06


「君が机に花を飾る趣味があったとは驚きだ」

 帰ってくるなり早々に犬や猫のように鼻をひくひくと動かしたカーヴェは机の真ん中に飾られたスメールローズを見て瞳を瞬かせた。
 無遠慮に目の前に座った男に対してアルハイゼンはなんの反応も示さないまま黙って本の続きを読みふける。アウラリアリアが帰ってから読み始めたこの本はまだ半分も読み終えていない。

「おかえりの一言くらいないのか君は!」
「その言葉は帰ってきた相手をねぎらうために使われる。俺は別に君にこの家に帰ってきて欲しいとも思っていないし、その言葉を君に使う必要性があるとも思ってない」
「まったく……!」

 相も変わらずぷんぷんと風スライムのように勝手に膨れ上がるカーヴェは珍しく不在の間に増えた家具に文句を付けてこない。
 それどころか生けられた瓶を眺めては悪くないと満足そうに数度頷く。

「アルハイゼンにしては趣味が良い。というよりこの家に合っている。ようやく芸術のなんたるかを理解したのかい?」
「……それは彼女が用意したものだ」
「彼女? あぁ、アウラリアリアか……。……その、君たちは本当に付き合っていないんだよな?」
「ああ」
「自宅に招き入れてまでいるのに?」
「…………」

 訝し気なカーヴェの視線にアルハイゼンの動きが止まる。
 普段のアルハイゼンであれば異性を自宅にあげる理由に所謂下心というものが必ず存在していると思うならば大間違いだと大きな声でその考えを否定しただろう。
 けれど今のアルハイゼンには、いや──アウラリアリアに関してはそれが出来なかった。
 ぴたりと動きを止めたアルハイゼンにカーヴェが大きなため息をつく。揶揄うでもなく、驚くでもなく、呆れたと言わんばかりの行動に流石にむっとしたアルハイゼンは顔を上げずに鋭い眼光だけを彼に向ける。

「待った待った、睨まないでくれ。僕は別に君とこの件で喧嘩をしたい訳じゃない。君たちがどういう流れでどこまで進んでいるのかは知らないが、互いにある程度の好意を持ってはいるんだろう?」

 否定も肯定もせず、ただアウラリアリアが置いていったスメールローズを見つめたアルハイゼンは大きく息を吐きだして同じくらい吸い込んだ。鼻孔を擽る香りは彼女の香りとよく似ている。

「どうすべきか、測りかねている」

 読みかけの本にしおりを挟み、諦めた様に机の端に置いたアルハイゼンはカーヴェから視線を逸らして少し前にアウラリアリアの背中を見送った玄関扉をじっと見つめる。
 明らかに向けられている好意に応えるのは簡単だ。
 アルハイゼンは特別口数が多い人間ではないが己の気持ちを伝えられる語彙力は持ち合わせている。それを彼女がどう受け取るかはわからないが普段のやりとりを思えばきっと寸分たがわず正確に、もしかしたらアルハイゼンが思っている以上に正しく受け止めてくれるだろう。
 だが、アルハイゼンは自分が内に抱えた感情に未だ名を付けられないでいた。
 己が彼女に少なからず興味という名の好意を抱いていることは自覚している。自宅に招いたのもその延長だ。だがアウラリアリアは未だに自分と会うことを、このすっかり日常になり果てた行いを自分のワガママだと言う。
 どれだけ会話が弾んでも、どれだけ笑い声をあげても、彼女は本を貸し借りするという関係がなければ二度とここには足を運ばないのだろうと考えると相変わらず旅行の際に借りた大量の本の山をすべて返そうとは思えなかった。
 まるで人質のように書斎に積み上げられた本の山の存在をカーヴェに指摘させないような態度を取ったのはアルハイゼン自身だったが、いっそのこといつも芸術を語るときのように、この感情ごとあれが切り崩されない理由を暴いてくれればいいのになんてらしくもない思考が過る。

「…………」
「………………」

 長い沈黙が続くが頭の中は大忙しだ。
 カーヴェの視線はそれがわかっているかの如く、ただ黙ってアルハイゼンに向けられている。なんだかそれが面白くない。まるで君の気持ちはわかっているからと静かに寄り添われているような気分になる。
 面白くないと言えばアウラリアリアに関してはそんな感情を抱くことが多いと最近気づいた。
 彼女が自分を異性として意識していないように振舞うのも、街中で取るに足らない他人のような挨拶をされることも、本という繋がりがなければ会ってはいけないと思い込んでいることもすべてが面白くない。
 この感情は果たして恋なのか、愛なのか、それとも友愛か。もしくは独占欲なのか。
 自分の中で決めつけて名前を付けるのは簡単だ。そうしてその形に押し込めてしまえば、もし違うものだったとしてもそれはいつしか名前の通りのモノになる。

「ぷっ……ハハッ! アルハイゼンでもそんな風に思い悩むことがあるんだな!」
「なっ……」

 このまま沈黙が続くとばかり思っていたが、突然カーヴェが噴き出した。

「ハハッ、すまない。……けど、なんだか人間らしくて安心したよ。君が考えていることを当ててやろうか? と言いたいところだが、そんなことをしたら揉めるのは知っているからな」

 どうしたものかと笑ってみせるカーヴェの余裕が憎たらしい。珍しくアルハイゼンとカーヴェの力関係が逆転したかのようだ。

「君がどう思っているかの考えは言わないでおくが、僕が思っていることは言わせてくれ。伝えたいことがあるなら迷わず言うべきだ。今すぐにでも。相手がいつまでも傍にいてくれるとは限らないんだから」
「気持ちがいつまでも持続するとも限らないだろう。一時的、もしくは満たされれば終わりが来る」

 そう、アウラリアリアが、もしくは己が相手に飽きることだってなくはない。
 興味を持って始まった関係だというならば、本や研究に終わりが来るようにいつしか満足して離れていくことだって考えられる。

「なんだ随分と憶病じゃないか。なら聞くが、君は大切な人への気持ちが途切れたことがあるのか?」

 大切な人。カーヴェの問いに浮かんだのは祖母の顔だ。若くして亡くなった両親に代わり自分を育て上げた祖母。
 アルハイゼンが独学で学ぶことを良しとし、望めば教令院で様々な授業の傍聴できるように事前に申請してくれていた彼女の聡明で孫への深い理解。そして愛情がなければアルハイゼンは過去に無駄だと感じた学院での生活や授業を慎ましく送る努力はしなかっただろう。
 なにより、分厚い本に遺された『私の孫、アルハイゼンが平和な生活を送れますように。』というささやかであり、愛情深い言葉は人生の指針になっている。
 祖母に注がれた深い愛情が今のアルハイゼンを形作っているのは、アルハイゼンが今も彼女を忘れず、またその気持ちに応えるだけの愛情を彼女に持ち続けているなによりの証拠だ。

「……確かに、一時的な感情というものはこの世にごまんとある。どれだけ愛し合っていても一緒に居られない人もいるし、家族だって離ればなれになることだってある。僕だって母さんが……、母が新しい道を歩むためにその手を離した」

 確かカーヴェの母親は再婚相手と共に暮らすためフォンテーヌに移り住んだと聞いた気がする。
 母親のことを語るカーヴェは慈しみと寂しさとが複雑に絡み合ったなんとも言えない顔をしているが、どこか満足そうだ。

「アウラリアリアという存在が君の中でどんな形を作っているのかは僕には想像することしかできないが、それでも彼女は君の日常に欠かせないものになっているんだろう?」

 キュッと硬く握っていた拳を解くとカーヴェはもう一度、今度は優しくなにかを手に取るように握りしめる。

「手放したくない、失いたくないと思えたならその感情の名前がなんだって手を伸ばすべきなんだ。そうでなくても彼女は問題を抱えやすいだろう。またなにかあったとき、もしもが起きてから君に後悔して欲しくない」
「もしも、か……」

 たとえ行動に移していたとしても、そのもしもが起きて自分のそれまでの行いを後悔しない人間はいるのだろうか。
 あのときこうすればよかった、ああしていれば。後悔というのはどこからともなく湧き出てくるもので、事前に防げるものではない。
 だがカーヴェの言い分は的を射ていた。己とアウラリアリアの関係にいつか終わりが来るかもしれないことを考えるより、終わらない関係を作り上げる努力をするべきだ。

「……たまには役に立つんだな」
「たまには余計だ! 僕はいつでも素晴らしく役に立っているだろう!」

 また怒り始めたカーヴェを無視して再び本を手に取れば、空気が抜けた風スライムのように彼は部屋の奥へと姿を消した。

◇◆◇

 カーヴェと顔を突き合わせれば必ず喧嘩になるように、アウラリアリアは当然のようにアルハイゼンの日常に居続けている。
 いつもと違うとすれば街中ですれ違って、ただ挨拶をして去ろうとした彼女の手首をアルハイゼンが掴んだことと、スメールシティの外に連れ出したことだけだろう。

「アルくん急にどうしたの……?」

 当然の疑問と共に目を丸くしたままのアウラリアリアに顔を覗き込まれたアルハイゼンはそのまま彼女と視線を合わせる。
 じっと黙って見つめれば、頬を赤らめたアウラリアリアの方が先に逃げていく。
 逃げると言ってもいまだに彼女の手首はとらえたままであまり距離は離れない。

「あの……」

 困ったように眉を下げたアウラリアリアだが、不快には思っていないのだろう。そうであればとっくに突き飛ばすなりしているはずだ。

「君は……」

 熟考して、事前に考えていた言葉を口に出したがアルハイゼンの唇はすぐに紡ぐのをやめた。この場において問いかけほど愚かしいことはないと気づいたからだ。

「いや、俺は存外君を気に入っている」
「そ、そうなの……?」

 アウラリアリアの戸惑いが伝わってくる。瞳は急にどうしたの?と言外にものがたり、傾き始めた夕陽が彼女の顔を照らす。

「相応で面倒のない仕事と過不足なく衣食住が保証され、本を読める日々があれば十分だった。なのに、最近は君に会わないと物足りないと感じる」

 己の生活が、世界が、一人の存在に乱されている。
 いつのまにか溶け込んで、すっかり一部となったくせにそのことに気付いていないのはある種の罪なのではないだろうか。

「だが君は理由がなければ俺とは会わない。君の父親の蔵書にだって限りはある。君はその日が来ればそのまま終わりをよしとするのか?」
「……私は、その」
「迷惑をかけたくないなどという余計な思考は排除すべきだ。これは君と俺との問題で、第三者の思惑や行動は関係がない」
「アルくん……」
「はっきりと言おう。君が俺に興味を持って会いたいと望んだのと同じように、俺も君のことをもっと知りたい。……会いたいと、常に思っている」

 本なんてお飾りの理由はもういらない。互いに会いたいと願うならばそれでいい。
 アルハイゼンの言葉に引き寄せられるように顔を上げたアウラリアリアは困ったように笑うと目をぱちぱちと瞬かせる。

「……私、アルくんの思ってるような子じゃないかもしれないわ。深く知ったら考えが変わるかも」
「知ってから考えればいい」
「なんだか随分感情的なのね」
「そうなる程度に俺は君のことを知っているし、知っているからこそぶつけたくなる気持ちは生まれるものだ」

 一瞬伏せられた瞳は内から出てきた言葉を素直に吐けばすぐにこちらに向けられる。それと同時に彼女の頬が緩み、ほんの少しだけ瞳に熱が帯びたのはきっと気のせいじゃないだろう。

「アルくんにもこんな一面があるなんて初めて知った」

 そうしてくすくすと笑いだすアウラリアリアにもう先ほどまでの戸惑いはなかった。

「……俺も、知らなかった」
「じゃあ私が見つけたのね。アルくんのことまた少し詳しくなっちゃった」
「もっと知ればいい、これから時間をかけて」

 会話を重ねるうちに視線が絡み合ったように、一方的に握っていた手が絡むようになるのは自然なことだった。

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