01
硬い床に投げ出された。けれど痛みはあまりない。下へ下へと落ちていたはずなのに後ろへ倒れ込むように地面と接触したのが不思議だった。
唯一少し痛む背中をかばいながら身を起こした芽唯が左右を見渡してみてもクロウリーの姿も、レオナの姿も、当然他の人たちの姿も見当たらない。
それどころか階段も無ければ肖像画も、怪しげにゆらゆらと揺れる炎を携えた燭台すらもない。
「ここ、どこ……?」
壁を指で辿って電気を付けた芽唯は明るくなった視界の中でここが小部屋であることを漸く認識する。
クローゼットと呼ぶには衣服が見当たらない。けれど大きな姿見が鎮座している。
「おっきな鏡……。でも、なんでこんな部屋に……」
この部屋の持ち主の物なのだろうか。とりあえず触れてみてもどこかに繋がっている様子はない。
「人を探したほうがいいのかな……」
あまり動くのも良くないだろうが、学園でないことは確かなので芽唯は勇気を振り絞って小部屋を出た。
先程この部屋に来る直前のどぷりと体が沈んでいく感覚。最初は焦りもありわからなかったが、鏡舎で鏡をくぐった時の感覚に似ていた気がする。そして自分は鏡の前に投げ出された。
鏡はどこかに繋がっている。それはツイステッドワンダーランドで得た知識のひとつだ。
もちろん、そうじゃない鏡もたくさんある。髪を結ったり、化粧をしている最中にぬっと鏡の中から人が現れたら困ってしまう。
しかし、あの鏡は曰く付きだとクルーウェルが言っていた。魔法がかかっていることは間違いない。もしかしたら、ランダムに人をどこかに転移させるので幸福にも不幸にするとも言われているのかもしれない。
行きたい場所に行ければ幸せだろうし、逆に今の自分のように辺鄙な場所へと飛ばされれば不幸と言えるだろう。
運悪くグリムとエースの喧嘩に巻き込まれ、運良く……と言っていいのかはわからないが階下で運ばれていた鏡に自分は落ちたのではないか。少ない知識を総動員させ、芽唯が考えられた唯一の可能性を裏付けるためにも人と接触をはかりたい。
「広い……お屋敷なのかな?」
いくつかの部屋を抜け、ようやく廊下に出た芽唯はあまりの広さに息を呑んだ。
芽唯の人生で住居としての建物で、ここまで広い場所はナイトレイブンカレッジの各寮くらいしか見たことがない。
掃除が大変そうだな、と庶民染みたことを考えてしまう自分にはきっと無縁の場所だ。どうしてこんなところに飛ばされてしまったのだろう。
もしかしたらどこかの施設なのかもしれないが、豪華な内装に反しそれを警備する人間の姿は見当たらない。
「すみませーん、誰かいませんかー」
不審人物として捕まってしまうかもしれないが、魔法があるこの世界でなら事情を話せばわかってくれると判断した芽唯は廊下の奥へ向かって声を張り上げる。けれど声は虚しく反響するだけで、誰の返事も返ってこない。
「……困ったなぁ」
他人の家を勝手に探索する趣味は……正直お屋敷の中は気になるのだが、そんな悪趣味は持っていない。
元の部屋に戻ろうかと踵を返した芽唯だったが、少し進んだところで気が変わってしまった。
「お庭……かな……」
恐らく中庭だろうそこは屋敷に負けず劣らずかなり広い。オンボロ寮をすぽんとおいてもきっと問題なく過ごせるだろう。
実際には大きな木や花々が咲き誇り、そんなスペースはないのだが。なんとなく植物園を彷彿とさせるその空間に好奇心が躍り出してしまった芽唯は「お屋敷の人がいるかもしれない」と理由を付け、そっと窓を開けて中庭へと降り立った。
右を見ても左を見ても、植物園……それもレオナとよく昼食を共にする温帯ゾーンに似ている気がする。
もしかしたら、あのエリアで育つ植物と同じ気候の国なのかもしれない。
少しだが情報が収集できた気になった芽唯は浮かれて大きく足を踏み出した。
「──いって!」
「なにか今踏んだような……?」
気のせいだろうか。なんだか覚えのある感覚な気もして足元を見た芽唯の眼前を蛇のようにしなやかに、茶色い尻尾が過る。
「──おい。人の尻尾を踏んでおいて素通りとはいい度胸だな」
ガサガサと、植物の間から身を起こした人影は、どこかで聞いたフレーズと一言一句違わない言葉を吐く。ぐるぐると喉を唸らせる音と共に低い声が警戒心を張らんで響く。
「ここには入るなとあれ……ほ……。この、匂い……?」
スンッと匂いを嗅ぐ音がしたかと思えば男の声がぶつぶつと途切れる。
何故か顔を見てはいけない気がした芽唯は、視線を下げ、後退りながら男の足元に向かって必死に謝った。
「あ、あの、ごめんなさい。私、怪しいとは思うんですけど怪しくなくて、その私名前を……」
きっとこの屋敷と鏡の持ち主だろう。突然見知らぬ場所に投げ出される経験が二度目だった芽唯は割と落ち着いていて、自然と自己紹介をしようと口が勝手に開く。
ぱたぱたとお願いだから何もしないでほしい、武器なんて持ってません。と身振り手振りで弁明すればパシリと片手が掴まれる。
「ひっ! あ、……えっ?」
「メイ?」
「レオナ……先輩?」
いつのまにか眼前まで迫っていた男はどこからどう見てもレオナ・キングスカラーその人だった。
◇◆◇
広い。広い。とにかく広い。
広すぎて逆に肩身が狭い。
ソファに促された芽唯はあまりのやわからさに少し前に宿泊させてもらったレオナの部屋のそれを思い出していた。
未だに慣れぬふわふわソファにずぶずぶと体の自由を奪われている芽唯の前に座ったレオナは興味深げに何度も、何度も、頭のてっぺんから爪の先まで芽唯をじろじろと見る。
「なるほどなァ……」
品定めするかのように細められた瞳は弧を描き、何故かクツクツと喉を鳴らして笑いだす。
先ほどまで制服を着ていたはずのレオナは見慣れぬ装束を身にまとい、豪華な屋敷には確か似合いの格好なのだがどこか違和感がある。
「あの……レオナ先輩……?」
ここはどこかと尋ねたい。けれど名を呼ぶだけでレオナが笑うのでそれ以上言葉が続けられない。
質問を諦めた芽唯が肩を窄めて膝の上で両手を揃えて床を見つめれば「悪い悪い」と全然そんな風に思っていなそうな声がかけられる。
「何が知りたい? 腹でも減ったか?」
「いえ、お腹は……もう少ししたら夕飯を作らないといけないし大丈夫です」
「です……か。くくっ、あーおもしれぇ……」
終いには目尻に涙すら浮かべるほど笑ったレオナは己の指の腹で軽く雫を拭う。
「お前、どこまで気づいた?」
「どこまで……とは?」
馬鹿にされているのはわかった。正確にはそれしかわからない。
机を挟んで相対していたレオナは優雅に足を組み替えた。長いその足の上に組まれた指には珍しく指輪も付けられている。もちろん他にもたくさん装飾をつけているのだが、やけにそこに視線が吸い込まれる。
キラリと光ったそれの位置。気のせいでなければそこは左手の薬指だ。
レオナの身に着けている装飾の中ではシンプルで、けれど一番光り輝くそれは芽唯の頭がおかしくなければ恐らくそういう証明のための物だ。
しかし、何故レオナがそんなものを身に着けているのだろうか。
いつも食事を共にするレオナから相手がいると聞いたこともないし、彼の素手だって何度も見ているがそんなものはしていなかったはずだ。
瞳を瞬かせる芽唯に見せつけるように左手を前に出したレオナが口角を上げる。
「気になるか?」
「その……まあ……」
自分の状況も飲み込めないのに他人のことを知りたいと思うのはどうなのだろうか。近しいと言えばそうだし、その逆とも言えなくもない曖昧な関係のレオナ。
自分の踏み込んでいいラインが分からない。
居心地の悪さに前髪を軽く指で直すふりをして指輪から視線を外す。
豪邸と呼ぶにふさわしい広い部屋。窓の外に見える先ほどまでいた中庭には色とりどりの花々。見間違いでなければ小鳥が何羽か遊びに来ている。
奥に見えるのはガゼボと呼ばれる建物だろうか。一般的な家庭ではまずお目にかかれない。置いてある場所で最初に浮かぶのは公園などの広い公共の場所だ。それだけで庭がとても広いお家なのだと伺える。
「ここ、どこですか? さっきまで学校にいたのにここで何を?」
「俺の家だ。何をと言われても仕事をしてたな。生憎と学生なんて身分はとっくに終えてる」
「終え……んん?」
そんなバカな。じゃあ何故ラギーがあれほどまでに頑張ってこの怠惰な獅子を教室へと引っ張っていたというのか。
「ったく、埒があかねえな。まさか浮かんだ疑問はそれだけなのか? ちらちら人の指を盗み見て『素敵な指輪ですね』とでも言い出すつもりか?」
「そんなわけないじゃないですか!」
嫌味を言うところはいつもとなんら変わりない。
違うとすれば、その声がどこか優しげで、まるで出来の悪い子供を見守る親のように柔らかなこと。
思えば、浮かべる笑みも同じくらい柔らかで、慈愛に満ちているとでも言うべきか。
レオナという男の人物像がブレ始める。先輩ってこんな風に笑うっけ?確かに歳は少し上だが、自分の知っているレオナはもっと獲物を狩るようなギラギラとした笑みを浮かべていることの方が多い。
「のんきな女だとは思っていたが、自分の状況すら呑み込めてねぇのか」
「……のんきで、わるかったですね」
歯に物着せぬ言い方は変わっていない。むしろレオナの場合、着せている時は逆に嫌味を言う時だから通常通りなのだが、馬鹿にされていることには変わりがないので気分が悪い。
「なんか、ちょっといつもより感じ悪い……」
もう少し芽唯の中でのレオナは優しかった。もちろんすべてが優しいとは言えないが、ここまで露骨に人をバカにする人ではなかった。少なくとも、芽唯に対しては……だが。
「悪い悪い。あんまりにも可愛かったからな。つい意地悪したくなっちまう」
「かわっ……⁉」
ぼふん、と頬が蒸気する。そんな言葉、レオナに初めて言われた。
ぱちぱちと瞬きを繰り返し、目の前の男を見つめて言葉を反芻した芽唯は本当にこの男がレオナなのか疑わしかった。いつもの彼と違いすぎる。
「か、からかわないでください……!」
「本当のことだろう?」
何か問題でも?と首を傾げたレオナは不敵な笑みと共に召使いに用意させた飲み物を仰ぎ飲む。
豪華な屋敷と違って注がれたカップはどこにでも売っていそうな、それこそ学園の麓の店でも売っていそうな品物だ。
「これは妻との揃いの品でな。学生の頃から使い続けてる」
「あの……だから、学生の頃ってどういう……」
わざとらしく妻を強調したレオナは、まるでその人本人かのように優し気な瞳でカップを見つめる。恐らく、芽唯の前に出されているカップがその揃いの品なのだろう。色違いで全く同じデザインだ。
まだ見ぬレオナの奥方のカップを勝手に使う罪悪感で、芽唯は出された紅茶を飲む気がまったく起きなかった。
「まだわからないのか?」
傷のある方の瞳を眇め、口角を上げたレオナは一音一音ゆっくりと告げる。
「ここはな、未来だよ」
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