10
恩人がアルハイゼンだとわかってから、アウラリアリアの瞳はさらに熱を持ってアルハイゼンを見つめるようになった。
全面に押し出される好意はもう隠すつもりもないんじゃないかというくらいアルハイゼンにぶつけられ、二人の関係が周囲にバレるのも時間の問題だろう。
今日もすれ違ったアウラリアリアはその背が見えなくなる直前に振り返り、うっすらと頬を赤く染めて手を振りながら去っていく。
その場にはアルハイゼン以外にもアウラリアリアが挨拶をした者は数人いるので、自分へ手を振ったと勘違いして歓喜したので杞憂かもしれないが。
「アウラリアリアさん最近機嫌いいよな」
「この間も僕に笑いかけてくれたからワンチャンあるかも……」
「そういや聞いてくれよ、この間の花神誕祭のときにさ!」
「………………」
不意にカーヴェの言葉が脳裏を過る。
確かに、アウラリアリアのこういった行動は少し残酷なのかもしれない。膨れ上がった期待というのは裏切られたと強く感じさせる要因にもなりかねない。
彼女はただアルハイゼンに向けて手を振っただけ、交わされる挨拶も社交辞令として返しているだけにすぎない。だが、残念なことに周囲が同じように受け取るとは限らない。憧れというのは時に視界を曇らせる。
軽率なことは辞めるべきだと今夜にも注意すべきだろうか。だがアウラリアリアに決して非はない。それに人間関係を円滑にしておくのも彼女の仕事の内だ。
「アルハイゼン書記官、少しよろしいでしょうか?」
「あぁ」
強制的に止められた思考を保留にし、アルハイゼンはアウラリアリアが去った方向を少しの間見つめてから己の仕事へと戻った。
◇◆◇
結論から言えば、結局アウラリアリアの在り方を変えさせることは出来なかった。
接していればわかることだがアウラリアリアはどちらかと言えば人懐っこい性格だ。過去の事件から好意が悪意に変わることを恐れるようになってはいるものの、あれから今現在まで交友の仕方を変えていないのだからアルハイゼンが今更何を言っても無駄だろう。
恋人としてできることと言えば、彼女をなるべく一人にしないこと、彼女の周囲に気を配ること。幸い、仕事中の彼女は父親か母親の傍にいるし、プライベートの時間も最近はほとんどアルハイゼンと過ごして居るのでこれといって対策を練る必要もなかった。
今もアルハイゼンの太ももを枕にして安心しきった寝顔を見せている。男の、しかも恋人の家で無防備すぎるのもこれはこれで少し腹が立つのだが、信頼されているに越したことはない。
彼女の重みを感じながら本を読む時間はなによりの至福だ。望むものがすべて手中に収まっている。
たまに突然帰ってきたカーヴェが気まずそうな声を出しながらすぐに自分の部屋へと消えていくがアルハイゼンの知ったことではない。ここはアルハイゼンの持ち家であり、カーヴェはただの居候。気を利かせるべきは彼の方なのだから。
「……アウラリアリア、そろそろ起きろ。帰る時間だ」
「ん……んー……うん」
「うん、じゃない。また泊っていく気か?」
あの日からアウラリアリアはアルハイゼンの家に泊まることが多くなった。なにをするでもなく、ただのんびりと話をして、お互いのことを少しずつ知りながら眠りにつく。
そこにキス以上の恋人らしい営みがないことにアルハイゼンは別に不満はなかったが、悶々として寝つきが悪くなるのは健全な成人男性としては当然だろう。
何度も肩を揺すって強制的に目覚めさせればアウラリアリアは目をこすりながら起き上がる。
「……今日は、ダメ」
「……なにか用事でもあるのか?」
アウラリアリアの返事にアルハイゼンは珍しいこともあるのだと目を丸くした。
いつもならこの流れのままアウラリアリアは眠気に勝てず、彼女をベッドまで運ぶのがお決まりだったからだ。
「言ってなかったかしら……? またパパの用事でスメールシティを少し離れるの」
「聞いていない。いつからだ」
「まだもう少し先だし、ほんの一週間くらいよ。長引いたとしてもほんの数日くらいだったかしら」
「家族旅行か……?」
それなら安心だったのだが、アウラリアリアは首を横に振る。
「お仕事よ。行くのは私だけ」
「それは……」
中止すべきだ、という言葉をアルハイゼンが紡ぐ前にアウラリアリアの指先が遮るように唇に添えられる。
「心配しないで、ちゃんと護衛は雇うつもりだし私だってほんの少しなら自分の身は守れる」
ね?と首を傾げるアウラリアリアはまるで子供をあやすかのようで、扱いに不服さを覚えたアルハイゼンは目を逸らした。
「今日パパとその打ち合わせをする予定なの。遅くなるから今度でいいってパパは言ってたんだけど、そうやって先延ばしにするとパパってばすぐに約束破るから」
そう言って立ち上がったアウラリアリアは帰り支度を始める。せかせかと動くその様子がまるで逃げるようにも見え、自分がまるで丸め込まれたような構図も面白くなかったアルハイゼンは無意識に彼女の手首を掴む。
「アルくん?」
振り向いた一瞬の隙を突いて腕を引けばアウラリアリアはアルハイゼンの腕の中に倒れ込む。簡単に受け止められる柔い身体は戸惑いからかいつもより少し硬い。
「帰したくない、と言ったらどうする」
「へっ? や、やだアルくんってば。冗談は……」
「俺は冗談をあまり言う人間ではない。知っているだろう?」
「うっ……」
きょとんとしたのも束の間、すぐに頬を赤く染めたアウラリアリアはわざとらしい笑みを浮かべてアルハイゼンの胸を押し返すが彼女の力程度で動くほど柔な鍛え方はしていない。
逆に力を込めてもっと引き寄せれば、流石に身の危険を感じたのか口を結んだアウラリアリアはだんまりを決め込んだ。
「アウラリアリア」
わざと息を吹きかけるように彼女の耳元で囁くような声音で名前を呼べば腕の中で肩が跳ねる。
「いつもみたいにお話……」
「ではない」
きっぱりと否定すればアウラリアリアは頬どころか耳まで真っ赤に染め上がる。
アルハイゼンが彼女の帰宅を邪魔するのはこれが初めてだ。いつも泊まるか帰るかを決めていたのは彼女自身で、そこには純粋にただ一緒に過ごしたいという想いか眠気に委ねられた選択しかなかった。
けれどアルハイゼンが今向けているのはギラギラとしたまったく別の感情だ。
「帰るというのならばそれでも構わない。だが、君に残る意思があるのなら……」
アウラリアリアを抱きこんでいたのと逆の手が無防備に晒されているその背を撫ぜる。
「っ…………」
ぞくりと震えたアウラリアリアが倒れ込んでくるのを見越していたアルハイゼンはそのまま彼女を両手で抱え込むと甘い香りのする髪に顔を埋めるように身を寄せて囁く。
「俺は君をもっと深く知りたい」
身体を震わせたアウラリアリアの手が背中にまわる。
──逃げることをやめた花を手折るのはどんな難問よりも難しく、それでいて簡単で、アルハイゼンは抱えていた熱のやり場をようやく手に入れたのと同時に他の誰もが知ることがないアウラリアリアの姿に心が強く満たされた。
◇◆◇
アウラリアリアのすべてがアルハイゼンのモノなのだと知りもせず、今日も誰かの好意が彼女に向けられる。
心身ともに繋がった安心感からか、アルハイゼンは前にもましてそんな彼女の姿をただじっと見つめた。
二人は関係を隠すのを辞め、街中でもこそことせず言葉を交わすようになったが、それで噂が立つなんてことはなかった。アウラリアリアと懇意にしたがる者は多い。その中にアルハイゼンが加わったことに驚く者はいても、書記官も男なんだなという漠然とした噂話だけが広まって二人が恋仲だと気づくものはいなかった。
以前から父親の仕事関係でアルハイゼンの家を訪ねていると触れまわっていたのも大きいだろうが、アルハイゼンが特別な感情を誰かに向けると想像するものが無に等しかったというのもあるだろう。
アウラリアリアを表面上だけ知る人間が彼女を高嶺の花だと遠くから眺めるように、アルハイゼンに対しても謎が深く合理的で冷たい男という印象が人々から消えることはなかった。そんな二人がまさか一般的な男女のように互いを求めあっているなど誰も想像はしない。
彼女の家族とメイド長を除き、唯一事情を知るのはカーヴェだけだったが、順調な交際を静かに見守るその姿は珍しく先輩という言葉が似合っていた。
「予定はそろそろだったか、本当に君だけで行くのか?」
「もう、心配性なんだから。ちゃんと傭兵も一緒だって言ってるじゃない」
久しぶりにプスパカフェの片隅で語らっていた二人の会話は先日も話した仕事の話題になった。
くすくすと笑うアウラリアリアはアルハイゼンの心配などどこ吹く風で真剣に受け止めている様子はない。
「このタイミングで何かが起きるかもしれない。用心に越したことはないだろう。君は如何せんお気楽な部分があるが、そういった油断が事件に繋がる原因になることも覚えた方がいい」
「心配性なところ、お父さまに似てきちゃったわね」
肩を竦めたアウラリアリアはなにかを思い出したように鞄を探ると数冊の本を取り出した。
「これ私が居ない間の埋め合わせ」
押し出すように差し出された本の山を一瞥したアルハイゼンはアウラリアリアをじっと見つめる。
「随分と多いようだが?」
「最近貸す回数も減っていたし、良い機会かなって。お父さまにおすすめを選んでもらったからきっと満足できるわよ」
確かにアウラリアリアと会うのに理由が必要なくなってからは、アルハイゼンの一日は彼女と語らう時間の方が長くなった。彼女のことを知るほどに新しい本を読む時間は減っていく。今は興味がそちらに強く傾いているのだから仕方がない。彼女のすべてを知るにはアルハイゼンの生涯をかけても時間は足りないだろう。
「大丈夫、稲妻に行った時よりはすぐに帰ってくるわよ。用事が早く終わればその分早く帰って来られるし」
稲妻への家族旅行は最長と言っていた三週間かかった。
あの頃はまだ恋人でもなんでもなかったが、アウラリアリアのいない日常に物足りなさは既に感じた。今、同じくらい離れたらどうなってしまうかは想像ができない。
「君は、随分と平気そうなんだな」
「へ?」
「恋人同士がしばらく会えないとなればその時間を惜しむのが普通だろう。事実、俺も君に会えないことに不満を持っている。だが君はケロリとしてまるで俺の方がワガママを言う子供のような扱いを受けている」
まっすぐ見据えて不満を漏らせばぱちぱちとアウラリアリアは瞬きを繰り返す。かと思えば「ぷっ」という音を皮切りに声を出して笑い始めた。
「あはは! アルくんでもそんな風に思うんだ!」
アウラリアリアは腹を抱えながらアルハイゼンを見るとしばらく大笑いしたあと肩で息をしながらようやく落ち着いた。
「寂しいって思わない訳がないじゃない。やだ、そんな怖い顔しないでよ」
「あれだけ笑われておいて不快に思うなという方が無理だろう」
「ごめんなさい。だって、アルくんがあまりにも可愛くて……」
ふふ、とまだ笑うアウラリアリアは気を取り直すように数度咳払いをすると居住まいを正してアルハイゼンを見つめる。
「護衛、本当はアルくんにお願いしたかったのよ。って言ったら驚く?」
「その申請が受け入れられることはないだろう」
目を伏せたアルハイゼンの脳裏に賢者アザールの姿が思い浮かぶ。少し前からアルハイゼンは金髪の旅人の調査を彼直々に依頼されており、表向きアルハイゼンの予定は埋まっている。
「でしょう。だから、アルくんはお留守番確定なの。書記官様にただの護衛だなんて頼めないわ」
なにより、今回は父親すらも同行しない。彼女の一人旅と言ってもいい。大切な仕事ではあるものの、人員を割く理由がない。
「それは良いとして、君がどう思っているかの答えにはなっていないが」
「寂しいに決まってるでしょ! 意地悪なんだから……!」
「意地悪で言った覚えはない。俺はただ事実を確認しているだけだ」
笑いすぎて乱れた髪を直したアウラリアリアは少しだけ頬を染め、目を逸らしながらぽつりと呟く。
「意地悪よ……私がどれだけアルくんのことが好きか知ってるくせにそんなこと言うんだから……」
ぷいっと顔まで逸らしたアウラリアリアは視線だけは辛うじてアルハイゼンに戻すと唇を尖らせる。
「お父さまも心配だってうるさいし、だったらお父さまが行ってきてくれたらいいのにって言ったらすっごく怒られたのよ。秘書の仕事なんだから仕方がないだろうって。こういう時ばっかり娘扱いをやめるんだから」
もう……と機嫌を損ねたままため息をついたアウラリアリアはそのときのやり取りを思い出しているのか、頬を膨らませてはもう一度ため息をつく。
一向に落ち着く気配がない彼女の様子を眺めながらコーヒーを最後まで飲み干したアルハイゼンは追加の注文を代理店主に頼みながらアウラリアリアを観察する。
そういえば彼女とこの場所で逢瀬をするのは数度目になるが代理店主ことエンテカは自分たちのことをどう思っているのだろうか。
流石に彼女くらいは自分たちの関係に勘付いているかもしれない。
「まあ、私だってお仕事だし仕方がないって割り切るわ。それにアルくんが心配してくれたのも寂しがってくれたのも嬉しかった。お互い少しの間我慢しましょうね」
「……君はあまり、俺は気が長くないことを知っているだろう」
「うん……? そうだったかしら? 確かに疑問に思ったらすぐになんでも言っちゃうけど……」
アルハイゼンは相手を気遣って口を噤むということはしない。けれど真相を解き明かすために時間経過が必要であれば待ち時間を読書に充てて過ごせるし、本を読むということ自体が忍耐を必要とする。
「一週間だったか。その期間内に戻ってくるならば次はほどほどにしておこう。だが、それ以上待たせると言うなら容赦はしない」
「ほどほどってなんの……あー! やだ! 言わなくていい! わかった、わかったから。……もう、アルくんのばかっ」
少し悩む素振りを見せたがアウラリアリアはなにを言われているのか理解したのか、勝手に納得して顔を赤く染めて何度も頷く。
初めてこの場所で会った日のような穏やかな時間が緩やかに過ぎていく。
笑みを浮かべたアルハイゼンはエンテカの運んできた新しいコーヒーの香りと共に忙しい日々の合間に得た心地いい満足感を楽しんだ。
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