05


 取り決めた通りアルハイゼンの家にアウラリアリアが訪ねてきた。
 早々に室内に招き入れればいつも本を抱えた彼女は外で会うよりも目的地がはっきりしていて助かると笑うのだが、アルハイゼンとしては周囲に自分たちのことを勘ぐられることには怯えるくせに異性の家に上がることを気に留めていないことが少し面白くない。
 アルハイゼンを異性として意識していないということはないだろう。会う場所をアルハイゼンの家にしようと決めたときの会話を聞けば誰もが察することができるほど、彼女は明確に己に好意を向けている。

「約束をして誰かの家に行くなんて初めてだわ」

 そう笑って物珍しそうに家中を見渡す彼女は実に嬉しそうだ。
 朝早くに家から追い出した男が何日もかけて唸りながら配置を決めた家具を「素敵ね」と評価されたのにはなんと答えるべきか少し悩むが、そもそも買ったのはアルハイゼン自身なのだから褒められたのは己なのだと思うことにする。

「君がなんにでも興味を持つのは理解しているがそろそろ座ったらどうだ?」
「あっ、じろじろと見てごめんなさい」
「別にそれは構わない。見られて困るものなどなにもないからな」

 部屋の真ん中にある机を囲むように配置してある席の一つに座るよう促せばアウラリアリアはようやく腰を下ろす。

「これ寝台にもなるのよね。食べてすぐ寝ちゃうから身体に良くないって市場に出回る数を減らさせたってお父さまが言っていたわ」

 端に添えられている枕に手を伸ばし、数度撫でるとアウラリアリアは笑みを浮かべる。

「うちにもいくつかあるのよ。お父さまってばすぐにこの上で寝ちゃうし、私が小さい頃は抱きかかえたまま寝ちゃってお母さまによく怒られてたらしいの。……そうだ、アルくんってどんな子供だったの?」
「一般的、とは言えないな。だが今とさほど変わらない」
「ふふ、想像できる。本を読むだけで一日が終わってそう。でも教令院に通い始めたのはだいぶ後なんでしょう? これだけ知識に貪欲ならすぐにでも行きたいと思わなかったの?」
「まだ十歳にも満たないころに一度祖母に促され半日だけ授業を受けたことがあるな」
「半日だけ?」
「すぐに無意味だと感じて家に帰った。一人で学術書を読んでいる方がよほど有意義だったからな。君の父親ほどではないが俺の家も多くの本を所持していた。その中に挟んである資料、直接ページに書きこまれたメモ。そのどれもが当時の俺には教令院の授業より価値のあるものだった」

 知論派の父、因論派の母。そして妙論派の祖母のコレクションである書物は家を新しくした今もアルハイゼンの本棚を彩っている。

「そっかぁ……アルくんらしいなって思うけど、もっと早く出会えたかもって思うと少し残念」
「たとえ俺が幼い頃から在籍していたとしても君との接点はそう生まれないだろう」
「あら、でもまだほんの小さな子供だったんでしょう? そんな優秀な子がいればきっとお父さまはすぐに話のネタにしていたわよ。お父さまね、私とお話するのが好きだけどあまり難しい話は私がわからないからいつも内容に困ってるの」

 くすくすと笑うアウラリアリアは父親の顔でも思い浮かべているのだろう。柔らかい弧を描いた唇や蕩けるような瞳が彼女の中で家族という存在がどれだけ大切なものかということをものがたる。

「前にも話したけど、私アーカーシャを通してじゃなくなんでも自分の力で知りたいの。きっとずっと本を読んでるお父さまの影響ね。お父さまってね、黙々と本を読んでいたかと思えば急に『なんだこれは!』って怒りだして本の内容を修正しちゃうの」
「教令院の人間ならば珍しいことではない。知恵の殿堂には内容の修正のみならず学生の討論の場になり果てた書籍も多くある」

 誰かが本の内容を指摘したメモを書き、そのメモをさらに誰かが訂正する。
 結局なにが正しいのかという一番大切な部分を置き去りにして始められた喧嘩は結果的に書物を台無しにしてしまうことも少なくない。
 もちろんアルハイゼンもいくつかの本の内容を訂正したことがある。間違いというものはどこにでもあるが、それを正しく直せる人間はさほど多くないからだ。

「貸した本の中にもお父さまのメモあったでしょ?」
「あぁ、実際君の父親のメモの方が正しかったな」
「もしお父さまが間違っていたら遠慮なく書き足していいからね」
「言われなくともそうさせてもらうさ」

 アウラリアリアの言葉にアルハイゼンは頷いたが彼女の父親が書いたメモを訂正するときが来るとは思えなかった。教令院の生徒の多くが彼から学びたがる証拠のように彼女の父親の知識はとても正しい。無駄なく簡潔に、わかりやすくまとめられたそれはアウラリアリアから本を借りるようにならなければ出会えなかった。
 先日の様子を見るに彼女は未だに少しこの関係に引け目を感じているようだったが、目にする機会がなかったであろう貴重な知識と共にアルハイゼンの中ではアウラリアリアを知ることもまた一つの刺激になり始めている。
 利益こそあれ、不利益な部分などもうこの関係には一つもない。アウラリアリアはいつこのことに気付くだろうか。椅子の上で身を縮ませている彼女はまだ自宅というアルハイゼンのテリトリーに招待された本当の意味には気づきそうにもなかった。

◇◆◇

 それからアウラリアリアは街中ですれ違ったときに挨拶してくるようになった。
 共に居た友人にアルハイゼンとの関係を聞かれれば「最近お父さまの仕事関連で……」と答えながら去っていく。それに対して「でも彼って」とちらりとこちらに視線を向けながら返されている言葉は好意的なものではないだろう。アルハイゼン書記官という男に好印象を持っている人物はさほど多くない。
 比べてアウラリアリアという女性はスメールシティでは評判の良い人間だった。
 父親も母親も有名で育ちが良いというのもあるが、特筆すべきは彼女が誰にでも分け隔てなく友好的に接するという部分だ。
 彼女が少し街を歩けば誰かしらに声を掛けられる。同性の友人はもちろん、名も知らぬであろう赤の他人の声にすら彼女は気軽に応える。

「ぁっ、ア、アウラリアリアさんっ! こんにちは!」

 今も目の間でどこの誰ともわからない教令院の生徒が顔を赤らめながら必死に挨拶すればアウラリアリアは振り向いてすぐ自然な笑顔で「こんにちは」と返した。
そこから会話が発展するということはない。だが、ただ挨拶が返ってきただけで生徒は満足そうに鼻息を荒くして抱えた本を今にも落としそうになりながら興奮のままに駆けていく。
 彼女にとってはそれが日常でも、あの生徒にとって今この瞬間は非日常染みたものになったのだろう。なにもなかったように友人と人ごみに消えていくアウラリアリアの背中と嬉しそうに去っていく生徒の背中が妙に瞼の裏にこびりつく。
 あの生徒よりもアルハイゼンは遙かにアウラリアリアと親しい仲にある。彼女から本を借り、彼女を自宅に招き、他愛もない会話をいくつも重ねた。
 それなのに、今はアルハイゼンもあの生徒と同じ有象無象の一部のような扱いを受けている。
 人目があるところで避けられていたことを思えば今の方が関係は良好だと言えるだろうに、逆にどこか距離が遠のいた気すらする。
 靄がかかったかのようになにかが胸の内で燻っていく。ふつふつと煮えたぎる感情の行方に悩みながらもアルハイゼンはアウラリアリアとも生徒とも違う、また別の方向へと歩を進めた。

◇◆◇

 書記官の仕事は実に簡単だ。ただ必要なことをまとめればいい。くだらない会議では不必要なことが山のようにあり、アルハイゼンの仕事はほとんどないと言ってもよかった。
 教令院に属する人間の中でも特に聡明だと認められているはずの肩書を持つ者たちのやりとりにはアルハイゼンには理解しがたい不要なものが多すぎる。
 無駄なやりとりに耳を傾けるのを早々にやめたアルハイゼンは、自分と同じように恐らくまったく別のことにこの時間を使っているであろう人物を不自然にならない程度に見る。
 難しそうな顔で目を閉じ、なにか言いたげに眉間にしわを寄せているのはパフォーマンスの一種だろう。いかにも真面目に聞いています、といった態度で頭の中ではまったく別のことを考えている。
 その証拠に彼の手元では握られたペンが延々となにかを書き記すために必死に動かされていた。
 不意に目を開けた彼と目が合ってしまったアルハイゼンは無駄だとわかっていながらくだらない会話の一部を手元の書類に書き写すフリをして誤魔化した。



「アルハイゼン書記官」

 結局、そんな無駄な誤魔化しは彼には通じていなかった。
 ただ時間を浪費した話し合いという名の茶番が終わってすぐに彼が声をかけてきた。どこかアウラリアリアと雰囲気が似ている気がしなくもないが、威厳漂う風貌はやはり彼女とは似ていない気もする。

「最近、娘とは……その……どうなんだ」
「どう、とは。あなたらしくもない。聞きたいことがあるならば直接的な言葉で聞かなければ正しい情報は得られないとよくご存じでしょう」
「……そうだな。あー……、親しくしてくれていると聞いている。君には常々感謝しているよ」

 一瞬辺りを見渡し、他の者が去ったのを確認してから改めてマルム・アプフェルシュランケ──アウラリアリアの父親は口を開いた。

「だが、あれは少しお転婆な所があるだろう。なんにでも首を突っ込みたがるし、誰にでも愛想がいい。親しみやすいとも言える私にはない才能だが、またなにか起きるとも知れない」
「……懸念はもっともでしょう。既に察知したマハマトラも動き始めている。彼女自身も不審な気配を感じているようでした」
「やはりそうか……。もちろん、君のことは信頼している。なにかあったらまた助けになってやってくれ。時間を取らせてすまなかったね。──あぁそうだ、これを君に。娘が『君が早く読みたいだろうから』と」

 一度背を向けたと思えばすぐに振り返ったマルムはアルハイゼンに一冊の本を押し付けてまた背を向けて今度こそ去っていく。

「…………」

 黙ってその背中を見送ったアルハイゼンは手元に残された本をじっと見つめる。少しだけこの場でページを捲ってみようかと悩んだが、思い直して鞄の中へと押し込めた。
 誰も居なくなった会議室を去る自分の足音がやけに耳に付いて離れなかった。

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