05
無我夢中で走った芽唯は自分でどうやって寮に戻ったか思い出せなかった。気づいたときには自室のベッドで寝返りを打って、寮の名にふさわしいそれが悲鳴をあげた。
妙に目が冴えてしまった芽唯は身を起こす。こういうときに限ってゴーストたちは姿を顰め、グリムはあのままハーツラビュルに泊ったのか帰っていなかった。
ベッドから降りていつも日記を書いていた席へ腰を下ろす。デスクライトを付ければぼんやりとした明かりが部屋を照らし出す。
こうした落ち着かない夜はいつもならペンを握りしめていた。誰にも言えない気持ちをペン先に乗せて、文字を綴る時間は芽唯の心を落ち着かせた。
だが、もうその日記は存在しない。レオナへの秘密が詰まった日記はほかならぬレオナの手でその形を失った。
「これからどうしよう……」
レオナはすべて頭の中に入っていると言っていた。つまり、芽唯の気持ちを余すことなく知り尽くしたということだ。合わす顔がない。
あの時は芽唯自身も頭に血が上ってしまい、何がレオナの機嫌を損ねたのかはわからない。だが、日記に関することでレオナは怒っているようにも感じた。もしかしたら、自分へ向けられた感情が不快だったのかもしれない。想定していなかったわけではないが、実際に態度で示されるとくるものがある。やはり、今後はレオナと関わるのは避けるべきだろう。
彼の話を聞く限り、芽唯のことをよく思わないものが日記を盗み出したと考えるべきだが、不慮の事故とはいえ張本人であるレオナに直接見られたのは逆に良かったのかもしれない。彼が芽唯の気持ちを周囲に吹聴するとも思えないし、盗んだ犯人たちもレオナに絞られた手前、日記の中身を暴露したり、自分を脅したりもしないだろう。それに、日記の中身はもう芽唯への脅迫材料としての機能を失っている。
ゆらゆらと室内を照らす光を見つめながら芽唯はゆっくりと瞬きを繰り返す。何度目かの瞬きと一緒に一筋の雫が零れ落ちた。
「レオナ先輩……」
日記と共にきっとレオナからの信頼を失ってしまった。知られていないのを良いことに想い人の傍に居続けた罰が当たったんだと芽唯は思った。いつか元の世界に戻るその日まで、少しでも一緒に居たいなど過ぎたわがままだったのだ。
「ラギー先輩に謝らなきゃ」
もう彼の負担を減らす役には立てない。多少は残念がるだろうが芽唯が来る以前の生活に戻るだけだ、大して気に留めないだろう。彼の言葉を借りるなら「その分報酬はきっちり貰えるんで大丈夫」だ。
「後は……エース達に探してくれたお礼をして……」
結局戻ってこなかった日記についてなんと言うべきか思い浮かばないが、適当に誤魔化してしまえば彼らなら笑って流してくれるだろう。
「グリムもほったらかしにしちゃったから、ツナいっぱい使って何か作ってあげよう……」
自分のツナ料理に舌鼓を打つ小さな相棒の姿を思い浮かべながら両腕を枕に机に顔を伏せる。
あぁ、そうだ。自分にはまだこんなに友人がいる。明日はスカラビアの宴にだって呼ばれている。レオナとの関係を失ったところで自分の居場所はまだあるんだ。友人たちの顔を浮かべながら芽唯は瞳を閉じる。
暗闇の中、最初に浮かんだのがレオナの顔で、また一筋、芽唯の頬を雫が零れ落ちた。
「メイく〜んお届け物ッスよ〜」
寝て起きても気分が晴れず、気が進まないまま、ちまちまと食べてようやく終わった朝食を片付けているとエントランスから誰かの声が聞こえてきた。
「ラギー先輩ですか? どうぞ、入ってください!」
水を止め、濡れた手を拭いているとラギーが談話室に入ってくる。片手には見慣れたものを抱えている。
「あっ……それ……」
「ダメッスよ? 教科書だってタダじゃないんだから大事にしないと。一応全部入ってるはずだけど念のため確認してくれる?」
手渡されるまま受け取れば、それは芽唯が昨日落とした鞄だった。レオナが拾っておいてくれた、ということだろう。
「……全部あります。ありがとうございました」
「礼ならレオナさんに……って言いたいところだけど、なんかあったんでしょ?」
自分たちのことならすべてお見通しなのか、ラギーは困ったように笑うとソファーに腰を下ろす。べらべらとレオナが話すとは思えなかったが、ラギーにはもしかしたら伝えたのかもしれない。
「あの、実はその件で私……」
「レオナさんのお世話についてなら大丈夫。しばらくの間はオレが一人でするからさ」
ぽんぽんと隣を叩くのでラギーの隣に芽唯も腰を下ろした。何も聞かないでいてくれるラギーの態度が正直ありがたい。
「ごめんなさい……。しばらくっていうか、多分もう……」
自分がレオナに関わることはない。そう言おうとする芽唯の頭を撫でて制止するとラギーは目を細めて笑みを浮かべる。
「そんな結論急いでも良いことなんてないッスよ」
「でも……」
「今はほら、ちょっと動揺しちゃってるっていうか、混乱してるっていうか。時間なんていくらでもあるんだから、ゆっくりと考えた方が良いって」
励ますように笑いかけてくれるラギーには悪いが芽唯には到底そんな風には思えなかった。
「距離置いたら見えてくるもんもあるかもしれないッスよ?」
「そう、ですかね……」
それが見えたところでレオナに近づくことは許されるのだろうか。レオナの憤りを拒絶と捉えていた芽唯は首を傾げた。
「そうそう。善は急げとか言うけど今回ばかりは立ち止まって、ゆっくり考えるべきだとオレは思うんス」
よっ!と掛け声と共にソファーから立ち上がるとラギーはエントランスへと向かう。
「もう帰るんですか?」
座ったのだから多少ゆっくりしてくのかと思っていた芽唯は慌ててラギーを追いかける。
「貧乏暇なし、せっかくの休日なんだからたーんと稼がないとってね。それに、あんまり長居しても機嫌を損ねるだけだから」
「私は別に迷惑とは思いませんよ……?」
「シシシ、気にしないで、こっちの話だから。じゃ、メイくんはどうぞごゆっくり!」
そう言ってラギーはあっという間に行ってしまった。
ゆっくりと言われても特に何も思い浮かばなかったが、同居人達が留守にしているこの機会に寮の清掃を進めてしまおうと思い立つ。どれだけ掃除を進めてもまだまだ埃の多いオンボロ寮が、少しでも住みやすい場所になるように掃除用具を取りに二階へと上がった。
陽が暮れ始める前に一足早く風呂に入り、掃除汚れを落とした芽唯はスカラビア寮へ行く為、鏡舎へと向かう。道中泣きながら帰ってくるグリムと鉢合わせたので彼を抱えての移動になった。
「そんでな! トレイのケーキがめちゃくちゃ美味かったんだけど、リドルの奴がカンカンに怒りやがったんだゾ!」
「やだ、何したの?」
「オレ様何もしてねーんだゾ⁉ ただ、エースのやつがオレ様も小テストの点数が悪かったことをチクりやがって『キミにこのケーキを食べる資格はない』とか言いやがって!」
恐らく、エースは一人スカラビアの宴に参加しようと思っているグリムを、自分たちの勉強会に巻き込もうとしたのだろう。赤点同士仲良くやろうぜ、と口元は弧を描いているのに目が笑っていないエースとデュースが安易に想像出来て芽唯は小さく笑みをこぼす。
スカラビアへ繋がる鏡をくぐると、芽唯とグリムの肌を舞い上がった砂塵ごと風が撫で上げる。乾いた空気がサバナクローを思わせて少し苦々しい気持ちになったが、気を取り直して芽唯は宴の会場である談話室へと向かった。
「タイミングばっちりだな! ちょうどジャミルの料理が出来てるぜ!」
談話室には既に多くの寮生が集まっていて、その中心に座って笑みを浮かべていたカリムが芽唯達の姿を見つけて立ち上がる。料理を運んでいる者にぶつかりかけながらも芽唯の元へやってくると、その手を取り、輪の中へと引っ張っていく。
から元気状態だった芽唯には少し眩しくもあったが、カリムの笑顔に釣られ自分も少しだけ口角が上がるのを感じた。
「こらカリム、ちゃんと周りをよく見て歩け」
先にカリムの隣に腰を落ち着けていたジャミルが、先ほどのカリムの行動を注意する。
「わかってるって。おまえもごめんな!」
「いえ寮長、気にしないでください」
「まったく……」
軽い調子のカリムにため息をついたが、ジャミルは芽唯を見ると自分の隣に座れと促した。大きなクッションと小さなクッションが並べてある。片方は恐らくグリムの為のものだろう。
「ご招待ありがとうございます」
「礼なんていいさ。今さら一人二人増えたところで手間は変わらない」
「結局来てくれたのはお前らだけなんだな。レオナ達はどうしたんだ?」
レオナの名前を出され心臓が跳ね上がったが、どうにか平常心を保ちながら芽唯は眉毛をハの字にさせ答える。
「一応いろんな人に声をかけてはみたんですけど、忙しいみたいで」
「そっか、残念だなぁ。でも忙しいんじゃ仕方がないよな!」
声をかけたのはあの時一緒に居たメンバーだけで、レオナには何も伝えていないので少し罪悪感を覚える。だが、声をかけたところでどうせレオナは宴になんて来ないだろう。騒がしいだのなんだのと色々理由を付けて断ったに違いない。
「せめてお前たちだけでも宴を楽しんでってくれ!」
ニッと笑うカリムに頷けば、それを宴開始の合図に寮生たちによるどんちゃん騒ぎが始まった。
相変わらずジャミルの料理は一級品だし、今晩の食費も浮いて、嬉しいことだらけのはずなのに芽唯の心に未だ影は差したまま。
どんどん盛り上がっていく宴の空気に呑まれ、ダンスや歌を披露し始める生徒たちを見るその横顔が寂し気なのを、ジャミルだけが静かに見つめていた。
宴が終われば待っているのは後片付け。客人にそんなことはさせられないと最初は断られたが、せめてものお礼にと無理やり押し通した芽唯は黙々と皿を水にくぐらせる。
その横で手を泡だらけにして皿を洗うジャミルは、他の生徒たちが自室に戻ったのを見計らって口を開いた。
「何かあったのか?」
「えっ……?」
「浮かない顔をしている。カリムは気づいてないみたいだが、俺の目はごまかせないぞ」
思わず手を止めてしまったが「ん」と次の皿を渡され、慌てて水にくぐらせると綺麗に泡は洗い流され、輝きを取り戻したそれを崩さないよう丁寧に重ねる。
「ジャミル先輩にお話しするようなことはありませんよ」
「……大方、レオナ先輩のことだろう」
「なっ」
まさか言い当てられるとは思わず皿が手から滑り落ちる。シンクの上に落ちた皿は幸いなことに割れることはなく、ゆらゆらと揺れ動きながら音を響かせ動きを止めた。
「なんで知ってるんですか⁉」
「当たりか? いや、君が悩むなんて問題に巻き込まれたか、レオナ先輩のことくらいだろうと思ってかまをかけてみただけなんだ。驚かせたならすまない」
目を白黒させる芽唯を見てジャミルは噴き出すと楽しそうに次の皿を洗い始める。
「暇つぶし程度に何があったか聞いてもいいか? もちろん、誰にも言ったりしない」
「……楽しい話じゃないですよ」
「構わないさ。……少しくらい、吐き出したほうがいい。溜め込んだままでいるとろくなことにならないのは君も良く知っているだろう」
「ジャミル先輩に言われると説得力ありますね……」
自虐というわけではなさそうだが、本当に説得力がある。まぁ、芽唯の場合は吐き出していたものが見られたが故の悩みなのだが、この際それは置いておこう。
「その、レオナ先輩に日記を読まれてしまったんです」
「勝手に見たのか?」
「説明すると長くなっちゃうんですけど、不可抗力、です」
あれから一晩考えて、レオナの行動をすべて許したわけではないが、中身を見てしまったのは不可抗力だったと自分を納得させた。誰だって持ち主がわからないものを拾えば中身を確認する。それを全て記憶して、暗唱までするのはどうかと思うが。
「先輩にはどうしても見られたくなかったことが書いてあったんですけど、もう手遅れで」
「それがきっかけで喧嘩をしてしまった、と」
あれを喧嘩と呼べるかはわからないが、大嫌いと明確に拒絶してしまった。大雑把に考えればそうだろうと芽唯は頷く。
「本当は私お礼を言うべきだったんです。失くしたものを見つけてくれたんだから。でも、中身を知られたことで頭がいっぱいで、気持ちがぐちゃぐちゃになって……」
「あまり自分を責めるのは感心しないな、冷静になれる状況じゃなかったんだろう?」
「はい……」
ジャミルは山のようにあった皿を洗い終え、芽唯に渡すと近くにあった布巾を手に取り逆側へと移動した。芽唯が積み上げた濡れた皿たちを一枚一枚丁寧に拭き上げる。
「喧嘩した後、ラギー先輩に言われたんです。『今はゆっくり考えた方がいい』って」
「俺も同じ考えだな。時には手遅れになることもあるが、時間が解決することだってある」
「でも時間が経って冷静になればなるほど、私が悪かったんじゃないかなって思い始めてしまって」
ラギーを見送った後、芽唯は掃除をしながらレオナのことを考えた。
そもそも自分があんなことを日記に書かなければ、無防備に開けたまま鞄から離れなければ、あの日記がただの日記であれば芽唯があそこまで憤ることはなかったのかもしれない。
彼に恋をしていなければ、素直に想いを告げていれば。考えては消えていく思考の海の中、芽唯は自分の失態だったとしか思えなくなっていた。
最後の一枚をジャミルに手渡して水を止める。シンクに反射した自分の顔がどこか青白く見えて芽唯は苦笑した。これではジャミルが心配するのも無理はない。
「それで解決出来るなら止めないが……。君はただ考えてるだけじゃ思考がまとまらないタイプだろう。もしくは悪い方向にだけ考える」
「うっ……」
痛い所を付かれた。そう、だから芽唯は日記と言う形で自分の気持ちと向き合っていた。文字として見える形にすることで別の角度から客観的に自分を見ることが出来た。
「嫌な思いをした直後だ、また日記を書き始めるのは難しいかもしれないが、気持ちが落ち着いたらまだ筆を執るのもいいんじゃないか」
「……考えておきます」
すべての食器を棚に戻し終わり、ようやく片付けがひと段落付いた。時計を見ればだいぶ遅い時間を指している。
「すっかり遅くなってしまったな。絨毯で送るから談話室でグリムと待っていてくれるか」
「そんな、わざわざ悪いです」
「君をこんな時間に一人で帰したと知られれば後が怖い。それに少し風を浴びればいい気分転換になるだろう」
そう言ってジャミルはふっと笑うと絨毯を取りに行ってくると芽唯に背を向け歩き出す。
「……ありがとうございます、ジャミル先輩」
遠くなる背中に一度頭を下げてから芽唯は談話室にグリムを迎えに行った。
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