02
見知らぬ屋敷。見知らぬハイエナ。……見知らぬ妻。
記憶より少し歳を喰ったキファジや侍医の明るい笑い声が耳につく。
たった十年で変わらない、変えられないと思っていた世界がまったく違う形をしているのを受け止めきれない。
◇◆◇
迷うことなく寝室の場所を当てたレオナは芽唯をベッドの端に座らせると自身はベッドの上に転がり込む。
姿形だけ見ていればいつものレオナと変わらないのに中身は十五歳の少年だというのだから驚きだ。
「あの、一緒に居ていいの……?」
レオナに入れ替わりのことを聞いた時は、その期間は共に居られないことを覚悟していた。
幸いなことに最近は体調も安定しているし、レオナにしばらく頼れなくとも大丈夫だろうと思っていたのにこの状況はなんだろう。
寝る態勢に入っていたレオナは片目だけ開けて芽唯を見ると逆に不思議そうに首をかしげた。
「お前は俺の妻なんだろう。出ていく必要がどこにある」
「でも知らない人じゃないですか……? 近くに置いておくの嫌じゃない……?」
短時間で十年の歳月が過ぎている世界だということを受け入れているのが不思議でならない。普通ならもっと驚く場面じゃないだろうか。芽唯だって突然この世界に連れてこられた時にはそれはもう戸惑った。
レオナの場合同じ世界ではあるが、十年後で自分を取り巻く環境も変わっているのに簡単に受け入れている。目の前にいるレオナの気持ちが少し理解できない。
「屋敷から出ていけとでも命じられたいのか?」
「そうじゃないけど……」
「……胎にガキがいるやつにそんなことが言えるか。しかも俺の子なんだろ」
「えっ」
芽唯のお腹を一瞥したレオナはすぐに寝返りを打って背を向ける。けれど、その言葉に驚いた芽唯がベッドに上がって四つん這いになって体を揺すればすぐに振り返る。
「な、なんでわかったの? 私まだ何も言ってないのに」
「……それこそ、匂いでわかる。少し前までの義姉貴と同じだ。二つの匂いが混ざってる」
瞳を伏せたレオナはどこか疲れた声で言うと複雑そうに眉間に皴を寄せそのまま黙ってしまう。
「少し前の……あっ」
そうか、レオナが十五の年にチェカが生まれた。
思わず声がこぼれた芽唯は慌てて自分の口を塞ぐと自分のまだ膨らみはないが命を宿したお腹を撫でてからまた向けられてしまった背中をじっと見る。
(レオナさん、チェカくんが生まれてからナイトレイブンカレッジに通うことにしたんだっけ……)
かつてレオナが語ってくれた入学を決めたきっかけ。次代の王になるチェカが生まれたことで『王宮にいる旨味がなくなった』と言っていたが、もう少し経った頃に別の話を聞かされた。
どんなに努力をしても認められない。王にもなれない。そんな現実から逃げるように、疲れた思考を閉ざすようにナイトレイブンカレッジに通うことを決めた。
それは逃げだった。辛いことを遠ざけている自覚はあった。それでも近くにあるよりずっと心が楽になった……と。
「もしかして、だから手を引いてくれたんですか?」
レオナが手を振り払わないどころか、離した後も自分から握ってくれたことが不思議だった。
別にあの部屋に置いていかれてもおかしくなかったはずだ。
妻など知らないと、自分には関係がないのだと無視をされても……流石に酷いことはされないだろうが、相手にされない覚悟はあった。
「……身重の妻を放置するなんて俺は許さないだろうからな。自分に喧嘩を売る趣味はない」
渋々といった様子を隠すことなく告げるレオナの背がやけに小さく見える。
(戸惑いはやっぱりあるよね……)
チェカが生まれた直後なら猶更だろう。
義姉の少しずつ膨らむお腹はレオナがもう王になれないことを決定づける証拠のようなものだ。
ずっと、ずっと、新たな王が生まれる日を待ち望む国中に反した思いをレオナは抱えていたかもしれない。
そんな義姉と同じく『新しい命を孕んだ未来の自分の妻』にレオナがどんな感情を持つかなんて想像ができない。
「……ありがとう、レオナくん」
それでも、レオナはいろんなことを短時間で受け止め芽唯の手を取ってくれた。
レオナの優しさに胸が熱くなる。
大きいのに小さな背中が居心地悪そうに呼吸に合わせて上下するのをじっと見つめているだけで何故か幸せだった。
◇◆◇
仕事がなく、事情が事情なので遠慮しているのか義兄夫婦からの接触もない。
入れ替わっているとは思えないほどいつも通り寝て過ごすレオナの近くで同じく普段通りに過ごしていた芽唯はしばらく触れられていなかったスクラップ作りに集中していた。
記事にされるほどレオナが取り組めている事業はそれほど多くない。夕焼けの草原という国の在り方は相変わらずで、大きな改革は受け入れてくれないからだ。
発展するのは国の中心ばかりで端に行けば行くほど自然と寄り添った生き方を望む。
細かく分類すれば多数の種族が住んでいるのも発展が遅い理由の一つだ。ヒト属、獣人属の大きな括り以上にライオンの獣人、ハイエナの獣人、ゾウにサイに……挙げていけばキリがないほど夕焼けの草原は他種族国家だ。
種族が違えば価値観にも相違が出る。それをまとめあげるのは簡単じゃない。
それでもレオナは兄をはじめとした国の上層部を皮切りに、少しずつ自分の考えを実現しないかと説得を続けた。
根気強く続けなければ実らない仕事だ。何十年と時間をかけてようやく芽を出すものもあるだろう。もちろん無駄になることも多くある。それでも完全に報われない努力ではない。
頭が固すぎる、わかっていない、時代遅れと悪態をつくこともあるけれど、一歩でも前進できた時のレオナの写真からはメディアが語る何十倍もの喜びが伝わってくる。
「それは俺か?」
「わっ、びっくりした!」
切り取ろうとした新聞記事を見つめていれば後ろから声がかかる。
肩を跳ねさせた芽唯に気まずそうにしたレオナはすぐ隣に座ると不思議そうに新聞全体に目を滑らせる。
「……変わらねぇな、この国は。本当に十年後なのか?」
「でも、少しずつ変わってますよ。まだ形になってないだけで」
そうでなければレオナのことを記した記事だけで作り上げたファイルがこんなに分厚くなっていない。
十五歳のレオナが知らないことばかりであろうスクラップファイルを片手に微笑めばレオナが眉根を寄せながら首をかしげる。
「お前は…………。いや、やっぱいい。飯は?」
何かを言いかけたレオナは口を噤むとやはりいつものレオナと変わらない言葉を口にする。
「ふふ、お肉いっぱいで用意しましたよ」
「用意した? お前が作ったのか?」
「はい。だって、レオナさんが朝そう言って出て行ったんですもん」
晩飯はいつもより肉を多めにしてくれ、と珍しくねだるレオナのために朝から考えていたとっておきのメニューだ。
自分が入れ替わることを想定していたのか、それとも本人が食べたかったのかは今となってはわからないが、レオナが昔から好むものを用意したので、十五歳のレオナでも野菜以外は喜んで食べてくれるだろう。
普段のレオナなら多少野菜を混ぜても「健康のためです」と押し切れば食べてくれるのだが、このレオナには難しい話だ。
あれは自分を好いてくれているからこそ。こちらの気持ちを無下にしないために嫌いな野菜を口にしてくれているのを芽唯は知っている。
「そうか」
何故か一瞬顔をしかめたレオナは当然のように芽唯の手を取り部屋を出る。
「レオナさん……あ、旦那さんの方ですよ。レオナさんは気に入ってくれてるんですけど、お口に合うかなぁ」
レオナは幼少の頃から好きだという飴をいまだに好んで買っているので味覚に大きな変化はないとは思う。
けれど、学生時代から芽唯の手料理を食べていたからこそ慣れた味というのも多少なりあるだろう。
「別にそこまで心配しなくてもいい。合わなくても作り直せなんて言わねぇよ」
「そう、ですか」
それは嫌いな味でも食べてくれるってこと?とは流石に聞けなかった。
隣に並び立つとレオナの視線がこちらに向く。見た目はいつもと変わらないのに、どこか雰囲気が違うのは中身が違うせいだろう。それに気づくのは芽唯だけなのかもしれないが。
じっと彼を観察しながら歩くと「前を見ろ」とレオナが顎で前方を示す。
「心配しなくても大丈夫ですよ?」
「少しでも目を離したら転びそうだ」
「……レオナさんと同じこと言う」
実は入れ替わってないんじゃないかと疑問が過るがいつものレオナよりは距離があるのでそれはないだろう。普段のレオナなら手を握るどころか腰に手を回してくる。
もう一度芽唯を見つめたレオナは特に何も返さず広い屋敷をまた突き進む。
キッチンから食事の香りがするからだろう。また迷うことなく目的の場所に着いたレオナは椅子を引いて芽唯を先に座らせてから迷いながらも正面の席に座る。
内心、一緒に食べてくれることに驚いたが他に席がないので当然かと思い直す。ここはレオナと芽唯の屋敷で、大抵の物は探して出してこなければ二人分しか用意されていない。
「本当に俺たちだけの屋敷……なのか」
「はい。レオナさんが一緒に住むために用意してくれたんです」
「……そうか」
きっと十五歳のレオナはこの屋敷がどこに建っているのかも想像できない。
ましてや自分が迎えた妻を想って作らせた部屋ばかりなど信じてくれるだろうか。
手持無沙汰にリビングを見渡したレオナは傍らのキッチンを見るとせっせと働いているシェフを見て首をかしげる。
「なんでお前が作ったんだ」
「え? あぁ、シェフがいるのにってこと?」
こくり、とレオナが頷く。
「私が作ったものレオナさんに食べてもらうのが好きだから。……使用人の仕事を奪うな、ってレオナさんにいつも怒られちゃうんだけど」
それにレオナも芽唯の手料理が好きだから。というのはあえて言わなかった。
未来のレオナが好きというのを過去の存在である十五歳のレオナに押し付けてしまいそうだったから。
「そうか」
レオナらしくない歯切れの悪い返事が続く。
芽唯が作っておいた料理を温め直したシェフが運んできても、食事に手を付けてもレオナはそのまま何も言わなかった。
◇◆◇
「メイくん、レオナさんどうッスか?」
食卓とは別に来客用に用意してあるソファで向かい合って座るとラギーが小声で訊ねる。
夕食後に現れたラギーはレオナに用事かと思ったが芽唯に話があるらしく、リビングに芽唯を残してレオナはひとり先に部屋へと戻ってしまった。
「どうって言われても、ご飯の前までずっと寝てましたから……」
普段と違って壁は多少感じるが、今のレオナにしてみればいくら妻だと言われても芽唯は見知らぬ女性なのだから仕方がない。
「酷いこと言われてない? されてない? 後で戻った時にレオナさんがショック受けたりしない?」
「ラギー先輩、レオナくんのことなんだと思ってるんですか?」
「ささくれだらけの十五歳ッス」
「もう……」
尖っているお年頃……というよりは芽唯が気にかけている通りチェカが生まれた頃のレオナだから、だろう。きっとキファジ辺りにでも何か聞いたに違いない。
「今のところは特になにもありませんよ。ちょっと冷たいかもなぁとは思うけど、言われなかったら入れ替わってるなんて気づかないかも」
「まさか。メイくんの場合『なんで隠そうとしたんですか!』ってすぐに気づいて怒ってくるのが目に浮かぶッス」
「そんなこと……あるかも」
レオナのことを隠されるのは嫌いだ。それが悪いことならなおのこと。
「レオナさんに事前に聞かされてたって言ってたッスけど、どれくらいで戻るとかは知ってんの?」
「いいえ。ただ『一時的に昔の俺と精神が入れ替わる日が来る。すぐ戻るから慌てて転ぶんじゃねぇぞ』としか」
何故かムッとしてそれだけ告げたレオナに苦しいほど抱きしめられたのはちょうど妊娠がわかった頃だ。
レオナのことを疑っていたわけではないが、まさか入れ替わりの原因が襲われたからとは思っておらず、キファジに知らされた時は無我夢中で駆け……早歩きしてしまった。
「レオナさん今頃向こうでなにしてるんスかねぇ」
十五歳のレオナが慣れない未来の環境に戸惑っているのと同様に、二十五歳のレオナの精神は今頃懐かしい過去の世界に触れているはず。
「そういえば、この魔法での入れ替わりって記憶とかどうなっちゃうんだろう」
夫であるレオナは何故か入れ替わることを知っていたが、学園で初めてあった時のレオナは芽唯のことを知っている様子はなかった。
もしかしたらあの鏡≠フように異なる時代に行った場合、現地で得た記憶を消さなければ元の時代に戻れないなど制約があるのだろうか。だが、それなら何故十五歳のレオナが知らないことを二十五歳のレオナは知っているのか。
「わからないことだらけですね」
夫のレオナが何をしているのか、十五歳のレオナが何を考えているのか。
尽きない疑問に芽唯が首をかしげればラギーが大きく息を吐く。
「まあ、でもレオナさんが戻るって言ってたんならそんな大事にはならないっしょ。メイくんは自分の体を優先して考えて。アンタひとりの身体じゃないんスから」
お決まりのように吐かれたフレーズにクスリと笑みが漏れる。
「なんか、それ旦那さんの台詞みたい」
「ちょっ勘弁して! レオナさんにぜってー聞かれたくない言葉第一位ッス!」
「ふふ……ごめんなさい」
お腹をそっと撫でても愛しい我が子はまだなんの反応もない。
所謂胎動というものを感じるのはもう少し先になる。
「パパ、元気だといいね」
レオナなら何不自由ないどころか、この状況を利用してそうな気もするが、彼の心に触れられない以上思いを馳せるしかない。
だが、なによりも──。
「今はレオナくんのことを一番に考えなきゃ」
彼は寝室でまた寝ているのだろうか。
十五歳のレオナが何を考えているのか芽唯にはまだわからない。
けれど、どうせそのうち戻るのだからとあのレオナとの交流を蔑ろにはしたくなかった。むしろ、もっと知りたいとすら思う。
「ほんっとメイくんはレオナさんのこと大好きッスね」
少し呆れたように目を細めたラギーに芽唯は満面の笑みを向ける。
「はい!」
「あーあー、聞かなきゃよかった」
学生の頃ならいざ知らず、今の芽唯はレオナへ向ける気持ちを隠すことはない。
肩を竦めたラギーは息を吐きだしながら芽唯の後ろを見てゆるりと口角を上げた。
←前へ 次へ→