16
家に居たがるアウラリアリアを説得して連れ出すのが日課となった。
もちろん、本当に嫌だというのならば彼女の家で過ごしてもいいが、大半はアルハイゼンに自分のために時間を使って欲しくないという無用な遠慮からの言葉だったので丸め込むのは簡単だった。
離れようとする彼女の手を掴んで指を絡める。それが恋人つなぎと呼ばれるのだと教えてくれたのは
以前の彼女とは共に外出することはほとんどなかったが、人が寝静まった頃に彼女を家へと送る時はよくこうして手を繋いだ。ただ指を絡めるだけで頬を緩めて笑う顔が好きだった。街中ですれ違う時に誰にでも向ける笑みとは違う、アルハイゼンだけが知る子供のような笑みだ。次にあの笑顔が見られるのはいつになるだろう。
グランドバザールで適当な店を眺めながら歩くだけで自然と周囲の視線が集まる。
アウラリアリアの身に起きたことは大半の人間が知っていた。なにせ彼女の顔はとても広かった。そんな彼女に起きた異変に気付かない人間はスメールにほとんどいないと言っても過言ではない。
それほどまでに周りに愛される彼女だからこそ起こった悲劇なのかもしれないが、説明する手間が省けたのは非常に良かった。
手をつないで歩く姿にコソコソとなにかを囁き合っている住民が多いのは仕方がないことだろうと割り切っている。
「あの……アルハイゼンさん……。やっぱり手は……」
「問題はない」
……割り切れているのはアルハイゼンだけで、囁き声が気になるアウラリアリアは気まずそうに肩を窄めた。
好きだと言っていたザイトゥン桃の試食を勧めれば喜んで手を伸ばすのに、アルハイゼンからは離れようとするのだからおかしな話だ。
だが、カーヴェに言ったように彼女はなにも変わっていない。
「い、いただきます……」
食事の前には必ず挨拶をするし。
「ん、おいしい……!」
「相変わらず好きだなんだねぇ。ほら、もっとお食べよ!」
好物はゆっくりと噛みしめるので食べるのが遅い。店主の言葉に何度も頷いてはいるが、咀嚼が終わらない彼女を横目に先にアルハイゼンが三口目を食べるほどには遅かった。
試食用と同じ木から取れたというよく熟れたザイトゥン桃を買った二人は近くの長椅子に腰を下ろす。大人一人分ほど距離が離れていることには目を瞑ろう。
アルハイゼンの仕事が立て込んでいる都合上、二人が会えるのはほとんど夜に近かった。
夕飯の材料を買いに来た買い物客に混ざって街中を歩くのは少し疲れる。
「代理賢者になるって聞きました。お仕事忙しいんじゃ……?」
「以前よりは少し。だがそれも直に辞表が受理され落ち着くだろう」
「じ、辞表? 賢者は辞退するってこと……?」
覗き込むように身を寄せたアウラリアリアは目を丸くする。賢者はその学派の中で最も地位が高い人物のことを意味し、アザールたちの失脚により現職は六人中二人しか残されていない。
空席となった賢者の席へと持ち上げられたのがスメールを救った英雄と祀り上げられるアルハイゼンなのは至極当然の出来事だった。そして、それと同じくらいアルハイゼンがその椅子を蹴るのも当然の出来事だ。
記憶がないアウラリアリアにしてみればアルハイゼンの行動は不可解に映ったのだろうが、彼の求める平穏で安定した生活にはそこにはない。
「俺は書記官という地位を気に入っている。これ以上にも、これ以下にも興味はない。俺が事件解決に携わったのは変わらない日常を送るためだったからな。変化があっては意味がないんだ」
「そういうもの……なのね……?」
頷いたり首を傾げたりしながらどうにか納得したのかアウラリアリアが離れる。
「あの……覚えているとは思うけど、無理して会いに来なくていいのよ……? マルムさんやメレットさん……えっと、お父さまとお母さまも居てくれるし……」
アルハイゼンを見つめていたはずの瞳は地面へと向けられてどんな表情かはわからない。が、声色は震えていて、それが拒絶からなのか無理をして言っているからなのかは判断がつかない。
「……もし迷惑ならそう言えばいい。俺に会いたくないのだと。だが、そうではなく遠慮から来る言葉なら俺はその提案を受け入れられないな」
「め、迷惑だなんて! そんなことはないの! そんなことは……ない、んだけれど……」
パッとこちらを見たかと思えば視線がまた逸らされる。
歯切れの悪い言葉は地面に投げすてられるように落ちていき、アルハイゼンはそんな彼女の様子をじっと見る。
一挙一動から感じ取れる感情の機微を見逃したくない。
遠慮する己の恋人の本音を正しく掬い上げたい。
アルハイゼンが彼女を見つめ続ける理由はただそれだけだった。
けれど、アルハイゼンが見つめるほどに彼女の動きは硬くなる。長椅子の上で丸まるように体を縮めたその姿は頼りない。
「アルハイゼンさんの恋人ってどんな人だったの……?」
「どんな、とは?」
「だって今の私は違うもの。アルハイゼンさんは知らないだろうけど、昼間護衛の人たちにお願いして外を歩くといろんな人が教えてくれるの。『もっと明るくて元気だった』『また前のように挨拶をしてほしい』『楽しそうに駆けていく姿が好きだった』……どれも今の私とは全然違う」
引き籠っているとばかり思っていたアウラリアリアが外出を自主的に行っているのは意外だった。
「
当然、と返すのは簡単だ。
けれどアルハイゼンは口を開かなかった。
「お父さま言ってたわ。
ぎゅっと膝の上で握られた拳に涙が落ちる。
それを拭っていいのかがわからなくてアルハイゼンは手を伸ばせない。触れたらその瞬間にはじけて消えてしまいそうだ。
「恋人だったからって会いに来なくていいの。優しくしないでいいの。だって、それは私じゃないもの。もう違うの。どこにもいないのよ、あなたの好きだった人。缶詰知識と一緒にどこかに行っちゃった」
ようやく顔を上げてこちらを見たアウラリアリアはぽろぽろと瞳から涙をこぼしているのに綺麗に笑う。記憶を失う前から時折見せていた綺麗な──作り物の笑み。
「だから、ううん……もう会いに来ないで。私が忘れてしまったように、あなたも恋人のことなんて忘れましょう。私が
パッと体が離れていく。急に立ち上がったアウラリアリアが軽やかに背を向けて歩き出す。
かと思えば振り向いて、止まっていない涙を零しながらまた笑う。
「さようなら。よくしてくれてありがとう。助けてくれたことも忘れない。……じゃあね!」
アルハイゼンを振り切るように駆けていくアウラリアリアが最後に浮かべた笑みはアルハイゼンが良く知る昔の彼女そのものだった。
追いかけることもできないまま、一連の姿を見つめるだけだったアルハイゼンはいつのまにか足元に転がっていた買ったばかりのザイトゥン桃を拾い上げてはため息をつく。
突拍子もないアウラリアリアの行動に振り回されるのはいつものことだ。
己の視界を掠めるのが鬱陶しくて前髪をかきあげる。やはりアルハイゼンにしてみれば記憶があろうがなかろうがアウラリアリアはアウラリアリアだ。
世界にこれほどまでにアルハイゼンを悩ませられる女性はいないだろう。
一人残されたアルハイゼンはしばらく長椅子に身を委ね、創神計画以上にやっかいな難題を乗り越えるべく作戦を練り始めた──。
◆◇◆
来ないで、という明確な拒絶は言葉だけでなく行動でも表された。
まず思い浮かんだのは正攻法『言葉で説得する』という単純なものだったのだが、アウラリアリアに会うことは叶わなかった。
家を訪ねれば事情を聞いているのか、わざわざメイド長自らが応じてくれて「お嬢さまに会わせるわけにはいきません」と堅牢な城壁のようにアルハイゼンの前に立ちふさがった。
それでも彼女はアルハイゼンがどれだけアウラリアリアを大切にしていたのかを知っている。無理に追い返すことはせず「お嬢さまは体調を崩されています。お引き取りください」と頭を下げてはなにかを言いたげにアルハイゼンを静かに見つめる。
その瞳に宿っているのは雇い主の言いつけを守るという硬い決意というよりは、アルハイゼンを信じてこの状況を変えてくれと訴えているような、そんな火のついたものだった。
「彼女の様子は」
「……ずっと、泣いていらしてわたくしともあまり話をしてくれません」
「……そうか」
幼いころから面倒を見てくれているというメイド長にアウラリアリアはとても信頼を寄せていた。
それは記憶を失くした今も変わらず、献身的に接してくれる同性の彼女には心を開くのが両親よりも早かったらしい。
「また来る」
長居しても無駄だろう。アルハイゼンはそれだけ聞くと彼女が以前自室だと教えてくれた部屋を見上げてから屋敷を去る。
アウラリアリアの部屋はカーテンで閉ざされ、彼女がどうしているのかはわからなかった。
◇◆◇
信頼のおける人間が上層部からこぞって消えたせいでアウラリアリアの父親と会う機会が増えた。
職務中は彼女の話題を振ることは当然ないが、会議が終わればすぐに向こうから接触してくる。
「アルハイゼン書記官、その……」
娘の身に様々なことが起きたからか、溺愛していると噂に高いマルムは短期間で一気に老けた気がする。やつれた姿は病気を疑うほどだ。
「俺は生憎と諦めが悪い質だ」
「なに?」
「そもそも一度の失敗や挫折で諦める人間はこの仕事に向いていない。学者に必要なのは自身の研究を信じる執念とも呼ぶべき傲慢さと狂気とも呼ぶべき情熱だ」
学者同士の会話に多くの言葉は必要なかった。
それだけ言って背を向けるアルハイゼンをマルムは追いかけてこない。
その代わりに小さな笑い声が響く。
「まったく、娘もやっかいな男にちょっかいを出したものだ。誰に似たんだか」
まるで今にも死にそうな男から発せられたとは思えないほど高らかな笑いはいつまでも知恵の殿堂内に響いていた。
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