02
普段何気なく行なっている『歩く』というのは意識すると難しい。特に『美しく』ともなると難易度が急激に跳ね上がった。
ヴィルの特訓に合流して早数時間。頭の上に花瓶を乗せられたレオナを見つめながら芽唯は深く息を零した。
意図したわけではなかったが、それを合図にしたと言わんばかりにレオナの頭の上から盛大に水が溢れる。
床も服も、もちろん彼も。すべてが水を被って酷い有様だ。
「レオナ先輩、大丈夫ですか?」
すぐにタオル片手に駆け寄って、まずは軽く髪の水気を拭う。そして前髪をかきあげるように額から順に顔にかかった水を拭き取っていく。
すっかり手慣れてしまった動作を繰り返すのは何度目か。
ぷるぷると肩を震わせつつも、この場に止まり続けるレオナは相当我慢してくれているのだろう。
床に落ちる寸前で受け止めた花瓶をグリムに押し付けたと思えば芽唯の肩に額を擦り付ける。
「ひう……っ」
当然真っ赤になって固まった芽唯だが、そんな彼女にお構いなしにレオナは続けるので水を吸ったままの髪や服が芽唯に触れ「ちょっとその子の衣装が濡れるでしょ!」とヴィルからお叱りの声が飛ぶ。
「んー、なぁヴィル。そろそろレオナを休ませてやらないか?」
「俺もカリムに賛成です。どんどん精度が落ちて水を零すまでの時間が早くなっている。このままじゃレオナ先輩はともかく、ああして抱き込まれる彼女の方が風邪をひいてしまう」
ダンスレッスンに励んでいたカリムとジャミルの二人は心配そうに視線をこちらに寄越す。名を呼ばれたヴィルは少し思案してからレオナを睨んだ。
「十分だけよ。それ以上は待てないわ。メイ、アンタはレオナが逃げ出さないように見張りで付いてなさい」
「は、はい」
ほんの短い時間だが、根を詰めすぎるよりずっといい。「よかったですね、先輩」と重くなったタオルを捲りながら告げれば項垂れていた耳が少しだけ立ち上がる。
そのまま顔を上げたレオナは芽唯の手を掴むと彼女の握っていたタオルを奪って放り投げ、ボールルームから足早に出て行った。
声を出す暇もないまま連れていかれる芽唯に残された三人と一匹は少しだけ手を振ると、それぞれの練習にすぐに戻った。
◇◆◇
与えられた休憩時間はそう長くない。部屋から飛び出したレオナは魔法で水分を飛ばすと数度鼻をひくつかせ、迷いのない足取りでどこかへ向かう。
「レオナ先輩、どこに行くんですか?」
「人が居ない場所」
勝手知ったる……とまではいかないが、そこはレオナの優れた五感によるものなのだろう。何度か足を止めたものの、迷うことなく外に出たレオナと芽唯はすぐそばの木陰に腰を下ろす。
室内の環境は最悪だが外に出てしまえば季節相応。陽さえ出ていれば温かい。
風が吹けば木が騒めく、寮を囲うように広がる森には小鳥が住んでいるのだろう。時折聞こえるさえずりが先ほどまでの窮屈なトレーニング時間を忘れさせてくれる。
そんな声に耳を澄ませていると隣に腰を下ろしたレオナが自然な仕草で芽唯の肩に頭を乗せる。よほど疲れているのだろう。眉間に皺を寄せながら大きく深呼吸を繰り返すと瞼を閉じた。
肩に乗る重さと温もりに胸が跳ねたが、弱ったレオナの姿がなんだか愛おしくて笑みがこぼれる。
「ふふ、こんなに弱り果ててる先輩見るの久しぶりかも」
オーバーブロットした直後を彷彿とさせる覇気のない姿に口が緩む。
しゅんと項垂れるのは彼の場合丸い耳もセットなので一層可愛く見えてくる。
「ったく……のんきな顔しやがって」
「他人事だからって面白がってるな?」と自慢の鬣ごと頭をこすりつけてくるレオナを笑って受け止めた芽唯は「ごめんなさい」と笑い交じりに謝った。
「でも学園の空調がおかしいのはみんなにとって大問題だし、レオナ先輩達には頑張ってもらわないと」
このままでは全員揃って留年と脅されている。留年することを厭わないレオナや異世界人の芽唯はともかく、他の多くの生徒がそんな事態は免れたいと今回の作戦の成功を願っている。
もし仮にレオナが逃げ出したとしても、全校生徒があらゆる手段で捕まえに来るに違いない。
「くそ……」
悪態をつくが、いつもの迫力が無いレオナは本当に相当疲れているのだろう。もしくはストレスによるものか。
芽唯の肩に頭を乗せたレオナがいつもの眠る姿勢に入る。昼食を何度も共に過ごした芽唯は慣れたように自らもレオナにほんの少し寄り添うと彼の尻尾が腕に巻き付く。
恐らく芽唯がほんの少しでも動けばすぐに気づく程度の浅い眠りだが、いつも昼寝だとか午後は寝ているくらいで丁度いいと言うくらいには眠って過ごすレオナにこの休息は必要なものだろう。
眠りに落ちた彼の邪魔しないよう自然の音とレオナの寝息に耳を傾け、芽唯もゆっくり目を閉じた。
◇◆◇
不意に意識が浮上する。
チリン、と澄んだ音が聞こえた後、突然耳元で声がし始めたからだ。
「あら、やだ。死んじゃった? せっかく美味しい匂いがしてたのに」
「死んでないよ。こういうのを寝るって言うんだ」
「そうなの? ぴくりとも動かないから死んでしまったのかと思ったわ」
あれからどれくらいの時間がたったのだろう。
数秒、数分、数時間。
一瞬のようにも永久にも感じられるような、そんな眠りについていた芽唯を起こした不思議な声。
もしかしたらなかなか戻ってこない自分達を探しに来たポムフィオーレ生かもしれない。
「ぁ…………っ⁉」
何か言わなければと身体を起こそうとしたが何かが自分の手を包み込んで抑え込む。覚えのある温もり。確認しなくてもわかる。これはレオナの手だ。
彼の方を見ればレオナは器用に片方の瞳だけを開けてこちらを見ていた。
(う・ご・く・な)
気づかれないように慎重に、音を出さないよう……けれど唇を大きく動かしたレオナはまた瞳を閉じた。
どうして寮生をそんなに警戒するのか。状況が呑み込めなかった芽唯だったが、見知らぬ声の主たちの姿を見て息をのんだ。
羽だ。羽が生えている。それ以上にものすごく小さい。背を向けていて自分達が起きたことに気付いてないが、突然のことに心臓が暴れ出した芽唯はレオナに倣って目を閉じる。
(バレちゃダメ……ってことだよね⁉)
読唇術など心得てない芽唯だったが、目の前の生き物とあえて大きく口を動かしてくれたおかげでなんとかレオナの意志が汲み取れた。
「ねぇ、人間の男女って外で寝るのが普通なの?」
「いいや、人間にだって家くらいあるさ。これは昼寝って言って貪り喰うものらしいよ」
「貪る? 食用なの? でも人は夢を食べないわ」
「いいや」とまた続く幼さの残った少年の声。とぼけたことを言うのは軽やかに弾む少女のような声をしている。
どこかズレた会話に耳を澄ませていたレオナと芽唯はいつまでこの会話を聞いていればいいのかと少し心が焦れてくる。
人を知っているようで知らない男の子とまったく人間に対する知識が無い女の子。会話を聞いている限りは妖精らしいが、あまりにおかしい会話に笑わないように芽唯は必至だ。
マレウスが言っていたように妖精と言うのは本当に多種多様な存在らしい。
ここまで人に対する知識が捻じ曲がっているなんて、と右往左往する会話を聞きながら訂正したい気持ちが芽生えてしまう。
それでも、それすらお見通しなのか、レオナが手を握る力を強めるのでなんとか堪えることが出来ていた。
「……本当にちっとも動かないのね。つまらないわ。ねぇ、今度はあっちに行ってみましょう」
「えっ、せっかく見つけた人間の男女だぞ」
「もしかしたら他にもいるかもしれないわ。ほら、あっち、あの窓の中。あれだけ綺麗なら女の人間なんでしょう?」
「違う違う、あれも男さ」
徐々に声が遠ざかる。恐る恐る目を開けるとキラキラと妖精の粉を撒きながら羽ばたいた後ろ姿が曲がり角に消えていく。
「ったく……なんだったんだ」
同じ姿勢で警戒していたせいだろう。凝り固まってしまった身体をほぐすようにレオナが肩を捩じる。
その様子を横目に自身も身体を揉みほぐしながら口を開いた。
「あれもフェアリーガラに来てる妖精、ですよね」
「まァ……だろうな。なんで人間の男女なんて探してるんだか知らねぇが、碌なことじゃねェのは確かだ。関わらないに限る」
レオナは妖精が消えた方向を見つめては忌々しそうに舌打ちをする。妖精という存在に対して相当鬱憤がたまっているに違いない。
しかし、彼らは一体なにをしていたのだろう。見知らぬ生き物に興味を示すだけならまだわかる。芽唯だって彼らに興味津々だ。
けれどあの二人は「人間の男女」を名指しで探しているらしい。人間の男、でもなければ女でもない。男女のペアを探している。
「……もしかして」
ふとクルーウェルの言葉を思い出す。もしや、あれが彼の言っていた恋心を好む妖精だろうか。
ならば関わらないで正解だ。レオナの言う通り碌なことにならない予感がする。
「あいつら、ボールルームの方に消えてったな……」
「あっ……綺麗な人ってヴィル先輩?」
確かに、女性と見間違うのも納得出来るほどヴィルの美しさは性別の垣根を超えている。
特に少女のような声をした妖精は少年妖精より人間に対する知識が乏しいと感じられた。男女ペアを熱心に探しているのもあって、冷静な判断力が欠如してもおかしくはない。
「急いで知らせなきゃ」
ヴィルの性別に関してはどう思われても構わないが、無遠慮に近づいてくる彼らに自分達のやろうとしていることを知られたら非常にまずい。
『フェアリーガラに潜入しようとしている』とは練習を見ただけではわからないだろうが、会話を聞かれる可能性は十分ある。
芽唯が慌てて立ち上がると膝からチリンチリンと音を立てて何かが転がり落ちた。
「おい、何か落ちたぞ」
「えっ何……」
足元を見れば見覚えのない鈴が二つ転がっている。先ほどの音色からしてきっとこれが音の正体だろう。
(こんなの持ってたかな……)
拾い上げてじっくり見ても記憶にない。もしかしたら先ほどの妖精達の落とし物なのだろうか。
(ま、いっか)
とりあえずポケットに収め、代わりにスマホを取り出し連絡先を開こうとする。が、時間を見て思わず手が止まる。
「……先輩、私達何時に出てきました?」
「俺が把握してるとでも?」
首をかしげたレオナの肩を滑らかな髪が滑り落ちる。あぁ、綺麗だな。まるで絹みたい。と場違いな感想を浮かべた芽唯はぱちくりと瞬きを繰り返す。
「ヴィル先輩、休憩時間は十分って」
「了承した覚えはない」
ふん、と鼻を鳴らすレオナは些末なことだと言わんばかりに目を伏せた。
部屋を出たのが何時頃だったのか、正確には覚えていない。けれどスマホの表示を見る限り確実に三十分以上は経過している。
「絶対怒られる……!」
しかし、第一声が仮に罵倒だったとしても彼らに妖精のことを教えない訳にはいかない。
覚悟を決めて連絡先からヴィルの名前を探し出した芽唯は指先で彼の名前にそっと触れた。
◇◆◇
溜まった疲労をゆっくり湯舟で落としたい。
けれどオンボロ寮の室温は未だ安定せず、いつ灼熱から極寒になってもおかしくはない。
衣服で体温調整をしてやり過ごすしかない以上、シャワーは軽く汗を流すくらいが丁度いいだろう。
そうと決まれば鏡の前、渡されたメイク落としで見慣れた自分に戻る。勿体ない気もするが、いつまでも不要なメイクをしていれば無駄な負担が肌にかかる。
衣装やメイクはクルーウェルの指示のもと完成した。けれど ダンスもウォーキングも完璧とは程遠い。フェアリーガラの本番に果たして間に合うのだろうか。
ただでさえパフォーマンスに関する問題が山積みなのに、妖精達が学園内をうろうろしているのも気にかかる。
あの後、電話越しにヴィルに叱られつつも妖精のことを伝えると既に彼らは窓越しに練習を覗いていた。
その視線に敏感に反応したのは自分たちが抜け出している間に練習を見に来たルーク。彼が意味ありげに微笑むのでヴィルとジャミルも気づくのに時間はかからなかったらしい。
一番最後に妖精達に気付いたグリムが窓を開けて勢い任せに炎を吐いて彼らを追い出してしまい、結局彼らの目的は分からなかった。
フェアリーガラに参加するために学園を訪れたのならしばらく滞在するだろうし、また会う機会もあるだろう。正直、起きている際に鉢合わせたらあの怒涛の質問攻めに耐えられる気はしない。
「不安なことばっかり……」
シャワーを済ませた芽唯はタオルで髪の水分を取りながら談話室への扉に手をかけた。
今日の夕飯はどうしよう。朝から異常事態続きで、あまり手のかかるメニューを作る気分ではなくなってしまった。
「ねぇ、グリム。今日の晩御飯は簡単な……」
「ふなー! オマエ、オレ様の話を聞け!」
「……グリム?」
少し開けた扉からグリムが何かを威嚇するような、警戒した声が漏れ聞こえる。
相手はゴーストというわけではないだろう。入居したての頃ならいざ知らず、すっかり彼らと打ち解けたグリムが彼らと喧嘩などするはずがない。
じゃあ誰と彼は会話をしているのか。答えは決まっている。ゴースト以外の誰かが訪ねてきている。一体誰が?
芽唯はまだ見ぬ来訪者の姿を見るべく、ドアノブを大きくひねると軽く扉を押し開ける。
同時に一歩談話室へと踏み込めば、足先に何かが当たる。目を向け正体を確かめれば、机の上に置いていたはずの昼間拾った鈴が目に入る。恐らくグリムが投げたのだろう。チリンと音を鳴らしながら芽唯は転がった鈴を拾い上げた。
「あっ! やっぱり居たわ、人間の女の子!」
「っ⁉ 昼間の妖精⁉」
声に驚き顔をあげれば、それは勢いよく眼前に文字通り飛び込んでくる。
ツツツ、とまるで空中に地面でもあるかのように足で急ブレーキをかけた小さな姿には見覚えしかない。
つい先ほどまで思い描いていた心配事の一つが目の前に現れた事実に芽唯は頭の中がくらくらしてきた。また面倒に巻き込まれる。ただでさえ面倒ごとの渦中だというのに。
「お昼? あら、死んでいたのに覚えているの?」
「……死んでたんじゃない、寝てただけ」
もういっそ、わざとらしくため息でもついてしまおうか。痛み出した頭を押さえた芽唯に妖精は質問を続ける。
「眠っていたのに、意識があったの?」
「それは……」
あなたを避ける為に寝たふりをしてました。なんて当然言えなくて。
口籠る芽唯に「まぁ、いいわ!」と切り替えの早い妖精は芽唯の周りをくるくると飛び回る。
「女の子、やっぱり女の子だわ。それも恋する女の子!」
「えっ」
大きく広げた羽で狭い室内を器用に旋回し、妖精の粉をまき散らしながら機嫌よく飛ぶ妖精が何の迷いもなく口にする言葉に心臓が跳ね上がる。
「お相手は……もちろん、あの獣人よね」
「あ、あの……」
「オマエ、本当になんなんだゾ! そのパラパラ撒くのいい加減やめろ!」
たしたしと尻尾で床を叩きながらグリムが足元を跳ねまわる。妖精を目で追うのに必死で近づいてきていたグリムにまったく気付かなかった。
彼は頭上から降り注ぐ粉を煩わしそうに払い退ける仕草をするが、際限なく降り注ぐそれはグリムの頭や肩に当たっては弾けて宙で消えていく。
まるで花火のようにパッ、パッと散っていく様が綺麗で思わず手を伸ばした芽唯はグリムをそのまま抱き上げると暴れる彼を宥めようと何度かその頭を撫でる。
グリムは先程の鈴の片割れを持っていて、撫でるたびに彼の手の中でそれが軽やかな音を立てる。
「青たぬきちゃん、女の子なんて居ないって嘘つくのよ」
「嘘……?」
ちらりとグリムを見れば耳と尻尾が垂れ下がる。
「オレ様、クルーウェルに言われた通りにしただけなんだゾ……。妖精と関わるとろくなことになんねーから、親分としてしっかり子分を守ってやれって……」
「でも、失敗しちまった……」項垂れるグリムは芽唯の顔を見上げて「ごめんな、子分……」とアーモンド形の瞳を潤ませる。
まさかクルーウェルとそんなやりとりをしていたなんて。思わぬグリムの言葉に胸の奥がきゅっ締め付けられた。
「……大丈夫、大丈夫だよ。グリム。守ってくれてありがとう」
もう一度、今度は感謝を込めて小さな頭を撫でる。
普段はわがままで困った部分も多いグリムだが、大事なときはこうしてちゃんと親分としての務めを果たそうとしてくれる。芽唯はそんな彼の頑張り屋な部分が大好きだ。
「……不思議。あなた、その子相手にも美味しそうなのね」
「美味しそう?」
「子分もオレ様も食いもんじゃねーゾ!」
妖精の言葉にグリムは怒り、芽唯は首をかしげる。
「本当に食べるわけないでしょう。美味しそうっていうのは例えというか……。私は人間の感情を栄養にしている妖精なの」
「カンジョーなんて食えねぇんだゾ」
「あなたたちはね」
グリムの問いかけにツンっとすまし顔の妖精は芽唯とグリムの前で浮かんだまま、じろじろと二人を見比べる。
その視線に思わずグリムを抱きしめる力を強くすると妖精はくすくすと笑いだす。
「そんなに警戒しないで。わたし、きっとあなたの役に立てるわ」
「役にって……なんの?」
「それはもっちろん!」
丸い大きな瞳を輝かせ、妖精は宙を一回転すると芽唯の肩にふわりと降り立つ。
「あなたの、恋のお手伝い!」
「っ……⁉」
「恥ずかしくて告げられない? それとも何か理由があるの? 大丈夫、私がいればそんな心配、全部、ぜーんぶ! 無用だわ!」
妖精の言葉にガツンと後頭部を殴られたような感覚に襲われた。けれど、息を詰まらせた芽唯などお構いなしに彼女はキラキラとした瞳をこちらに向け続ける。
「ねぇ、あの獣人のどこが好きなの? 瞳、それとも声かしら!」
「こ、恋なんてしてない!」
慌てて首を振って否定しても妖精はくすくすと笑い続けるだけで気に留めない。
「そんな嘘付かなくていいの。だって、とっても甘い匂いがするんですもの」
いったいなんの話だろう。
芽唯は思わず自分の匂いを嗅ぐが、洗い立ての髪や肌からは洗剤の香りがするだけだ。
動揺する子分の姿に慌てたグリムが芽唯の腕から飛び出し、爪を伸ばして妖精を威嚇する。
「お、オマエ黙るんだゾ!」
「きゃっ! もう、何するの!」
驚いて芽唯とグリムから離れた妖精は頬を膨らませると二人をキッとにらみつける。
「せっかく手伝ってあげるって言ってるのに、妖精の祝福を受けれるなんてめったにないチャンスなのよ!」
「こ、恋なんてしてない。してないの」
首を横に振って同じ言葉を繰り返す。何度も、何度も。
「してない……してないから」
まるで自分に言い聞かせるように「そう、してない……してないの」と呟く姿に妖精は怪訝そうな顔をしてはため息をつく。
「どうして自分の気持ちを否定するの? 恋ってとっても素敵な感情よ。甘くて、美味しくて、元気になれる。人間の言葉にだって他人の恋は蜜の味……みたいなのあるんでしょう?」
それは恋ではなく不幸だが、訂正できる余裕は今の芽唯には残念ながらない。
「と、とにかく……恋をしている人間を探しているなら、見当違いだから」
近くの窓を開け、外を指さす。
「迷惑だから、お願いだから帰って」
「帰らない、って言ったら?」
納得がいかないのだろう。腕を組んだ妖精は芽唯の顔をじっと見つめる。
「む、無理にでも帰ってもらう!」
不意を突いて芽唯が妖精に手を伸ばすとグリムも彼女にとびかかる。
けれど相手は身軽な上に、空中を自由自在に飛び回る。芽唯の手も、グリムの手も、するりとかわして二人を見下ろす。宙を蹴っては地団駄を踏み、機嫌を悪くしたのは明らかだ。
「いやよ! やっと見つけた女の子なのに!」
「私もいやっ!」
間髪入れずに芽唯も叫ぶ。これ以上、この妖精と一緒に居るのが嫌だ。耐えられない。
何も事情を知らないのに『恋をしている』『大丈夫』と無垢な瞳を向けられる度にじくりと心が痛んで仕方がない。
しかし、飛び回る妖精を捕まえられる自信もない。何か、何か策を考えなければ。
例えば、そう。彼女を何かで包み込んで窓の外に放り投げるのはどうだろう。一点狙いで手を伸ばしても捕まえられないならば、大きな何かで広い範囲を囲ってしまえば、きっと彼女も逃げられない。
「そうだ、これを使えば……」
髪に巻いたままだったタオルを手に取る。水分を吸ってだいぶ重くなってしまっているが、十分な大きさもあるし、小さな妖精を包み込むには丁度いい。
少し離れたところでグリムの追撃をかわしている妖精は芽唯から気を逸らしている。
いつのまにか談話室に現れたゴースト達が「頑張れグリ坊!」「そこだ、右フック!」と観戦し始めたせいか、妙な白熱ぶりをみせている。
「よし……」
やるしかない。覚悟を決めて、多少透けてはいるが大きなゴースト達の背に隠れてゆっくり妖精の背後に近づく。
タオルを両手で広げ、グリムの手を彼女が避けた瞬間。芽唯は勢いをつけて妖精にとびかかった。
「えいっ!」
「な、なに⁉」
影に気付いた妖精が振り向いたときにはもう遅かった。
ゴースト達の身体を通り抜けた芽唯はほんの少しの肌寒さを感じながらも妖精を見事に捕まえた。きゅっと袋のようにタオルを持てば中で彼女が暴れまわる。
「なに! なによ! なんなのよ!」
「お願いだから、もう来ないでね」
先端を緩く結んで窓の外に優しく降ろす。
タオルが土で汚れてしまうが仕方がない。明日回収して洗濯するしかないだろう。
窓をすべて閉じて鍵をかける。ついでにカーテンも引いてしまえば外界から完全に遮断される。
自在に飛び回る妖精も、じくりと痛む胸もすべてが嘘のようにやっと静寂を取り戻した談話室。思わずソファに崩れ落ちるとグリムが膝によじ登る。
「あいつなんだったんだゾ……?」
「さぁ……」
「グリ坊やメイの新しい友達じゃないのかい?」
「ちがうよ……」
友達ではない。断じてない。
人の気持ちも知らないで、ずけずけ踏み込んでくる相手が友達なはずがない。
「してないもん……」
あぁ、今日の日記にはなんて書いたらいいのだろう。
「子分……」
すっかり夕飯のことなど頭から吹き飛んだ芽唯は腕の中にすり寄ってくるグリムを抱いて、心配そうに顔を覗いてくるゴースト達を見ながらその日は意識を閉じてしまった。
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