07
理由がなくてもアウラリアリアが訪ねてくるようになった。父親の本は抱えていないし、関係を偽るための書類の類も持っていない。
それでも堂々と玄関をくぐる彼女を気にするものはいなかったし、二人も関係を誰かに問い詰められようと答えには困らないと胸を張った。
本の貸し借りだけの繋がりが恋人という名前に変わっても二人の日常に変化はない。
ほんの少しだけ語る努力をするなら、アルハイゼンの家のキッチンを借りてアウラリアリアが手料理を振舞うようになったことや、逆にアルハイゼンの料理に彼女が驚いたとか、ささやかすぎる日常のやりとりが増えたことくらいだろう。
特別恋人らしいことを進んでやろうという意志は二人になかった。
互いが互いを深く知ることが出来れば幸せだったし、無理に距離を縮めなくてもなんとなく隣に座れば自然に手と手を触れ合わせ、流れの方から勝手にやってくるからだ。
幸いにもアルハイゼンが普段使いしている座席は以前アウラリアリアが語ったように食事のあとすぐに寝転がれるほど広かった。中には椅子の上に小型のテーブルを乗せ、胡坐をかいたまま食事をする者もいたと言われるほどだ。
押し倒すとまでは行かないものの、彼女を追い込むのにこれほど丁度いい場所はないだろう。
「ちょっと、アルくんってば……」
ぐいぐいと胸板を押し返す手はどこか心もとない。赤らんだ頬はアルハイゼンに付き合うように少しだけ口にした酒だけが原因ではないはずだ。
既に彼女の足は床から離れ、椅子の上で畳まれている。背中が背凭れと枕に触れるのと同時に諦めたように数度瞬くと遠慮がちにそのまま瞼が閉じる。
少し強張った身体の緊張が少しでもほぐれるように優しく頬に触れ、吸い寄せられるまま唇を落とすようになったのがいつからだったかは覚えていない。ただ知りたいという欲求だけがアルハイゼンの身体を動かす。
いつのまにかアウラリアリアを突き動かしていた“知りたい”という欲求は、まるで伝染病のようにうつってしまった。アルハイゼンはこれも全部彼女のせいだと思い込むことで自分の行動を正当化した。
まだあまり触れたことがない場所もアウラリアリアはそのすべてが柔らかいのだろう。いつか唇に触れるだけでは満足出来なくなる日もきっとそう遠くはない。
けれど、今はまだ必死に応える様子と縋るように触れてくる指先の温もりだけで十分に満たされた。
◇◆◇
スメールシティを星たちが照らす。アルハイゼンにしては珍しくだいぶ予定よりも帰るのが遅くなってしまった。興味深い資料を見つけ、読み終える頃には陽が落ちるどころか月が登る時間になっていた。
しまったと思う前に既に足は動き出し自宅へとまっすぐ駆ける。今日もアウラリアリアが訪ねてくるというのにとんだ失敗だ。彼女は今頃諦めて自宅に帰ってしまっているかもしれない。家の前で待つという選択肢はないだろう。そもそもでアルハイゼンはそれを禁じていた。
大マハマトラであるセノは忠告してきて以来彼女の前に姿を現していない。つまり、まだ怪しい動きはどこかで続いているということだ。解決したならば安心させるためにもう一度声をかけてくるはず。
何が起きるかわからない今、アウラリアリアを一人で人目の少ない場所に留まらせるわけにはいかなかった。
それでもアルハイゼンはまだ待っているかもしれないという可能性を考慮し自宅へ全速力で向かう。街中を駆ける珍しい書記官の姿に住人たちが不思議そうな顔で振り向くのも気にしない。
教令院からさほど離れていない場所にある自宅は本気で走ればほんの数分でたどり着く。すっかりアウラリアリアとの逢瀬の場所になった我が家の立地にこれほど感謝したことはない。
足を止め、玄関前を見渡してみてもアウラリアリアの姿がどこにもないことに安堵したのと同時に落胆する。なにか問題が起きた形跡がないのはよかったが、大人しく帰宅したであろうアウラリアリアに今日会うことは叶わないだろう。
仕方がないと自身を納得させながら鍵を取り出したアルハイゼンだったが差し込む前に扉が開かれる。顔を上げて眼前に現れるのは恐らくカーヴェだ。彼は唯一この家の合鍵を所持している。
珍しく出迎えるなどという行動に出た理由はわからないがどうせ碌なことじゃない。アルハイゼンはため息を漏らすと煩わしそうに前髪をかきあげた。走ってきたから汗でまとわりついて気持ちが悪い。
そうして開けた視界のまま顔を上げれば想定外の人物の姿にアルハイゼンはそのしぐさのまま動きを止めた。
「おかえりなさいアルくん。ご飯ならもうすぐできるわよ」
「……何故、君が」
はらはらと零れ落ちる前髪が目の前を掠めるのを見ながらアウラリアリアがくすくす笑うのを見ていると、その後ろで手を振る男がしてやったりと口角を上げるので大体のことはすぐに理解出来た。
アウラリアリアの両肩を掴み、押しやるように共に玄関に入ったアルハイゼンが睨みつければ勝ち誇った笑みを浮かべてカーヴェは己の鍵を顔の横で振る。
「恋人を待たせるなんて言い御身分じゃないか」
妙論派のシンボルでもあるライオンを模した間抜け顔のキーホルダが揺らめくのが腹立たしいがアウラリアリアが居る手前、カーヴェの安い挑発に乗るのは避けたかった。
そんなアルハイゼンの葛藤を知ってか知らずか、アウラリアリアは早々に「お鍋が焦げちゃう」などと零して目の前から居なくなる。
男二人が残された空間は気まずい沈黙だけが残り、そんな沈黙を破ったのはアルハイゼンの小さなため息だった。今ここでどちらかが何を発言しても喧嘩になりかねない。そんな醜態をさらす前にこの男をどうにかしなければ。
「帰ってくるのは明後日じゃなかったのか」
「クライアントとまた揉めた。彼は芸術を何も理解していない。安価であれば何でもいいと一つのこだわりもなく適当なことしか言わないんだ」
ぶつぶつとカーヴェの愚痴が零れ落ちる。いつもであればここは無視して黙って隣を通り抜けるところだが、この男が居たからアウラリアリアは特になんの問題もなく、そして帰ることもなく己の家に居るのだと思えば多少の我慢も出来なくはない。
「カーヴェくんはご飯どれくらい食べるの? 適当に盛っちゃったけど平気かしら?」
戻ってきたアウラリアリアは夕飯の良い匂いをさせながら慣れた手つきで皿を並べる。
「ああ量は別に大丈夫だ。すまない。君にだけ準備をさせてしまって。ほら、アルハイゼンも早く手伝え」
「君に言われなくてもすぐにそうする」
つついてくるカーヴェの肘を軽く払って逃れるとアルハイゼンはすぐにアウラリアリアの元へと駆けよった。
◇◆◇
珍しく固形じゃない料理であったため、というよりはカーヴェの存在が邪魔をしていつものような晩飯にはならなかった。
とろりとした液状のシャフリサブスシチューを食べるのはいつぶりだろうか。
「それでアルハイゼンはなんて言ったと思う? 『君たちに必要なのは時間ではなく年相応の知恵と理性だ。いくら外見に劇的な変化をもたらそうが内面が伴わなければ意味がない』って、当然相手はカンカンに怒りだしたよ」
「研究を頭から否定しただけじゃなく相手の人格まで否定したの?」
「それくらいそいつらの研究内容がひどかったってことさ。本当はもう少し泳がせたところでマハマトラたちも捕らえる予定だったらしいんだが、アルハイゼンがズカズカと指摘するために踏み込んでその計画も全部パァ。本当に酷い話だよ」
気分がいいのか、カーヴェが酒を注ぐ手が止まらない。それでも彼が真実しか語らないのでアルハイゼンは聞き手に徹した。
ちょうど三つ。机を囲むように設置された椅子にそれぞれ座り、好きな料理に手を付ける。
アウラリアリアの料理はとても上手というほどでもないが普通に食べられる。ほんの少しおっちょこちょいで稀になにかしらを焦がしているが、今となってはそれも愛嬌の内だとアルハイゼンはすっかり彼女に甘くなっていた。
机いっぱいに広げられていた料理はあっという間にそれぞれの胃に収まり。残っているのが酒だけになる頃にはカーヴェのくだらない過去話に満足そうに笑っていたアウラリアリアはだいぶ酔いがまわってきたのかうつらうつらと船を漕ぎ始めた。
話の盛り上がりに対して実はそれほど飲んでいなかったカーヴェは珍しくまだ目を開けていて、そんな彼の特徴的な瞳がアウラリアリアを見つめてからアルハイゼンに移る。
それと同時にこてりとアウラリアリアの身体が傾いて、その白く細い四肢が広い椅子の上に投げ出された。
「……初めて話したがどこにでもいる普通の女の子だな。僕は正直もう少し高嶺の花というか、近寄りがたい人物を想像していた」
「実際に近寄るのは容易じゃないだろう。下手をすれば彼女の父親に睨まれる」
「それはそうなんだが。ほら、彼女って誰にでも挨拶を返すだろう。確かに交友関係は広いみたいだが、この街に住むすべての人間と知り合いだなんてありえない。一方的に自分を知っている相手にも分け隔てなく接するのは一見慈悲深いように見えて少し残酷だ」
アルハイゼンの脳裏にいつしかのアウラリアリアの姿が過る。他人のように振舞う彼女に不満を覚えたのがかなり前のように思えた。
あのとき、自分と同じようにアウラリアリアに挨拶をされた生徒は確かにとても彼女と知り合いには見えなかった。
一方的に知っている憧れの人に勇気を振り絞って声をかけ、ただの社交辞令に舞い上がる。そんな哀れな道化染みた関係。言い方を変えれば残酷と言っても過言ではないだろう。もしかしたらアウラリアリアはもうあのときの男のことを覚えてなどいないかもしれない。
「そうした喜びはいつか下手をすれば狂気に変わる。好きと嫌いはイコールではないけれど、なんらかの要素を用いればどちらも相手に危害を加える感情に変容する可能性を秘めている」
「彼女を招き入れたのはそのためか」
「最近、少し気になることを聞いたんだ。それなのに君が留守だからと一人追い返すのは得策とは思えなかったし、僕が送るというのもなんだか違う気がしたからな」
「その判断には……感謝しておこう」
むにゃむにゃとなんらかの夢を見始めているのか、口を動かすアウラリアリアの表情はどこか幼い。だが普段の彼女のたおやかな花のような佇まいは人を引き寄せる。
特定の何かを異様なまでに引き寄せるものは色々とある。時にそのメカニズムを利用して害虫を駆除するために用いられるものもあれば、ただ種を残すための繁殖方法の一つということもある。
彼女が女性として魅力的なのは後者に近しいものだが、本人としてはあまり望ましくないというのが本音だろう。人という生き物は難解でカーヴェの言う通り狂気じみた行いを選ぶ者もいる。
「そう言えば、君たちはあの件については話したのか?」
「……どの?」
「その反応を見るにまだなのか。別に隠すこともないだろう。もしかしたら彼女が君に接触してき」
「嫌な過去を振り返ることになる。彼女にとっては悪夢に等しいかもしれない。別にそんなことを話さなくても俺たちは上手くやっている」
カーヴェの言葉を遮るように食い気味に否定すれば「わかったよ。もう言わない」とすぐに引き下がると立ち上がって背を向ける。
「僕はもう部屋に戻るから、早く彼女をベッドに寝かせてあげたほうがいい。いくらこの椅子が眠気を誘うといってもベッドほどの柔らかさはないからな」
「言われなくてもそうするさ」
そのまま振り向きもせずいなくなるカーヴェを一瞥して、すぐにアルハイゼンはアウラリアリアを抱えあげた。
アウラリアリアにこうして触れるのは初めてではない。だが、ベッドに運ぶのは初めてだ。というよりも、まだ彼女とはそこまでの関係にはなっていない。
ただ抱きしめたことはあっても、キスをしたことがあっても、すべてこの椅子の上だけで行われていて、自分のベッドに彼女が横たわるのがこんなにも早いとは思わなかった。
「どうすべきかな……」
自分はベッドで寝るか、この椅子で寝るか。口先では悩む素振りを見せたものの、アルハイゼンはアウラリアリアの横にすぐに潜り込んで目を閉じた。
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