涙が止まらなくなったローの話





「わたし、今なら、ローのことが手に取るようにわかるかも」
表情や雰囲気を読み取るまでもなく気づいたことをそのまま告げると、ローは目尻を濡らしながらわたしをにらみつけてきた。的を得たことを言われたのが、気に食わないらしい。
「さっきまではたのしかったけど、今はご機嫌ななめ」
「…………」
「読みたかった本が、読めなくなったから」
目頭から透明なしずくがあふれ、鼻のきわを流れ落ちる。赤みを帯びた目元から、ぽろぽろと大粒のしずくが肌を滑って、開きっぱなしの色褪せた本のページの中に吸われていった。
だから、ティッシュを手に取り、濡れた顔をやさしく拭ってあげようとした。でも、彼はむずがり顔をそらした。すかさず、あごに手を添えて頬を撫でる。薄いやわらかな紙が、どんどん湿っていった。
ローはわたしの手を払おうとした。手首を掴んできて、顔から遠ざけようとするけれど、目尻からまた涙が流れていったのが見えた。それを追いかけ、また、頬を撫でる。彼はとても悔しそうに口をへの字に曲げる。身体は大きいのに、しぐさは癇癪を起こす子どもみたい。つい、ほほ笑ましくて笑うと、彼はますます顔をしかめた。
「触るな」
「怒らないで」
「触るなって言ってるだろ」
目の前で、低い声がさとすようにささやく。
「だめ、かっこいい顔が台無しだもん」
わたしは態度を変えなかった。濡れた顔を拭き、潤んだ目元は特にやさしく触れた。ローは、わたしの手首を掴んだままじっとしている。叩き落とさないところが、彼らしい。わたしが身を引くのを待っている。彼なりの気遣いを感じる。
恋とは思考を鈍らせるもの。好きになってしまったら、にらまれたって、憎まれ口を叩かれたって、嫌であるどころか胸の内をくすぐられてしまう。
彼の寛容さに心を打たれ、そのお礼としてまだ乾ききっていない頬に唇をくっつければ、しょっぱい味がした。
ローの機嫌はななめのままだ。

人間は常に、さまざまなものの影響を受けている。
その日の気温や空模様から他人の言動、世間の移ろいまで。
感情を持っている以上、なにも感じないということはあり得ない。どれだけ冷静で、心が強く、動揺を見せない人だったとしても、無感情というわけにはいられない。
ローの異変は、数日前から続いていた。涙が止まらなくなっていた。病気でも、アレルギー症状でも、能力者の仕業というわけでもない。
原因は不明。朝から晩まで、とめどなく涙が流れるようになってしまっていた。
「感情の揺らぎがあると、症状がひどくなる」
ティッシュで目頭を押さえながら、ローが教えてくれた。
「ちょっとでも反応するとこれだ、止まらねェ」
「反応」
例えば、頭の中でふと言葉が浮かんだり、考えがひらめいたり。胸の内の色合いが、細胞ひとつ分変わっただけで、視界がかすんでしまう。ほんのわずかでも、まぶたがぼわっと腫れるまで涙が出てしまってしょうがない。無意識のうちに感じたものに対しては防ぎようがないから、頭を抱えるしかないと、彼は言った。
「厄介だ」
「かなしいことだけじゃなくて?」
「あ?」
「涙。かなしいことだけじゃなくて、うれしくても出ちゃうの?」
「あァ。ポジティブな感情でも、バカみてェに出てくる」
「ポジティブな感情」
「タチの悪いうれし涙ってところだ」
「なにかいいことがあったの?」
「……朝飯が美味かった」
ローはそう、鼻をすすりながら言った。そういえば、今朝は焼いた鮭が出た。香ばしく焼き上がった匂いを思い出す。奥歯の間に、唾液が染み込んでいった。
「ひさしぶりだったよね、鮭」
「ちょうど魚が食いたかったから、食えてよかった」
「でも、ちょっとしょっぱかった」
「だから飯が進むんだろ」
「おにぎりの方が、もっとおいしいかったかも」
そう言うと、ローは静かに顔を上げた。いつもより多い涙の膜に包まれた金色の瞳が、ブリリアントカットされた宝石みたいに、きらっと光る。それが一気に揺れて、潤んで、下まつ毛に束ができるのが間近に見えた。
「あとで食べようね」
無造作にはねる黒い髪を撫でて、堪えきれなかった涙の跡を親指の腹でそっと払うと、わたしの手のひらがしっとりと濡れた。

「わたしがいるからね、なんでも言って」
真っ赤に目を腫らしたローに言う。気の毒なことに、彼の目の周りはいつも濡れているせいで乾燥して、肌荒れを起こしていた。原因不明のこの症状が改善される兆しもないし、このごろでは感情の揺らぎを抑えるために、いつも以上に部屋に引きこもってもいる。重たい鉄の扉を叩いても、中に入れてくれなくなった。素っ気ない態度には慣れているけれど、その理由は彼が心から望んだものではないことを知っているから、突き放されると胸が苦しくてしょうがない。
さみしい。そう、素直に気持ちを伝えた。だって、わたしはローが好きだから。好きな人が少しずつ距離を空けていく様は、嫌いと言われることよりも、うんとせつない。彼の気持ちもわかるけれど、顔を見て挨拶くらいは交わしたいと、言った。
そうして、数日ぶりに部屋に招かれた。
相変わらず、古い紙と、つやつやしたインクと、透き通った薬の匂いが充満していて、ベッドの上には毛布が雑に丸まっていた。
「お前がなにをしてくれるんだ?」
「なんでもよ」
丸まった毛布をたたみ直しながら、長い足を投げ出して椅子に座るローに言った。
彼はわたしになにをしているんだという顔と、潤んでいるけれど鋭い眼差しを寄越した。それは見ないふりをして、毛布をベッドの片隅に追いやって、しわだらけのシーツを着たマットレスに腰を下ろす。
「わたしにできることなら、なんでも」
「それでおれが治るとでも?」
「ロー、そんなこと言わないで」
「わかってる」
わかってるよ。くり返し聞こえた言葉は、自身に言い聞かせるような小さな声。わけもわからないものにふり回され、うんざりしているように見えた。
「じゃあ、ぎゅってしてあげようか」
我ながら頭が冴えていると思った。かわりに、ローの表情は今まで見たこともないものに変わったけれど。わたしの言った意味がわからず、困惑しているようだった。でも、構わない。わたしは気持ちが沈んだとき、ローに抱きしめてもらうと、たちまち気力を得る。揺らいだ気持ちが落ち着いて、冷静になれる。そっと背中を撫でてもらうだけで、胸元に耳を寄せて心音や息づかいを聞くだけで、緊張の糸が解れて安心できる。
マットレスの上で姿勢を正す。背筋を伸ばして、腕を広げた。ローは探るような視線を送り、それから大きくため息をついた。
「いらねェ」
「ええ?いつもよろこんでるのに」
「前が見えなくなるから、嫌だ」
椅子のひじ掛けに腕を置き、頬杖をつきながら、ローは小さな声でつぶやいた。
「ぎゅってしたらいっぱい泣いちゃうの?」
訊ねると、ローは視線をそらして、ばつの悪そうな顔をする。
どうして?わたしに触られたくない?嫌いになっちゃった?
続けて訊くと、彼は少し間を開けて、浅く首を横にふった。
「うれしいの?」
嫌いでないのなら、好きなのではないか。そう思うのは、ごく自然なこと。だから、こうして訊ねることも、なにもおかしなことはない。
それなのに、ローは明らかに動揺していた。うつむいて、首の後ろをさすって、なにかをしゃべろうと口を薄く開けてやめた。
「っ、おい」
わたしの中で、なにかが弾ける。それと同時にベッドから飛び降りて、ローの元へ駆け寄った。思いきり抱きついて、組んだ足のことなんか知らないふりをして、膝に乗る。
「離せ、やめろ」
「うれしいんでしょ?じゃあ、ぎゅってしてもいいよね」
「離せって言ってるだろ」
「嫌だよ」
さっき広げた腕は、この瞬間のためにあったのだと思った。腕の中でローが身をよじる。構わず、ぎゅうと音が鳴るほど彼を抱きしめた。首筋に頭をくっつけて、目を閉じる。ひしひしと伝わる体温と、ほのかに香る香水や消毒液の匂いに包まれて、たちまち身体から力が抜ける。思う存分、身を預けてしまう。
ふと、ローが鼻をすすった。顔を上げると彼は、それまでとは打って変わって、とめどなく涙を流していた。感情の揺らぎがあったせいで、ひどい有様だった。
顔がぐちゃぐちゃだね。そう言いながら、濡れた頬を指先で拭い、唇にそっと口づける。
ひときわ大きな涙の粒が生まれて、流れていくのを見て、わたしはひそかに胸を弾ませた。


ワードパレット使用作品
9.小さな声で/手に取るように/嬉しい
Thanks 憂/@torinaxx



◆
←