、荒れる心は凪の帯へといざなわれた。
「おれの方が離れられなくなっちまった」
へへ、と照れ笑いをしながらサンジくんはもう一度息を吐き、それからわたしの頬に両手を添えて、しっかりと唇を重ね合わせてキスをした。
わたしの言ったことは、間違いではなかったということなのだろうか。
答えを知りたいけれど、口を開けない。
湿った音を立てて唇が離れてもなにも言えず。
ただ星空の下、彼の淡い笑みを、間近で見ていた。
ワードパレット使用作品
19.わるいこと/似合わない/一度くらい
Thanks 憂/@torinaxx