04
「あれはラリスが客を取るようになってから少し経ってからのことだったわ」
娼婦の一人として働きだしたラリスには兼ねてより彼女を可愛がっていた兵士を中心に客が付いた。
もちろん、彼女が掲げる約束を守る男たちばかりだ。
あくまで提供するのは安心して寝られる一夜で、接触も最低限。
唯一許されているのはその膝だけで、……けれど兵士たちは娘に膝枕されているようだとそこに安らぎを見出した。
中には下心を持った者も当然居たが、夜のとばりはマダムの名のもとに守られた場所。
よほどの愚か者でない限り、駐屯兵と娼館の間に結ばれた用心棒としての役割を忘れるものはいなかった。
「ほとんどの兵士はいい人ばかりよ。今でこそ自警団になっているけれど、当時から関係は変わらない」
「……けど、例外はどこにだって現れる」
規則で縛ることが出来るのならどんな組織でも問題は起こらない。
この世に絶対など存在しないことはジョシュアも嫌というほど身に染みている。
ジョシュアの言葉に頷いたイサベルは息を吐くと目を閉じる。
「私も、何度苦い思いをしたことか……。娼婦たちは娘のような存在よ。でも、中には執拗に執着されたあげくお客共々命を失ってしまった子もいる」
痛む胸を押さえるように手を添えたイサベルの頭の中にはきっと亡くした誰かの顔が浮かんでいるのだろう。
客が娼婦に執着し、拗れた挙句にすべてが終わる。
どこの歓楽街でもよく聞く話だ。
けれど、当事者はもちろん、周囲の人間にとっても「だから平気」で終われる話ではない。
他人から見れば「よくある話」は降りかかった当人にしてみればただの現実だ。
失われたものが戻ってくることもない。
「だから……今もあなたの隣にあの子がいるのは本当に奇跡なことなの」
言葉を探すように、躊躇いながら話すイサベルは一瞬ジョシュアを見るとすぐ目を逸らす。
娼館を背負って立ち、兵士や貴族たちとも堂々としたやりとりをするという噂のマダムにしては随分と口が重い。
その姿にジョシュアの額にじわりと汗が浮かぶ。
「いつも通りの夜だった。少しお酒のまわった兵士があの子を伴い部屋に入る」
扉越しに浮かれた兵士の声が響く。
きっと、今日と変わらない。そんな夜だったのだろう。
目を閉じて、その様子を思い浮かべたジョシュアは一人の兵士と薄暗い部屋に入っていくラリスを想像する。
思わずきゅっと眉間に皺が寄ってしまうのは仕方がない。
例えそれが過去の出来事だろうとジョシュアには面白くない話だ。
「手を引いて、ベッドに誘い膝を貸す。優しく頭を撫でながら寝物語を聞かせてもいい。ただ愚痴を聞くでもいい。それだけで大半の客は満足していたんだもの」
「……けど、そうじゃなかった?」
はやる気持ちが話の続きを促してしまう。
本音を言えば聞きたくないのに。
それでも聞かずにはいられなかった。
「初めに気づいたのは……常連の兵士だったわ」
苦い顔をするイサベルはきっと気づけなかったのだろう。
ジョシュアの握られた拳があまりの力に震えだす。
「甲高い悲鳴が聞こえたの。始めは……どこかの部屋が盛っているのだと思っていたのだけれど、誰かが『ラリスの声だ』と駆け出した」
ラリスの悲鳴。
その言葉だけで胃の奥が重く沈む。
聞いたこともないはずの声なのに、想像だけで息が詰まりそうだった。
その場に居た人物ならばその一言で誰もが状況に気づいただろう。
彼女の掲げる仕事にそんな要素は一つもない。
あるとすれば、……無理を強いられているということだ。
「…………」
暗く、重い感情がジョシュアの胸を締め付ける。
みなまで言われなくてもラリスの身に何が起きたのか想像が付く。
思わず耳を塞ぎたくなるが、グローブがぎちぎちと音を立てるのも気にせず握りしめて耐えているとイサベルが話を続ける
「……私が駆け付けた時には兵士はすでに取り押さえられていた。けれど、ベッドの上には青ざめて少し乱れた服の胸元を抑えたあの子が居た」
一瞬ジョシュアの表情を伺うように視線を動かしたイサベルは瞼を伏せる。
「可哀そうなくらい震えていて、私はその場を彼らに任せてラリスを別の部屋にすぐ連れ出したわ」
行く当てのない怒りや悲しみが渦巻いて、ジョシュアの中を満たしていく。
きっとそれはその兵士だけじゃない。己自身にも向いている。
なぜ、自分は今までそんなことが起きていたことを知らなかったんだろうか。
なぜ、誰も教えてくれなかったんだろうか。
「…………っ」
そして一つの可能性に行き当たる。
教えられなかったのではない。
教えられなかったのだ。
ラリス自身が望まなかったから。
けれど、それは今この場で話す必要はないことだ。
暗い室内を満たす沈黙を先に破ったのイサベルだ。
「恐怖で震えているのに涙だけは零さなかった。娼館で働いているのだからこういうこともあると自分で自分を誤魔化していた」
健気と呼ぶにはあまりにも愚かで、けれどラリスのしそうなことだとジョシュアは目を伏せる。
彼女はどうして自分をそうも追い込んでしまうのだろう。
誰も望んでいないのに、それが自分に出来ることだと決めつけてしまう。
ジョシュアの気持ちはいつもどこかに置き去りにされていた。
「だから……私は代わりに昔話をしたの。私と彼の……ベアラーだった恋人の話よ」
「マダムにもそんな相手が……?」
「ええ。……だから、シドの協力者になったと言ってもいい」
懐かしそうに瞳を細めたイサベルはきっと恋人のことを思い浮かべているのだろう。
その寂しそうな笑みを見るに、明るい話ではなさそうだ。
「彼と恋に落ちた私は紆余屈折を経て夜のとばりのマダムとなった。……けれど、その隣に彼はいない。相手がベアラーだったと聞けば、聡明なあなたなら理由はわかるでしょう?」
「…………想像だけで口にするのは憚れます」
「優しいのね。ありがとう。でも大丈夫よ。私たちは……穏やかな最期を迎えることが出来たから」
それは幸せなのだろうか。
疑問を口にすることはできなかった。
少なくとも、この世界の在り方を考えれば多少なりとも幸福な結末であったことは確かだからだ。
「そんな話を聞かせたらね。あの子は自分もベアラーなのだと打ち明けてくれた」
「!」
「……嘘ばかりを積み上げているとも言っていたわね」
思わずジョシュアが顔を上げればイサベルは静かに首を横に振る。
「ベアラーであることが知られればどんな目にあうかわからない。……もしもが起きれば、あなたはきっと助けに来てしまう。だから傍には居られないのだと、そう言っていたわ」
「ラリス……」
「けれど、こうも言っていた。本当は『誰よりも傍に居たい』って」
「っ……」
イサベルの口から語られるラリスの言葉に思わず息を呑めば、一瞬驚いたイサベルが小さく笑う。
「私はなんて馬鹿な子なのかと思ったわ。好きなら会いに行けばいい。傍に居たいならそうすればいい」
まるで娘を想う母親のような声で零すイサベルは普段の妖艶さは身を潜め、本当の母親のように見える。
「でもあの子の意思は固くて決して譲らなかった……。そしてもう一つ『もしものことがあれば、二度と会わないと決めている』とも言っていた」
「もしも……?」
「娼館で働いている人に偏見があるわけではない。けれど、他の人に身を捧げることがあればそうなった自分をあなたに見せたくないんですって」
イサベルはまっすぐにジョシュアを見つめる。
「ねえ、ジョシュア」
優しく、柔らかい声。
なのに有無を言わさない重みがある。
「あなたはそれを知ったうえで、あの子の隣に立てる?」
これはきっと、娼館のマダムとしてではなく一人の女性としての言葉だろう。
娼館で働く覚悟を決めながら、ただ一人の男だけを想い続けた。
イサベルが問うているのは、きっとその人生そのものだ。
「僕は……」
言葉が上手く出てこない。
掴もうとしようと手を伸ばすたびにどこかへするりと逃げていく。
ラリスを足手纏いと思ったことなど一度もない。
ずっとただ傍に居て欲しかった。
仮に「もしも」があったとしても、それでも隣に帰ってきて欲しかった。
今でこそ、例え話でしかないそれが、当時は現実としてラリスの細い体に圧し掛かっていたのだと思うと胸が痛いどころではない。
痛みを通り越して吐き気さえしてくる。
クライヴが娼館から連れ出していなければ……ラリスが再会を諦めてすべてを受け入れていたならどうなっていたのだろう。
……考えたくもない。
そんな結末を受け入れられるほど自分は出来た人間じゃない。
失いかけていた未来に眩暈がしてくる。
何も知らず、その可能性の上で生かされていた自分すら憎くて仕方がない。
「それでも僕は……ただ彼女を愛しています」
絞り出すように零れた本音は自分でも驚くほど単純だった。
けれど、それ以上の答えをジョシュアは持っていなかった。
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