02
飛行術の授業の横で芽唯は筋トレに励んでいた。
魔法が使えない芽唯が箒に跨ったところで何も出来ない。なので、代わりにとバルガスの出した案は彼から見える範囲での基礎トレーニングによる体力作りだった。
他の生徒たちが優雅に空を楽しむ間、地べたに這い蹲って腹筋、腕立て、ランニング……。
一人で出来る単純なトレーニングに励むのはなんだかみじめな気持ちになった。
よく晴れた空に高々と舞い上がる他の生徒たちを恨めしく見つめても飛べるわけでもないが、それでも見上げずにはいられない。
「いいなぁ……」
エース達が上手く飛べるようになったら一緒に飛ぼうとは言ってくれたが、それもいつになることやら。
グリムの箒は彼の気まぐれな性格を考えると、たとえ上手になったとしても一緒に乗りたいとは思えないが。
「なぁなぁメイ! ちょっと見ててくれよ」
「ど、どうしたの?」
名を呼ばれ、声の方へと振り向けば、箒を片手に駆け寄ってくるエースとデュースは妙に鼻息が荒く、思わず二、三歩後ろに下がるが彼らはそれを気にする様子はない。
「見てろ〜。レオナ先輩の真似!」
二人は同時にジャンプしたかと思えば、浮かび上がった箒の上に両足で立つ。
確かにそれはレオナがよくやる乗り方だった。だが二人の飛ぶ姿はどこか安定感がなく、ぐらぐらと揺れる体は今にも後ろにひっくり返ってしまいそうだ。
「ちょっと! 危ない、危ないから!」
「大丈夫だって! って、うわっ⁉」
へらへらと笑っていたエースだったが、案の定バランスを崩して後ろに倒れてしまう。
ドスンッと背中から落ちたエースはいてて……と腰を抑えて蹲る。
「ほら、だから言ったのに!」
「大丈夫か?」
一歩遅れて箒から降りたデュースがエースの顔を心配そうに覗き込んで片手を差し出せば、大人しくその手に引き起こされて立ち上がり、同じく心配そうに自分を見つめていた芽唯を安心させるようにわざとらしく口角を上げてへらへらとエースは笑う。
「へーき、へーき」
腰を擦るのを見るに痛みが無いようには思えないが、保健室に行くほどではなさそうで芽唯は安堵の息を零す。
「あ、そういやグリムがさ。おまえのこと乗せて飛びたいって」
「えっ」
あっちで待ってるとエースが指さした方向で「おーい子分〜!早く来るんだゾー!」と芽唯の小さな相棒が手を振っている。体に合わない大きな箒を持つ姿は愛らしいが、背筋に冷や汗が流れ出る。
「ふ、たりから見てグリムって……どう?」
不安だから乗りたくない、とストレートに言う勇気はなく、やめておいた方がいいと言われるのを期待して聞いてみる。あわよくば、二人からも止めて欲しい。そんな願いも乗せた言葉だった。
芽唯の問いかけに二人は少し悩むそぶりを見せたものの、その表情は曇ることはなく、返ってくる答えは期待と反することだけは明白だった。
「意外に思うかもしれないが、僕たちと同じくらい乗れてる。もしかしたら少し上手いくらいかもしれないな」
「あいつ身体小さいしなぁ。オレ達よりバランス取るのも箒浮かすのも楽なんじゃね?」
顔を見合わせてうんうんと頷く二人に逃げられない空気を感じた芽唯は、初めはどうにか逃れるすべはないのかと視線を右往左往させたものの、意を決してグリムの元へと移動した。マブ達が味方になってくれない時点で芽唯には抗う手段など存在しない。
小さな体で柄の長い箒を支える姿は近くで見るとなおのこと可愛らしいが、彼に命を預けたいかと言われれば迷わず首を横に振る。
「遅せぇんだゾ! おまえいつも羨ましそうな顔してたから飛びたかったんだろ? 親分であるオレ様がその願い叶えてやるんだゾ!」
だから今夜は高級ツナ缶寄越すんだゾ!なんて褒美の要求までしてくるちゃっかりした相棒にため息が零れる。不安しかない。
「本当に飛べるの? バルガス先生に許可は取ったの?」
「んなもんいらねぇんだゾ! あいつ、オレ様のこと呑み込みが早いなって褒めてたし、許可もらったみたいなもんだゾ!」
「えぇ……」
「ごちゃごちゃ言ってないで早く跨るんだゾ!」
ぐいぐいと箒を押し付けられ、ここまで来たら覚悟を決めるしかないと悟った芽唯は言われるがまま箒に跨る。みんなが乗っていた姿を見様見真似で再現してみると、グリムが自分も乗せろと手を伸ばしてくるので抱き上げて前に座らせた。
こんな小さな身体で本当に一人と一匹を浮かばせることが出来るのだろうか。決してグリムの力を信じていないわけではないが、普段彼の起こすあらゆるトラブルに巻き込まれている身として、どうにも疑ってかかってしまう。
「おーっし行くんだゾー‼」
「お、おー?」
小さな腕を突き上げるグリムに倣い、芽唯も片腕を空に向かって突き上げた。
何やってんだあいつ、と一人と一匹の様子を見守っていたエースの声が聞こえた気がしたが聞こえないふりをした。
不安と恐怖と、色々な感情に押しつぶされそうなのに周囲の反応など気にする余裕などない。何が起きても大丈夫なよう、箒の柄を強く握りしめていると足元に違和感を覚え、芽唯は瞳を瞬かせる。
「う、浮いてる?」
ふわりと身体が宙に浮く感覚。グリムの合図と共に既に箒は浮かび上がっていた。
しかし、やはり自分以外の重さを支えるのはつらいものがあるのか、中々高さが出てこない。
「おまえ、重いんだゾ……!」
「おもっ⁉ も、もういいから。やめようよ、ね?」
ぬぐぐぐ、唸り声をあげながらグリムは魔力を箒に込めているのか、集中していて聞く耳を持たない。
「オレ様絶対お前と飛ぶって決めてたんだゾ!」
その気持ちだけ受け取って是非空の旅は辞退させて頂きたいのだが、グリムは芽唯の制止する声も聞かずにより高く飛び上がるため、さらに箒に魔力を注ぐ。
すると、始めは数センチほどしか浮いていなかった箒が授業中に時折見かける高さまで舞い上がった。
眼前に広がる青空。同じ高さを飛ぶ鳥。
地上を歩いていては決して見ることができない光景がそこにある。
「お、上手くいったじゃん!」
「いいぞグリム、その調子だ!」
遠くから見守っていた二人が駆け寄ってきてグリムに声をかける。褒められた本人は賛辞の言葉に気分が良くなったのか、グリムは鼻の下を自慢げにこすっては胸を張った。
「へっへーん、当然なんだゾ」
風が周囲を駆け巡る。足は当然何にも触れず、以前スカラビアで体験した魔法の絨毯とはまた違った浮遊感に胸が高鳴る。
「すごい……本当に飛んでる! ありがとう、グリム。今日ちょっとご飯豪華にするね」
「やったー!」
想像すらしなかった高さから見下ろす学園内の景色はまるで知らない場所のようだ。生い茂る草木の向こうに見える朱色の屋根はサムの店のものだろうか。
芽唯は感嘆の息を漏らすと、得意げな相棒の成長が嬉しくて小さな頭を撫でてやる。箒から手を離しているのが少し怖くてすぐ手を戻してしまったが、地上に降りたらもう一度誉めてあげよう。
「おい! 何をやっている!」
周囲を見渡し、景色に見とれていた芽唯が大きな声にびくりと肩を震わせると、目の前のグリムは大きくのけぞり小さな足をバタバタと焦ったように揺らす。良くないことが始まった気配を察した芽唯は強く箒の柄を握りなおすとグリムの言葉に耳を傾けた。
「げっ、バルガスに見つかったんだゾ!」
「お前に二人乗りなんてまだ早い! 監督生が危ないだろう! 降りてこい!」
運動場に視線を戻せば声を荒げるバルガスの姿が目に入り芽唯は胃がぎゅっと縮こまるのを感じ、小さな相棒を今日も制することが出来なかったと下唇を噛み締める。
「やっぱりダメだったんじゃない!」
どうしよう、これではまた罰則を受けるかもしれない。
やはり許可が下りていないという時点で止めるべきだった。今更反省しても遅いのだが、流されやすい自分の性格に後悔がどこまでも尽きない。
「う、うるせー! 行くんだゾ子分!」
「行くってどこに⁉」
叫びだしたグリムに戸惑う芽唯。そんなことは露知らず、グリムが再び箒に魔力を込める。
「ダメ、グリム止まっ……きゃっ!」
がくん、と大きく箒が揺れる。咄嗟に身を縮こませ空気抵抗を抑えようとするが初めての飛行術。箒にしがみつき、跨っているのでやっとで目を開けることすら出来そうにない。
「メイ⁉ 待て、グリム! メイをどこに連れて行く気だ!」
「やっべ! 待てってグリム! 落ち着けよ!」
どうにか顔を上げればグリムは正面をまっすぐ見据え──目的があるとは到底思えないが──どこかに向かおうとしていることだけはわかった。芽唯はおろか、デュースやエースの制止する声も聞こえていないのか、浮いているだけだった箒は急発進したまま、ぐんぐんスピードを上げ運動場の空を自由に飛び回る。
「ひっ……」
こんなスピードを出した箒はマジフト大会でくらいしか見たことがなかった芽唯は息を飲む。恐怖のあまり青ざめていく芽唯とは裏腹に、楽しくなってきたグリムはもっともっとと速さを求めた。
すっかり遠くなってしまった芝生の上では騒ぎに気づいた生徒達が上空を見上げて何かを話しているようだ。彼らがどんな話をしているのかもわからない芽唯は興奮しきった相棒を宥めることに意識を集中する。
「ね、ねぇお願いグリム、今すぐ下に降りよう? 今なら先生も反省文くらいで許してくれるかも」
「ぜってぇ嫌なんだゾ!」
「グリム!」
駄々っ子のように暴れるグリムに連動して箒の動きも激しいものに変わっていく。ぐらぐらと揺れる視界に芽唯はさーっと血の気が引いていくのを感じた。
───落ちる。
このままでは間違いなく落下は免れない。そう直感が告げていた。
「お、落ち着いてグリム……。お願い、お願いだから……っ」
しかしグリムを宥めるのが難しいどころか、芽唯自身は最初から箒にしがみ付いているのでやっとの状態だ。手も足も出ないとはまさにこのことだろう。
いつ振り落とされてもおかしくない状況に最悪の事態を想像する。
恐らく運動場に居る全員がこの状況には気付いているだろうし、誰かが助けてくれるかもしれない。
でも、もし誰も助けてくれなかったら?
この高さから落ちたらまず助からないだろう。それほどまでに箒は空高く飛び上がっていた。
「いい加減にしないかっ‼」
「ふなっ⁉ 追いかけてきやがったな!」
この状況下で操縦士であるグリムには余裕があるのか、後ろを振り向いて追いかけてきたバルガスを威嚇する。
高度を上げ続ける箒はジグザグと不規則な動きで追いかけてきたバルガスを翻弄するように飛び回る。元の世界に存在したジェットコースターでもこんな恐怖体験は出来ないだろう。しかも、この乗り物には安全ベルトなんてものは存在しない。今、芽唯の身を守る命綱はその細腕のみだ。
「監督生、手を離すなよ!」
「わか、わかってます! わかってます‼」
バルガスの叱咤する声に必死に返事をする芽唯だったが、言葉とは裏腹に、既に箒のスピードに耐え切れなくなった両腕は悲鳴を上げている。
気が付けば運動場は遙か彼方、二人を乗せた箒は止まることなく縦横無尽に空を飛び回る。
「ヒャッハー! めちゃくちゃ楽しいんだゾ! バルガスのやつオレ様の動きについてこられねぇみてぇだし、もしかしてオレ様めちゃくちゃ才能あるんじゃねぇか?」
「何バカなこと言ってるのグリム‼ お願いだから止まって‼」
必死な芽唯の言葉に耳を貸す気配がないグリムはさらに箒を加速させる。
このままでは学校外に飛び出してしまうのも時間の問題。断崖絶壁に囲まれた敷地から出てしまえば、本当に助からないだろうと震えが止まらない。
もう一度、グリムを止めようと芽唯が口を開こうとする。
だがその時、正面から大きな声が響いた。
「そこまでだ!」
「ンゲッ⁉ バルガス⁉ なんでオレ様より先に居るんだ⁉」
後方を飛んでいたはずのバルガスの姿にグリムは両目を大きく見開いた。
「教師であるこのオレがお前に劣るわけがないだろう! さぁ、そのまま突っ込んでこい!」
「ふなーっ! 捕まってたまるかー!」
「待って、ダメ! グリム!」
猛スピードで飛んでいた箒に急ブレーキをかけるグリムに芽唯の声は届かない。
案の定ガックンッと大きく箒が揺れ、その勢いでついに芽唯の手は箒から離れ、身体は空へと投げ出された。
「っ!」
「ふなっ⁉ 子分‼」
悲鳴に似たグリムの叫びに気付いたときには既に芽唯の身体は重力に引かれ、凄まじい速さで落下し始めていた。全ての臓物が浮かび上がるような不快感にぞくりと背筋を悪寒が走る。
「いやっ……グリ……っ!」
咄嗟に二人は手を伸ばしたが、あっという間に開いた互いの距離に息を飲む。
なんとかあの小さな手を取ることができないかともがく芽唯の努力は虚しく、一人と一匹の手は宙を掴んだ。
「子分―っ!」
グリムの叫び声が徐々に遠ざかる。
自分の体が風を切る音だけに世界を支配された芽唯はあまりの恐怖に目を強く閉じた。
あとどれくらいで自分の体は地面に叩きつけられるのだろうか。そもそもで落ちる先は地面なのか、真っ白になった頭では落ちた先がどこかなどわかるはずもなく、それにわかったところで助かるはずもない。
(誰か助けて……っ! エース、デュース…………レオナ先輩っ!)
走馬灯とでも呼ぶべきだろうか、頭をよぎったのは先程心配そうに自分を見上げていた友人二人。そして、この場にはいないレオナの姿だった。
じわりと目元から涙が滲み出る。怖い、助けて、今すぐ叫びたいのに喉は引き攣ったように痙攣するだけで音を出すことができない。
「…………っ!」
「……い、…………おい!」
訪れるであろう衝撃に怯え、身体を縮こませていると、不意に何かが己の腕を掴む感覚がして芽唯は目を見開いた。
「何してやがる、この馬鹿がっ!」
幻、だと思った。
死を眼前に付きつけられ、恐怖のあまりに作り出した都合のいい幻覚だと。
「レオ、ナ先輩……⁉」
いつもの余裕のある表情は身を顰め、焦りからか眉間に皺が寄っているレオナの姿に芽唯は我が目を疑った。
掴んだ腕を必死に引き寄せ、レオナは芽唯を腕の中に収めると安堵からか息を零した。ドクドクと脈打つ心臓に芽唯は自分がまだ生きていることを実感する。
顔を胸板に押し付けるように抱え込まれ、触れた耳が拾い上げる自分のものとはリズムが異なる鼓動が、温かい身体が、芽唯の全てを包み込む。
「な、なんで」
大人しく身を委ね、身動きが出来ないまま問いかければギリッと眉を吊り上げながらレオナが吼える。
「それはこっちの台詞だ! 魔法も使えないお前が箒で飛ぶだ? なに馬鹿なことやってやがる!」
「ご、ごめんなさい……」
当然のお叱りにしゅんっと項垂れるが、芽唯はいまだに目の前のレオナの存在が現実なのか、それとも恐怖が見せた幻なのかがわからなかった。
しかし、ぎゅっと身体を抱き寄せるレオナの腕の力強さがこれは現実なのだと教えてくれる。
自分は助かったのだ。外ならぬレオナのおかげで。
何故レオナがこの場に居るのか、どうやって追いついたのか。聞きたいことは山ほどあるが、現状を把握すればするほど、じわじわと熱くなっていく頬をまずはどうにか隠したい。
そうする他手段がなかったとはいえ、抱きかかえられ、想い人と体が密着している。見上げればすぐそこに顔がある。これ以上ないほどに自分の体温が上がっていくのを感じた芽唯は真っ赤になっているであろう顔を見られたくない一心で逃げ場を探した。
しかし、抱きかかえられた姿勢のままでは逃げ道がなかったので、仕方がなく芽唯はそのまま大人しくレオナの胸に顔を埋めた。
気のせいだとは思うが、自分と同じくらい、もしくはそれ以上にレオナの心臓の鼓動が早い。
思わず見上げれば、レオナの頬からはひとっ走りしてきたかのような汗が滴っている。
「あの、レオナ先輩どうしてここに……」
「……今日は寮のマジフト場が整備で使えねぇからこっちで部活することになってたんだよ」
少しずつ高度を下げながらレオナは落としてしまわないように芽唯を抱え直すとため息をつく。あんなに離れていたはずの運動場はもう目と鼻の先だ。
「わざわざ移動すんのも面倒だから運動場の近くで昼寝してたんだが、気が付きゃ馬鹿みてぇな騒ぎになってて目が覚めた」
まだ授業中なことを考えればレオナは午後の授業をサボったということだろう。
あれだけラギーが何度も授業に出るよう訴えていたのに。その気持ちを無下にしたレオナの行動を叱るべきだったが、助けてもらった手前、指摘するのは憚られ芽唯は言葉を飲み込んだ。
「どうせあの狸の仕業だろうが、お前が拒めばこんなことにはなってねぇよな?」
「おっしゃる通りです……。でも、あの、グリムを悪く言わないであげてください。私が前に飛びたいって言ったのを覚えてくれてて……」
「底抜けの馬鹿だな。落ちたら死んでる高さだぞ」
「うっ……」
苛立ちを隠そうとしないレオナに芽唯は肩を窄める。ぐうの根も出なくなった芽唯にレオナは鼻を鳴らすと、漸くグリムを捕まえ戻ってきたバルガスの姿に舌打ちをする。
「ちんたらしやがって……」
摘まみあげられ小さくなったグリムを見上げながらレオナが地面に足をつける。
「メイ! 大丈夫か⁉」
「怪我は⁉ どっか痛めてないか⁉」
ゆっくりと地面に降ろされた芽唯にエースとデュースが駆け寄ると、友人二人の姿を見て力が抜けたのか、芽唯はぐらりと足元から崩れ落ちてしまう。
咄嗟にレオナが支えればがたがたと脚を震わせてまるで生まれたての小鹿のようだ。
「だ、いじょうぶ……」
「って、全然そうは見えないんですけど?」
「腰抜けちゃった……あはは……」
「無理もない。遠すぎてほとんど見えてなかったんだが僕は正直もうだめだと思ったぞ」
乾いた笑い声を上げながら先程まで浮かんでいたであろう上空を見る。
本当にあの高さを飛んでいて、しかもそこから落下したのかと思うと一気に身体中の血液が下がっていくような感覚に襲われる。
それでもなんとか二人を安心させようと無理に口角を上げようとするが、青ざめた顔では説得力の欠片もない。
「ったく……。おい一年坊。こいつは連れてく。ラギーが来たら俺は今日部活休むって言っとけ」
「え⁉ ちょっとレオナ先輩⁉」
「きゃっ」
芽唯の膝裏に手を伸ばすと、そのまま抱え上げたレオナは二人に背を向けて歩き出す。いわゆるお姫様抱っこの形で抱き上げられた芽唯は慌ててレオナの首に手を回した。
「レオナ先輩どこに行くんですか⁉」
「お前この調子じゃ自分で満足に歩けないだろ。俺の部屋に行く」
「そんな⁉ 困ります!」
「言っておくが拒否権はねぇからな。足りない荷物はあとでラギーに持ってこさせる。今日はうちに泊まってけ」
なっ、まっ、パクパクと言葉になりきらない悲鳴が芽唯の口から洩れるのを無視して、レオナが彼女を連れ去っていくのをエースとデュースは止めることも出来ずにただ茫然と見送った。
抗議の声は全て無視され、芽唯を抱えたまま鏡をくぐると授業中ということもあり、無人のサバナクロー寮にずがずがとレオナは踏み込んだ。
彼の私室に着くなりベッドに降ろされた芽唯は居心地の悪さに視線を右往左往させる。
オクタヴィネルの騒動の時に一度は泊ったし、定期的に食事を作りに訪ねてはいるがこんな形で連れ込まれたのはもちろん初めてだった。
そんな芽唯には見向きもせず、レオナは風呂に入ってくると宣言すると部屋の奥へと姿を消してしまい、手持無沙汰になった芽唯は大人しくそのままベッドに横になる。
「……先輩の匂いがする」
先ほどまで彼の腕の中で感じていたのと同じ匂いがする寝具に身を包まれていると何故か落ち着いてくる。
グリムの箒に乗せられてから怒涛の展開に目が回る思いだった芽唯は、瞼を閉じると自分の意識が沈むように落ちていくのを感じながら眠りについた。
「ん……」
もぞもぞと身じろぎをした芽唯は鼻孔を擽る匂いに釣られて静かに目を開く。
「あ、お目覚めッスか。オヒメサマ」
「ラギー……先輩……?」
シシシ、と笑うラギーに芽唯は首を傾げる。どうしてラギーが自室にいるのかと問いかけそうになった芽唯だったが、自分の状況を思い出して居住まいを慌てて正す。
「お、おはようございます!」
「はい、おはようさん。いやー、大変だったッスねぇ」
トレーに乗せられた料理をテーブルにおろしながら、芽唯の顔を見ることなくラギーは言葉を続ける。
「話はレオナさんに全部聞いたッス。あ、グリムくんはあのままお説教コースで、エースくん達から話を聞いたリドルくんがお冠らしくって、今日はハーツラビュルでお泊りらしいんで気にしなくて平気ッスよ」
「そう、ですか……」
日が暮れるどころか闇を纏った空を見る限り、かなりの時間寝てしまったようだ。本来今日は自分が夕飯を準備するはずだったのに、部活後に疲れた彼に申し訳なくて芽唯は肩を落とした。
「迷惑かけちゃったみたいでごめんなさい……」
「謝らなくていいッスよ。メイくん被害者だし? オレは働いたらその分の報酬はきっちり頂いてるんで」
ラギーの言葉は決して自分を励ますための嘘ではないと、それなりに長くなった付き合いの中で知っている芽唯はその言葉を聞いて幾分か胸が軽くなった。
「それにしてもオレも見たかったなぁ。メイくんのピンチに駆けつけるレオナさん。めっちゃ必死だったって聞いたッスよ」
「駆けつけるって……たまたまですよ。部活で運動場を使うことになってなければ、レオナ先輩があの場にいるわけないじゃないですか」
「ま、運動場を使うことになったのはホント偶然なんスけどね」
皿を並べ終え、コップに飲み物を注ぐとラギーは立ち上がって芽唯の隣に腰を下ろした。
「あの後部活じゃ大騒ぎ、『あんなマジの寮長、試合でも見たことがねぇ』って」
にんまりと口角を上げるラギーが何を意図しているのかはわからないが、確かにあの速さで飛んでいたグリムの箒にレオナが追いつくには相当の速度が必要だろう。
いくら近くで昼寝をしていたからとはいえ、芽唯が空から見下ろしたときにはレオナの姿など運動場には見えなかった。
だが、レオナにとってはそれくらい造作もないことなのではないだろうか。
箒を素早く飛ばす技術の理屈なんてわかるわけもなく芽唯は首を傾げた。
「シシシ、大事にされてるんだな〜程度に聞いといてもらえればいいッスよ」
「おい、ラギー。今日は随分舌がまわるじゃねぇか。晩飯と一緒に平たく伸ばして食ってやってもいいんだぜ?」
「げ、レオナさん……」
扉に背を預け、腕を組んだレオナは目を眇めラギーを見る。いつのまに戻ってきたのか、部屋の主の来訪に芽唯が慌ててベッドから降りようとするがレオナは片手でそれを制止する。
「あの、でも」
「黙って座ってろ。ラギーてめぇは降りろ」
「ちぇっ」
レオナに言われてラギーが立ち上がれば入れ替わるようにレオナが腰を下ろし、不規則に揺れる尻尾がそのまま芽唯の腕にするりと巻き付いた。
「少しは落ち着いたか?」
「はい。ごめんなさい、ベッド使っちゃって……」
「俺が降ろしたんだから気にするんじゃねぇよ。むしろしっかり寝とけ」
寝起きで乱れていた芽唯の髪を手櫛で整え、満足そうに頭を撫でるレオナの髪は少しだけ濡れている。眠りに落ちる前、彼が風呂に入ると言っていたことを芽唯は思いだした。そういえば、自身も汗をかいていたはずだし、何より運動着に袖を通したままだった。
「メイくん、今日泊ってくんスよね? 必要なもんはここに置いとくんで。足りなかったらまた取りに行ってくるから言って欲しいッス」
「ありがとうございます、ラギー先輩」
自分も風呂に入らなければと芽唯が立ち上がって移動すると、風呂場にあるものは好きに使っていいとありがたい言葉を頂戴する。
「先輩はゆっくり食べててください」
ひらひらと片手を振るとレオナはテーブルの前に腰を下ろした。死角になって見えないが恐らく既に肉にでも齧りついているのだろう。音のない返事に芽唯は笑いながら扉を閉じた。
温かいお風呂に他人の作った手料理。
温もりとはどうしてここまで心を穏やかにさせるのだろうか。もしかしたら、隣に好きな人がいるというのも特別な夜を演出するのに一役買っているのかもしれない。
オンボロ寮と違って隙間風も吹かなければ、ゴーストたちに突然驚かされることもない静かな夜に芽唯は髪を乾かしながらうとうとと船を漕ぎ始める。
「おい、そのまま寝るなよ。風邪ひくだろ」
あの騒動から数時間が経ち、すっかり気分は落ち着いたのか、己の縄張りでのんきに意識を手放してしまった芽唯にレオナはため息をつくと彼女の手からタオルを奪った。
「このレオナ様にここまでさせる女はお前くらいだぞ」
文句を言いつつも、柔らかい声音で吐かれる言葉は優しく、芽唯を夢の奥へと誘った。
◇◆◇
□月××日
お泊りで日記が書けなかったので、今日の出来事とまとめて書くことにする。
昨日は本当に大変な一日だった。
グリムが一緒に空を飛びたいと言ってくれたのが嬉しくて判断を誤ってしまった。でも、嬉しかったのは嘘じゃないんだよ。ごめんね、グリム。もっと上手になったらまった一緒に飛ぼうね。
私と一緒に飛んで騒ぎを起こしてしまったグリムは三十枚以上の反省文と学校で保管しているすべての箒の清掃を言い渡された。何故か私にはお咎めがなかったが、ラギー先輩が意味ありげに笑っていたので、恐らくレオナ先輩が何か根回しをしてくれたんだろう。
ただでさえ箒から落ちたのを助けてもらったのに、そのあともレオナ先輩のお部屋で面倒を見てもらってしまった。
正直、あのまま寮に帰されても力の入らない体で家事が出来るとは到底思えなかったからとても助かった。……助けてもらってばっかりだな。
空を飛ぶ楽しさと同時に怖さを知る日にもなってしまったけれど、もう一つ新しい発見があった。必死なレオナ先輩の表情。初めて見た。先輩でもあんな顔するんですね。
途中から恐怖からなのか、それとも先輩のせいなのか、胸の高鳴りの理由がわからなくなったのと同時に、日に日に自分の気持ちが膨れ上がっていくのを実感してしまった。
明日からも上手く隠し続けなきゃ。上手にできるかな?
実はあの後、レオナ先輩がオーバーブロットした日のことを夢に見た。
忌み嫌われ、居場所も未来もない。どれだけ努力しても報われることのないと自分の境遇を嘆き、咆哮を上げた先輩の姿を今でもはっきり覚えてる。
舞い上がる砂塵、大きな獅子の影、怖くなかったと言えば嘘になるけれど、綺麗だと思った。何がと聞かれたら今はまだはっきりと言葉にすることは出来ないけど、きっと先輩の全てが。
そうじゃなければ、レオナ先輩のことを考えるたびにこんなに胸が締め付けられるわけがない。先輩のちょっとした仕草一つに心を奪われるわけがない。
せっかくご厚意で傍に置いてもらっているのに、心の底でもしかしたらと期待してしまう自分が少し嫌になる。ごめんなさい、先輩。
グリムと空の大飛行も大変だったけど、夜が明けてからの方がもっと大変だった。リドル先輩に一晩中説教をされたグリムが、鼻水とか色々なものを垂れ流しながらサバナクロー寮にやってきた。
安眠を妨害されたレオナ先輩はもちろん怒るし、他の寮生もグリムへの苛立ちを隠しきれていなかった。
レオナ先輩と一緒にいることが多いからか、私に優しくしてくれる寮生さんも多いけれどグリムは別みたいで、罵声とグリムの炎が飛び交うサバナクローはまるで戦場のようだった。戦争なんて見たことないけど。多分、きっとあんな感じだと思う。
本当にサバナクローの人たちには迷惑をかけっぱなしだな……。マドルに余裕が出来たら何か差し入れを持っていこう。
モストロ・ラウンジでバイトとかさせてもらえないかな?今度アズール先輩に聞いてみよう。
◇◆◇
□月×○日
さっそくアズール先輩にバイトの話を持ち掛けてみた。すると、女性スタッフがいることで新しい売り込み方が出来ると喜んで承諾してくれた。……してくれたんだけど、何故かレオナ先輩が口を挟んできて話は無しになってしまった。
残念だなんだと肩を竦めながらも、あまりそうは見えないアズール先輩はあっさり身を引いてしまうものだから泣きつく暇もなかった。
眉間に皺を寄せたレオナ先輩に『何か欲しいものでもあるのか』と詰め寄られてしまったけれど、違うんです。そうじゃないんです。お礼がしたかっただけなんです。と理由を伝えれば逆に迷惑だからやめてやれと釘を刺されてしまった。
何が逆なのかはわからなかったけど言われた通り大人しくすることにした。
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