07


 芽唯の獣人化から早数日、いまだに彼女の頭部では獅子の耳が存在を主張していたが、それを気にする生徒はほとんどいなくなっていた。
 もちろん、休日明けの初登校時はこれでもかというほど注目を浴びていた。レオナはそれを見越した上でサバナクローから登校するように言い聞かせ、朝から肩を並べて歩くライオンのカップルの姿に興味は示せども声をかける愚か……勇気があるものはいなかった。
 サバナクロー寮に駆け込んできた時、いつスカートを捲りあげてしまうかと不安で仕方がなかった尻尾が抱えた問題も休日の間にクリアして、今は自分達同様に専用の穴が空いた制服を身に着けている。
 そんな芽唯を迎えに来たラギーが教室に入ると、スンッと匂いを嗅いだ彼女が声をかける前に己に気付く。

「ラギー先輩、もうちょっと待ってください」
「ゆっくりで大丈夫ッスよ」

 クラスメイトの獣人達となにやら話し込んでいた彼女は、メモを片手にうんうんと頷いては何かを記入している。
 扉に寄り掛かりながらその姿を観察していると足元にグリムが駆け寄ってきた。

「オマエなんかいい匂いがするんだゾ」
「え? なんか持ってたかな」

 ポケットの中に思わず手を入れるが思い当たるものがない。
 それでもスンスンッと鼻を鳴らすグリムの視線を辿れば、どうやら匂いの出所は己の拳らしい。布越しでも僅かな香りにその正体がピンとくる。

「あぁ、なるほど」
「なんの匂いなんだ?」
「マタタビッスよ」

 しゃがんで視線をグリムに合わせる。ポケットから手を出し、彼の前に出してやれば目を輝かせてすり寄ってくる。

「これだ! この匂いなんだゾ!」
「さっきまで錬金術の授業受けてたからどっかで触ったのかもしれないッス」
「ふなぁ……くらくらしてきたんだゾ」

 頬をすり寄せていたグリムの目が蕩け、酩酊したかのように足元がおぼつかなくなる。
 ふわふわと柔らかい身体を抱きとめるとラギーは困ったように眉間に皺を寄せる。

「なんか嫌な予感がする……」
「おまたせしました!」

 そんなラギーの不安を知るはずもなく、足取り軽く自分に駆け寄ってきた芽唯を見上げたラギーはどうか自分の予感が外れますようにと祈りながら立ち上がる。
 ラギーが脇に抱えるように抱き上げたグリムの様子に芽唯は目を丸くして、数回瞬きを繰り返す。
 あぁ、うん。可愛い。可愛いッスね。どうかそのまま可愛いだけで終わってくれ。

「グリム、どうしたんですか?」
「ちょーっと酔っぱらっちゃったというか」
「酔う? お酒? え、なんで?」

 腰を落としてぐいっとグリムに顔を近づける芽唯。もちろん、そんなことをすれば必然的にラギーの手に近づく。心配そうに眉を寄せていた彼女の鼻が、匂いに気付いてスンッと先ほどのグリム同様に動くのを息をのんで見守る。

「んん……?」

 数回、確かめるように匂いを嗅ぐ。その度にラギーの心臓が跳ね上がるのだが、芽唯はそんなことお構いなしだ。

「め、メイくん……?」

 あまりにも無遠慮に嗅ぎ続ける姿がらしくなく、そっと声をかけてみる。
 しかし、芽唯はラギーの声に反応を示さず、それどころか目の前の彼の手を握りしめた。そのまま引き上げるように彼女が身を起こせば、脇に抱えていたグリムが必然的に床に落ちる。ぐえっと小さな悲鳴はしたが、その後にいつもなら飛んでくるはずの文句が聞こえてくることはなかった。

「もしもーし? メイくーん? 大丈夫ッスか……?」
「ラギー先輩……なんだかいい匂い……」

 あぁ、同じ台詞をついさっきグリムくんも言ってたな。悪い予感が的中してしまったと悟ったラギーは現実逃避に足元のグリムをじっと見つめる。
 今の自分の姿をレオナに見られたらなんと言い訳すれば助かるだろう。そうでなくても、この状態の彼女をどうにかしてサバナクロー寮に連れて行かなければならない。

「頭がふわふわ……するん、です」

 ぎゅっと手を握りしめる柔らかい温もりに思わず顔をあげれば、認めたくなかった現実を直視することになる。
 両手で包み込むように己の片手を握る少女は頬を赤く染め、目は蕩け視線が定まっていない。
 足元に転がっているグリムと同じく酔っている=B確実に。

「あーもう‼ アンタって子はどうしてそうなんスか!」

 確かに、獣人属にマタタビは効く。それでもこんな、指先に僅かに付着した香りに酩酊状態に陥るだなんて誰が予測できようか。
 すっかり蕩け切ってしまった芽唯の姿を隠すため、握られたままの手を振りほどくと上着を脱ぎ彼女に被せる。
 急に叫んだラギーと芽唯とグリムのただならぬ様子に教室に残っていた生徒や、廊下を歩いていた者たちがなんだなんだと視線を投げる。生徒たちの視線が集中するのを感じたラギーは真っ先に彼女の姿を隠した己の判断力を褒め、次にどうやってこの場を切り抜けるか、頼れる相手はいないのかと周囲を見渡す。

「ラギーしぇんぱ……? まっくられ、なにも……」
「見えなくていいから! 静かにしてて欲しいッス!」

 何がラギーしぇんぱ、だ。と叫んでしまいたかった。
 呂律が回らなくなっているたどたどしい声を他の者に聞かれない為、上着の袖をぐるぐると巻き付けてはロープ代わりに縛り上げる。自分の置かれた状況も分からないまま、芽唯はそれでも上着を自分の手で払い退けようとしない辺り思考は停止しているのだろう。
 赤ずきんならぬ黒ずきんと化した芽唯の異様さに周囲の生徒がざわついて余計に視線が集まってしまう。
 とりあえず、このまま彼女の手を引いて鏡舎まで突っ走るしかないと手を掴み取る。

「騒がしいと思ったら、何が起きてるんすか、ラギー先輩」
「ジャックくん……!」
「その制服で包んでるのは……メイ、なのか?」

 一気に駆けだそうとしたその瞬間、廊下の向こうから見慣れた銀髪がやってくる。少しだけ眉間に皺をよせ、既に状況をなんとなく把握できているのか垂れた耳と尻尾が彼の心情を表している。

「丁度良かった! ジャックくんはメイくん抱えて! オレはグリムくん持つから!」

 メイをジャックに押し付けると、一瞬見捨てて行こうとしたグリムを抱き上げる。

「う、うす」

 ふらつく芽唯をお姫様抱っこの形ですぐに抱えたジャックは頷くだけで深く事情を聴いてこない。なんて出来た後輩だろう。いや、彼が優秀なのではなく、トラブル体質の芽唯が事件の渦中に居ることが彼が素直に言うことを聞いてくれている要因なのかもしれない。
 ぷうぷうとノンキに寝息を立てているグリムに少し腹を立てつつも、まずはこの場を脱出すべく、ラギーとジャックは好奇心や憐みの混ざった視線の中を駆け抜けた。

 

 異様な姿の三人と一匹はなんとか鏡舎へとたどり着く。道中、知り合いの声も聞こえた気がしたがそんなものに呼び止められている場合ではない。
 例え、相手にしなくとも校内で女生徒はただ一人だし、その彼女を連れた集団が慌てているとなれば十人が十人「何か起きたんだな」と勝手に納得してくれる。
 トラブルメーカーである彼女のある種の人徳のようなものだ。何も得することはないと思うが。
 ぐるぐると制服を巻き付けてしまった為、そのトラブルメーカーが今何を考えているかはわからないが、もしかしたらラギーの腕の中のグリムのように眠ってしまっているのかもしれない。

「レオナ先輩、部屋にいるんすか?」
「今日は部活もないし、寮長会議もなくて、寄り道してなきゃ部屋に居るはずッス」

 サバナクロー寮へ続く鏡をくぐりながら、ジャックはレオナの居場所を問いかける。
 そもそもで芽唯を教室に迎えに行ったのもレオナの私室に連れていくためで、予定通りと言えばそうなのだが、こんな酔った彼女を連れていくはずでは決してなかった。
 寮に戻っても好奇の目にさらされることは変わりなく、それでも校内を歩いている時よりはその視線が芽唯というよりは自分達に寄せられていることを感じ取ったラギーは背中にむず痒いものが走る。
 間違いなく自分たちは今、寮生に同情されている。
 生暖かい視線を背中に感じながらラギーとジャックはレオナの部屋を真っすぐ目指す。
 階段を上り、もうすぐレオナの部屋が見えてくるというその時、ふとラギーの頭に疑問が過る。

「………………」
「……? ラギー先輩?」

 歩幅が広く、既に数段先を登っていたジャックはラギーが足を止めたことに気付いて振り向く。

「この状態のメイくん、レオナさんに預けて大丈夫かな」

 酩酊を通り越し泥酔した彼女。それを彼氏である男性の元に送り届ける。なんというか、それは。

「据え膳……じゃない?」

 いくらなんでもレオナとて酔った彼女に手を出すとは思えないが、可能性がゼロというわけじゃない。酔った勢いで……なんてことになれば、レオナとの関係に悩んでいた芽唯の悩みの種をまた一つ増やしてしまうことになる気がする。

「すえ……。恋人同士だし、問題ないんじゃ?」
「そうなんスけど……」

 二人は恋人だ。間違いない。
 けど、それとこれとは話が別なんじゃないか?

「ん、ん〜〜〜〜?」

 レオナの部屋を目前にしてすっかり足が止まってしまったラギー達。二人の腕の中芽唯とグリムがむにゃむにゃと呑気に寝息を立てている。

「おい」
「いや、やっぱ今からでもオンボロ寮に!」
「おい!」
「あっ」

 声が上から降ってくる。それを無視してラギーは一人階段を降りようとするが、ジャックが小さく漏らした声に釣られてそちらを向いてしまう。

「げっ」

 階段の支柱に手を添えて、自分達を見下ろしてくる大きな影。逆光になっていて表情は見えないが、揺れる三つ編み、豊かな鬣、鍛え抜かれた見事な身体。そのシルエットから連想できる人物はただ一人。

「れ、レオナさん……」
「ラギー、いったい何のパーティーだ? 随分大荷物じゃねぇか」

 ゆっくりと雲が影を作り出す。ようやく見えたレオナは自分とジャックの腕の中で眠る二人を見つめ、にぃと口角を上げている。──が、目が笑っていない。
 眉間に寄せられた皺、上がる唇。アンバランスなそれらが意味するのはレオナが怒っているという事実のみ。

「は、ハハ……」

 無意識に乾いた笑いが零れ、逃げ出そうとしていた身体の向きを変えてジャックの腕の中でいまだにピクリとも動かない芽唯を見る。

(ごめん、メイくん。手遅れだったッス)

 心の中で彼女の行く末に合掌し、ジャックに芽唯をレオナに渡すよう声をかけようとした。

「ん……」
「あ、起き、た……?」

 そんなラギーが口を開くより一足早く、褐色の腕の中で芽唯がもぞもぞと動き出す。
 頭部はいまだ自分の制服で包まれているので目が開いているかはわからない、がきょろきょろとあたりを見回すように動く姿は起きていると思って間違いなさそうだ。

「メイくーん、大丈夫ッスか?」

 流石に酔いは醒めただろうか。あまり刺激しないように小さな声で呼びかけて、一段ずつ階段をゆっくり上がる。
あまり階段の上で長居をしても危険なので、そっとジャックの背中を押してやればラギーの意図を汲み取り彼も気を付けながら進み始め、道を塞いでいたレオナも大人しく後ろに下がったので漸くラギー達は階段を上り終えた。

「ん……ん……?」
「メイくん?」
「んー!」
「っと⁉」

ジャックは急に暴れる芽唯を落とさないよう抱き上げる腕に力を込めた。

「おい、危ねぇだろ!」

 頭を制服に覆われ黒い塊と化した芽唯が両手を伸ばす。バランスを崩さないよう必死なジャックは気づいてないようだが、その手がレオナを求めているように見えたラギーはその背中を押してジャックとレオナの距離を縮める。

「んー!」
「ったく、何が起きたんだよ」

 伸ばされた両手を迎え入れるようにレオナはジャックの腕から芽唯を受け取る。軽々と女生徒を抱き上げる少し憂いを帯びた横顔はどこに出しても恥ずかしくない王子様のそれだが、如何せん腕の中のお姫様の姿が奇怪だ。

「ラギー先輩、もうこれ取ってもいいんじゃないすか」
「あー、そうッスね。外してあげて」
「うす」

 力任せに適当に結んだ袖を解いて上着を外してやれば、しばらくぶりに芽唯の顔が見えてくる。まだ酔いが残っているのか、それとも服の中が暑かったのか、頬を赤く染め上げた姿にレオナが数度瞬きを繰り返す。

「……メイ?」

 急に大人しくなった芽唯を見て、レオナが顔を覗き込みながら名前を呼ぶ。
 両腕を首に巻き付け、レオナの腕の中で大人しく彼の顔を見上げる芽唯は先ほどまで暴れていたのが嘘のようにぴくりとも動かない。
 もしや、また寝てしまったのだろうか。
 時が止まってしまったかのように妙な沈黙が場を包む。

「メイ」

 もう一度、レオナが名を呼ぶ。

「ぱい……」
「ん?」
「レオ、ナ、せんぱい」

 舌足らずなたどたどしい口調。どうやら、まだ酔いが醒めたわけではなさそうだ。ぎゅっと首に回した腕に力を込めて、芽唯はレオナにしがみつく。

「せーんぱい」

 何度も先輩、先輩とレオナを呼び、首筋に頬をすり寄せる。いつもならあり得ない芽唯の大胆な行動にレオナはもちろん、様子を見守っていたラギーとジャックも目を丸くする。
 ぱたぱたと動く耳は喜びを表し、尻尾は自らレオナのそれに絡みつく。

「ふふ、せんぱいだ。やっと会えた」
「お、おい」
「さっき、ラギーせんぱいから、すごくいい匂いがしたんです」

 マタタビのことだ。
 マタタビ以外の何物でもないのでそんなに睨まないで欲しい。レオナから向けられる視線の鋭さに思わずラギーは目を逸らす。

「それであたまがぽわぽわして」

 芽唯が首筋に頬をすり寄せるので、首から上を動かすことが出来なくなったレオナは視線と唇の動きだけで二人にこの場から離れるように促す。

「ねむくなっちゃって……」

 そんなレオナの様子に気付くはずもなく、芽唯はこれまでの経緯を説明する。
 本来、それはラギーがすべき仕事だったが、彼女自身は理由を理解していない状態でも、あれだけ細かく話せばレオナならば状況を理解してくれるだろうと信じて静かにその場を後にする。

「でもね、その匂いより」

 腕の中に残されたグリムが呑気に寝息を立てているのが羨ましい。

「ずっとずーっと」

 芽唯の甘く蕩けるような声が、早く彼の部屋に吸い込まれるよう祈りながら階段を下りる。早く彼女の声が届かないところまでいかなければ。
 本来なら二人だけで交わされるはずの蜜事を聞いているようで胸がざわつく。
 あぁ、待ってくれ。あと少し。あと少しだけでいいんだ。
 逃げるように速足で下るラギーとジャックを笑うように芽唯がふふっと鈴のように声を転がす。

「いいにおい」

 勢いよく扉が閉まる音と芽唯の声が耳に届いたのは、ほぼ同時だった。




 そのまま談話室に逃げるように転がり込んだラギーとジャックは、他にあの声を聴いてしまった寮生が居ないかと肝を冷やしたがそこはサバナクロー生。芽唯が絡むことで寮長の不興を買う危険性がある現場には近寄らない、耳を澄ませない、興味を持たない。
 どうせなら自分達もそうしたかった。あんな声で甘える彼女を見てしまったことに対して罪悪感が膨れ上がる。
 レオナもきっと聞かれたくなかったのだろう。かき消すように閉められた扉の音、彼女の声、残念なことにどちらも耳に残っている。
 なんとかグリムだけは机の上に寝かせたが、疲れ果てた身体はそこから一歩も動くことが出来ず、地べたに座り込む自分達を心配して寮生の一人がラギーの傍に膝をついた。

「ブッチ先輩、大丈夫ですか……?」
「あー、まぁ、うん……。めっちゃ疲れたッスけど」

 疲れた。精神的に疲れた。

「よかったら飲み物持ってきたんで……」
「ありがたいッス……」

 芽唯の教室からここに来るまで、焦ったり、緊張したりとにかく喉が渇いている。
 ラギーとジャックはありがたく飲み干すと漸く一息付けた気がした。

「マタタビってあんな酔うもんなのか?」

 ぼそりとジャックが零す。

「いや、あれは酔いすぎでしょ」

 不慣れな体に過剰に反応したのか、それとも彼女がアルコールなどを含む酔う≠ニいう感覚に人一倍弱いのかはわからない。それでも自分の指先に付着していたのはほんの微量で、グリムもだがここまで泥酔するのは明らかに異常だと言っていい。

「メイくんには絶対酒は飲ませないようにしよ……」

 たまたまかもしれないが、またあんなものを見せられたらたまったもんじゃない。
 あるかないかもわからない、そんな機会に思いを馳せながらラギーは少しだけ瞼を閉じる。
 本当に彼女と関わっているとトラブルが尽きないが、これで少しは芽唯の不安も解消されていくだろう。きっかけがなかっただけで、一度あれだけ甘えてしまえば自然と距離は縮まっていくはずだ。

「こういうのを不幸中の幸いって言うんスかね? もしくは転んでもタダじゃ起きない?」

 『響き的には後者の方が好ましいな』などと考えながらラギーは身を起こし、置き去りにしてしまった彼女の荷物を教室へと取りに向かう。

 数時間後、芽唯の悲鳴がサバナクロー寮に響き渡ることを、この時はまだ誰も知らなかった。

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