02
ぱち、っと数度瞳を瞬かせた芽唯を見たままレオナはニヤニヤと笑う。
「えっと……冗談……」
「だと思うか?」
ひらりと手を振るのは指輪を見せつけるためだろう。
「……つまり未来だからレオナ先輩は結婚してて、もう学校も卒業してお仕事をしていたと?」
「そう言ってんだろ」
もう一度カップを持ち上げたレオナは最後の一滴まで飲み干すかのように仰ぎ飲む。仕方がなく芽唯も自分を落ち着かせるために揃いだというカップを手に取った。
彼の言葉を鵜呑みにするなら、あのレオナが未来では結婚をして、しかもお相手のことは所謂ペア物を購入して好んで使っている程度には想っているということだ。
「そう、ですか……」
芽唯はぽつりと溢したのが自分でも何への返事なのかはわからなかった。
未来だと告げられたことになのか、彼にそういう相手が出来たことに向けたのか。
ただ、己の心に暗い影がさしたことだけはわかった。
苦しくなるほど胸が締め付けられて、でもどこか安堵にも似たようなものがあって。
きっと彼が柔らかくなったように感じたのはその人物……妻のおかげなのだろう。どこか穏やかで、余裕があって、もしかしたらレオナは元々こういう人物なのかもしれない。
ただ周囲の悪意に晒され続け、夢も叶うはずがないと諦めて。そんなささくれだったレオナの心を彼の妻が溶かしてくれたに違いない。
「未来……か、道理でさっき見かけたレオナ先輩と全然違うはずですね」
きっと授業をサボって運悪く鏡の搬入に鉢合わせたレオナは苦虫を噛み潰したように最悪だという感情を隠しもせずに業者とクロウリーを睨みつけていた。
数個年上なはずなのに、そんなところがたまに可愛く見えて。けれど目の前のレオナは絵に描いたような大人のそれだ。
突然現れた過去から来た知り合いを笑って受け入れ、本人が自覚していない状況を冷静に分析して。
言われた本人は受け止めきれずに四苦八苦しているというのに、何を言うでもなく落ち着くまでゆったりと構えて次の言葉を待ってくれている。
「未来……」
確かめるようにもう一度舌の上で転がせば、飲み込んでいる温かい紅茶に反してどこかで心が冷えていく。
祝いたいのに、素敵な人が見つかってよかったですねと笑顔を向けたいのに、苦しくて溺れてしまいそうだ。
紅茶を飲むふりをしてカップの水面を覗き込んで、レオナの顔を見ないようにする。
誰と結婚したんだろうか。自分が知ってる……女性はこの世界にいないのできっと知らない人だ。
「何か問題でもあったか?」
「い、いえ! あ、えっと、どうやったら帰れるのかな……とは」
「そりゃ同じ道からに決まってるだろ」
「ってことは……あの姿見?」
「……奥の部屋のを言っているのか」
スッと動いたレオナのサマーグリーンの瞳は壁越しにあの部屋の位置を見ているのだろう。建物内の位置関係は広すぎてさっぱりだが、その瞳は確実に壁の向こうに何かを見ていた。
「随分大きな姿見ですよね。あれも奥さんの……?」
「いや、俺とアイツ二人のもんだ。……大事な鏡なんだ」
「へぇ……本当に仲がいいんですね」
大事、と言う割にはどこか敵意も感じた気がするが芽唯はそれ以上深くは聞こうと思わなかった。
「……まさか、あの姿見から出てきたのか?」
「そう、ですけど。……触れはしましたけど別に傷は付けてませんよ。でも、どこかに繋がってる感じもしませんでした」
「そうか……」
ふむ、とレオナは何かを考え出す。
帰る方法を思案してくれていると良いのだが、なんとなく嫌な予感がする。
そんな芽唯の考えを肯定するようにレオナはやはり口角を上げ、ニヤリと笑った。
「ならしょうがねえ、しばらくウチに置いてやるよ」
楽しそうなその顔は、むしろこの状況を喜んでいるようにしか見えない。もちろん芽唯にとって悪い意味でだ。
出来れば早く元の時代に帰りたかった芽唯は消え入りそうなくらい小さな声で感謝の言葉を口にした。
獣人の耳はそれでも十分聞き取れたのか、ピクピクと楽しそうに音を拾って、返事の代わりにレオナの唇が静かに弧を描いた。
◇◆◇
屋敷の中はとにかく広い。
以前レオナがラギーの実家写真を見て犬小屋と称したことがあると聞いてはいたが、たしかにこのスケールの家に住んでいたなら感覚が狂っているのも仕方ないように思えた。
当然キッチンも広々としていて、大半の調理器具が揃っている。料理担当は召使いだろうか。レオナの舌を満足させるのは大変に違いない。
なにせ彼は肉以外の注文をしてくれない上に、舌も肥えている。栄養バランスを考えながら必ず肉料理というのは毎日彼の昼食を作っているので苦労は身に染みている。
「あ……レオナ先輩明日からお昼大丈夫かな……」
「飯?」
「あ、と……えと、過去のレオナ先輩のことで」
「……、ラギーがなんとかすんだろ。お前が居なくなったのは周知の事実なんだから」
「それもそう、……ですね」
一瞬レオナは目を瞬いたものの自分のことではないとわかると頷いてなんでもないように言ってのけた。
確かに芽唯が鏡を抜けてどこかに消えたことは、行き先はわかってなくても多くの人……レオナ自身も目撃している。
常識的に考えれば、消えた人物の捜索は学園の責任者であるクロウリーや教師に丸投げで、自分の予定から芽唯が抜けて困る部分の穴埋めをどうするか考えている頃合いだろう。
もしかしたらお昼のことなんてすっかり忘れて自分の身を案じてくれているかも、などとは芽唯には夢でも思えない。
少し前まで見つめる瞳が優しくて、甘やかで、自分と同じ想いを抱いてくれているかもと期待していなかったと言えば嘘になる。
けれど、未来のレオナはおそらく自分ではない誰かと添い遂げ、その人のことを間違いなく愛している。
きっと目の前のレオナの中では芽唯は二つの意味で過去の存在だ。
数年前から来た人物で、そして当時なんとなく目をかけてやった後輩。古い思い出の中の人物がそのままの姿で目に前に現れた、くらいの感覚に違いない。
「あの、本当に今回のことって覚えてないんですか?」
「さっきも言ったろ、記憶にないって」
何故なら、レオナに問いかけても返ってくる返事がこうなのだから。
屋敷の中を案内されながら、未来の人間なら芽唯にとっての今を過去に体験しているはずと度々当時のことを覚えていないのか問いかけてみた。
しかし、レオナは悩むそぶりも見せずに毎度一刀両断。きっとレオナにとっては芽唯が一時的に消えても記憶に残らない程度の出来事だったのだろう。
彼の中での自分の存在価値が透けて見え、帰り方がわからないこと以上にショックを受けたのは芽唯だけの秘密だ。
「それにしても、ちょっとややこしいですよね。どっちも私にとってはレオナ先輩なんですけど、混ざっちゃうというか」
学生のレオナも、目の前にいる未来のレオナも間違いなく芽唯の先輩であるレオナだ。故に呼び方がダブってしまう。
「変えたほうがいいですかね。例えばレオナさん……とか」
未来のレオナはもう学生ではない。ならば学生であるレオナを先輩と呼び、目の前の彼には普通に敬称をつけるのが自然な気がする。
学園に戻った際、間違えて過去のレオナを敬称で呼んでしまうのを避けたいという個人的な理由もあるのだが。
「レオナさん……ねぇ。……いや、だめだ。お前にそう呼ばれんのは変な気分になる」
「へ、変……⁉︎」
「昔の俺のことなんて話す必要なんてないだろ。いつも通り呼べ。どうしてもっていうなら過去の俺を呼ぶ時だけ前後にでも補足を入れりゃそれでいいだろ」
「わかりました……」
どうしても嫌だったのか、口を挟む暇もなくレオナはそう告げる。
渋々納得した芽唯が屋敷の説明を続けるレオナの後ろにいると時折召使いがすれ違い、彼らは何も言わずただ頭を下げる。
既に芽唯のことは全員に伝わっているらしく、誰も芽唯の存在を咎めはしないが時折好奇の視線が送られていることはわかる。レオナは一体どんな説明をしたのだろうか。
もしくはナイトレイブンカレッジに本来存在しないはずの女生徒の制服が彼らの好奇心を駆り立ててしまうのかもしれない。
「レオナ先輩、申し訳ないんですけどお洋服ってお借りできますか?」
「服か……そういや制服のままだったな。戻るまで過ごすなら変えも必要だな。すぐに用意させる」
「すみません……お世話になります」
無一文でこの世界に飛ばされて、慣れてきたと思ったらまた無一文で今度は未来に飛ばされて。
そういう星の下に生まれてしまったのだと自身を納得させるしかないくらいに困りごとと縁がありすぎる。
「鞄持ってたらお財布あったんですけど……」
「んなもん気にすんな、どうせアイツのだ」
「アイツ……ってもしかして奥さん? 着れるんですか?」
「はぁ? どういう意味だよ」
「だってレオナ先輩の奥さんでしょう……?」
こてんと首を傾げた芽唯にレオナも同じように首を傾げる。
傍で控えていた召使いが同じ動きをする二人に少し笑い声を漏らすと芽唯がぎこちなく口を開く。
「だって……きっと先輩の奥さんってスタイルとか良かったり……」
あのレオナが選ぶ、彼の隣に並び立つ女性。
誰もが羨む美貌を持っていて、スタイルも抜群で、きっと頭もいいだろう。レオナは善悪を問わず頭の回転が早い人間を気にいる傾向にある。ずる賢く生きることを賞賛する人間だ。
芽唯はレオナが好む女性像というのを兼ねてより想像していたのもあって眉間にきゅっと皺を寄せる。
そんな人の服が自分に似合うと思えない。見た目的にも、スタイル的にも。胸元がガバガバだった日には立ち直れなくなりそうだ。
「お前、例えばどんな女を想像してるんだ?」
「例えば……」
なんと言葉にするのがいいだろう。グラマラス、……抽象的だ。美人でも、スタイルがいいでもレオナは納得しないだろう。イマジネーションがなんだと想像力を掻き立てることを魔法士は重視する。
もっと的確に、わかりやすいイメージを上げるとするのなら。
「……女性版レオナ先輩……みたいな」
「ぶっ」
「わ、笑わないでください! だって、だっ、そんな感じなんですもん!」
色気があってスタイルが良くて、頭が良くて。
そんな人物を抽象的な言葉以外で表現するならそれしか芽唯の頭には浮かばなかった。それに、そんな人が相手なら芽唯はひっくり返っても勝てやしない。諦めはつかないかもしれないが、敗北は簡単に認められるだろう。
「く、はは……! おまえ、さては俺を笑い死にさせるために来たんだな?」
肩を震わせながら笑い続けるレオナはたしかに苦しそうで、いっそ「そうです」とでも言ってやろうかと思うくらいに笑い続ける。
「い、意地悪……」
ここが何年後の世界かはわからない。けれど、学生のレオナとあまり変わらない反応を見せられるとやはりあのレオナと同一人物だと納得できる。
「もう……笑いすぎです! 私でも着られる服を貸してください。お願いします!」
開き直って貸してもらう立場だというのに仁王立ちでそう言えば、漸くレオナは笑うのをやめ近くの召使いに目配せをする。頭を下げ、その場を去った彼女がきっと見繕ってくれるのだろう。
「あー、笑った……。ったく、笑いすぎて腹が減ったな。お前なんか作れよ」
「えっ……そういうのって召使いさんのお仕事なんじゃ?」
「まぁそういう日もあるが、大半はアイツが作ってた。流石に腹が膨らんできてからはやめさせてたがな」
「そう、なんですか……。……ってお腹が膨らんできたって……?」
「言ってなかったか? もうすぐガキが生まれる。今は出産に備えて入院中だから屋敷に居ないんだよ」
「そっ! れ、は……おめ、でとう、ございます」
ふわりとレオナの口元が緩む。きっと妻と、もうすぐ生まれる子供のことを考えたのだろう。
(奥さん、お料理するんだ……。しかも赤ちゃんがもうすぐ生まれるなんて)
いきなり与えられた情報に動揺しながらも芽唯は広々としたキッチンの方へと振り返る。
一般的な家庭の夫婦ならばどちらかが作って当然だろうが、こんな豪華なお屋敷でしかも召使いがいるような立場の人がキッチンに立つ姿が芽唯は一瞬想像出来なかった。
しかも、あのレオナがキッチンに立たせているということは彼の舌を満足させられる手料理が作れると言うことに他ならない。
(お料理上手……なんだろうな。比べられたくないな……)
学生のレオナは芽唯の手作り弁当を文句の一つも言わずに食べてくれる。
おいしいと言葉にしてもらえたことはないが、文句を言わないと言うことはそうなのだろうと受け止めていた。けれど、数年後の……今目の前にいるレオナは違うかもしれない。
大きなお腹を抱えた妻を心配し、キッチンに立たせるのをやめさせる程度には過保護に彼女のことを愛している。そんな人と学生時代の後輩に過ぎない自分の手料理を比べられて「アイツの方がうまいな」などと言われたら過去のレオナに弁当を作るのも怖くなってしまいそうだ。
「その……どうしても作らなきゃダメですか……?」
「いやなのか」
「えっと……そういうわけじゃないんですけど……」
適当な言い訳が思いつかない。視線を右往左往させながら思考を巡らせているとレオナは芽唯の後ろに周り肩を掴んで前に押し出す。
「久しぶりにお前の手料理が食いたい」
「はっ……い……」
びくっと肩が跳ねたのは気づかれただろう。聞いたこともない柔らかな声で、レオナはそう言って芽唯から離れた。
振り向けばニヤリといつもの猫のような笑みを浮かべて、指定席らしき椅子に腰を掛ける。
カウンターテーブル越しにキッチンの様子が見れるその場所はきっとレオナのお気に入りの場所なのだろう。
手を伸ばしてすぐの所には数冊の本が積まれているし、召使いの一人が慣れた様子で近くにグラスを置く。
(奥さんが料理してるのもああやって眺めてるのかな……)
オンボロ寮にたまに来るレオナはソファに寝転がり、夕食を共にするときも別段調理に興味を示したりはしなかった。
(なんか……やりにくい……)
多分、この感情は嫉妬だ。見たことがないレオナを見せつけられて、名前すら知らない彼の妻へのもやもやが膨れ上がる。
目に留まったエプロンを身に着けて、キッチンの前へと立った芽唯はあまりの気分の重さに深いため息を吐いた。
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