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マナーモードにできないブタはただのブタ



部屋の窓を全開にしても、風があまり吹いていないせいか、空気は澱んでいる。この部屋の空気は外に出ていかないし、外から新しい空気が入ってきているような気もしない。
銀さんが部屋を出てから、オムライスを完食したあたしは、食器類を片付けて、酷い色をした自分の顔を洗面台で確認し、とりあえず銭湯に行くことを心に決めた。

どうしても、あの時の銀さんの顔が忘れられない。あたしを床に押し倒した時の、怒気と悲哀が綯い交ぜになった、何とも形容し難い見たこともない顔。忘れようとしても、ふいに浮かびその度に溜息が溢れ出てしまう。
銀さんはどうしてあんな質問をしたんだろう。
あたしはどう答えれば良かったんだろう。
ぐるぐると渦巻く頭の中の疑問は、考えれば考えるほど、答えから遠のいてゆく。

「だーーーっ!駄目だ!重っ!超絶重いよ、なんなの、重すぎて引く!自分で引く!!」

考えすぎは良くない。
ネガティブすぎるのが嫌いなあたしは、そう言い訳して思考を断ち切る。
自分に引いた衝撃で、そばにあった布団にダイブしていたのに気づき、直さなければと思いながらも、“銀さんの匂いがする”布団に鼻を押し当てると、すぐにまたぐるぐると頭が回転を始めた。
まあこんなことで断ち切れたら、誰も苦労はしない。


白壁荘は江戸に上京して来てから、ずっと一人暮らしをしているアパートだ。
家賃もそこそこ安いし、スーパーもコンビニも徒歩圏内、しかもコンビニは2店舗もあるし、少し歩けばいつもお昼時には家族連れやカップルで賑わうファミレス、近くに美味しい団子屋も何軒かあるし、1LDKで広々と使える部屋と、リビングと繋がったキッチンは結構気に入ってる。
唯一の難点、と言えば、「一つだけじゃねェだろィ。」とこの前総悟に言われたのを思い出し苦笑するが、あたしから言わせてみれば難点はこの一つだけ───


「ぷっはーっ。」


難点、それは部屋にお風呂が無いこと。
いつも徒歩3分の所にある銭湯を利用している。
昼すぎのこの時間はさすがに人が少ない。
誰も居ない湯槽の中で、あたしは体を伸ばす。
これはこれで良いところもあるんだけど、入りたい時にすぐ入れなかったりするから、唯一の難点ということにしておく。
それにしても、白壁荘住人には、ロッカーがそれぞれ専用のものが充てがわれている。そこにシャンプーやリンス、化粧落とし、洗顔、などなどを詰め込んでおけば手ぶらで銭湯に行ける。
タオルも、白壁荘住人には入口で銭湯のおばちゃんが渡してくれる。なんでも、管理人さんが、タオルを大量に用意してくれて、使用済みタオルを洗濯し、綺麗なものを銭湯へ運び入れるのを何日か置きに行ってくれているらしい。
もはや、感謝しかない。


「おばちゃん、ありがとー」
そう言ってさっぱりした身体で、番台のおばちゃんに挨拶しながら暖簾をくぐった。

外は風が少し吹いていた。風呂上がりの身体に当たる風がとても気持ちいい。
こんな時間にお風呂なんて、なんだか久しぶりだ。
スナックとかキャバクラで働いていた時は、明け方に帰ってきてそのまま寝ちゃって昼に起きて銭湯、っていう生活リズムが定着してたからなぁ。
団子屋で働き始める前には、早寝早起きのリズムに戻すようにしてから勤務したりしたのになぁ。その団子屋も今はもう無い。
だけど、今万事屋に居られるのは、その団子屋が無くなったお陰でもある。

新八、神楽、定春、みんな元気にしてるかな?
銀さんは万事屋に戻って、ご飯食べて今頃またパチンコにでも行ってるんだろうか。それとも、万事屋で寝てたりするんだろうか。
新八と神楽は、あたしをちゃんと家まで送ったのかどうか、銀さんに問い詰めて、心配してくれているかもしれない。銀さんは、二人にギャアギャア責められて、定春には頭をかぷりと噛まれて、頭から血を流して……
そんな情景がありありと頭の中に浮かんでくる。
自然と口元が緩む。変な人と思われたくなくて、地面に顔を落として歩いていると、それが凶と出たのか正面から何かに衝突した。


「うぶっ……!……っご、ごめんなさい。ちょっと余所見して……て、」
「こっちこそ悪ィな。名前。」

視界の隅に眼帯が映った。
朦朧とする意識の中で、身体の力も入れられず瞼も重いのに、頭は変に冴えていて、あたしの口に布を押し当てるそいつは高杉に違いないと悟った。

それから、“ああ、早く、万事屋に帰りたい。”と、水溜りの中に雫が落ちるように、ぽとり、胸の中に波紋が広がっていった。











───沼の底に沈んでゆくような不快な浮遊感。身体は重いようで軽いような。そんな矛盾を携えていると頬に何かが当たって、瞑っていた瞼をゆっくり押し上げた。
空から降ってくるのは、涙雨。
悲しいのか、嬉しいのか、どっちだろう。
あたしはふいに手を伸ばす。
天から落ちる雫を掴むように。
これ以上もう伸ばせないところまでうんと伸ばして、それから手を握る。
あたしのその手と同時に、世界は崩れた────



「はっ……!………はぁ、はぁ、」

夢を見ていた。
現実でも腕を伸ばしていたのだろうか、右腕が変に怠い。掌は硬く握られていた。

「起きたか。」
「ひっ……!た、高杉……」

一式の布団の上に寝かされていた上半身を起こすと、背後から声が掛かり、びっくりして咄嗟に掛布団を引き寄せた。それを胸に抱きながら後ろを振り向くと、三味線を構えるそいつが窓枠に腰掛けていた。

「夢でも見てたか。」
「……………………」
「フン。そんなに警戒したところで、状況がどう変わるわけでもあるめェ。」
「どうして。あたしに何の用があってこんなことするの?」

三味線の弦を抑える指先。撥を構える手首が廻る。女物の柄のある着物を身に纏っているのも相まって、そこだけ見れば、女性のような色香を感じる。
しかし、纏う空気は柔らかなものではなく、むしろその逆だ。危険な色気が肌に突き刺さって、ぴりぴりと身体中が痺れるようだった。

「銀時とはどこまでいった?」
「え。…………は?」
「銀時とは、そういう関係じゃねェのか。」
「……ちっ、違うに決まってるでしょ!」
「…………そうか」

突然三味線を放った高杉は、あたしを見下ろしながら此方に近寄ってくる。
思ってたよりも近かったあたしたちの距離は、一瞬にして埋まってしまった。

「なっ、何よ!ちょ、な、待っ、ひゃああ!」
「色気のねェ声出すんじゃねェよ。」

ゼロになった距離に気が動転していると、布団の上に押し倒される。あたしの上には高杉の身体が覆い被さり、ついでに掴んでいた掛布団を引っぺがされた。

「や、だ!ちょっと、何すんのよ!」
「生娘じゃあるめェし、騒ぐんじゃねェ」

胸を押し返そうと腕を突き出せば、今度は両手首を布団に縫いつけられる。細い身体のどこに力を隠していたのか、手首を握る力が途轍もなく強い。あたしが驚いている間に、高杉は首筋に頭を埋めてきた。唇が首を這うように下がってゆき、鎖骨の辺りを経過し、そしてまた首に戻ってくる。

「やめてったら!!」

ついに我慢の限界がきたあたしは、高杉の腹に膝蹴りをお見舞いしてやった。
ちょうど鳩尾の辺りにクリーンヒットしてくれたのか、奴は眉間に皺を寄せてあたしから離れる。その隙に、あたしも立ち上がり間を空けるように後ずさる。
手で首を撫ぞる。首が鈍く痛い。
“咬まれた”と気づいたのは、その時だった。

「銀時のモンじゃねェなら、すぐにでも俺のモンにしてしまうのも悪かねェと思ったんだが。どうやら、一筋縄じゃいかねェようだなァ」
「あ、当たり前でしょ!?いきなり、そんなことされても、よく、解らないし……」
「フッ。解らねェってんなら教えてやろうか?女ってのは言葉が無けりゃあ信用できねェ生き物らしいからなァ。」
「いや。アンタがクソ野郎ってことは、言われなくても今ので解った。」


───「晋助様。」

突然、女の声が響いた。
どうやら今まで気づかなかったけれど、ここはとある部屋になっていて、扉は一つのみ。その扉の向こうに女がいるらしい。
“様”を付けているのは、高杉が率いているという鬼兵隊の部下の一人だからだろうか。それとも高杉の恋人なのか。どちらにしろ、あたしの味方ではないということは解る。
扉の方に意識を集中させていると、高杉はさっきまで弾いていた三味線を拾い上げ、その扉に手を掛けた。そのまま出て行く気でいるらしい。あたしは堪らず声を上げる。


「あたし、誰のもんにもなる気無いから。」

高杉は此方を一瞥してから、不敵に笑んで部屋を出て行った。
ガチャガチャと音がする。扉に鍵が掛けられたとみて間違いないだろう。扉に身体を引っ付けて耳を澄ましていると、人が歩く足音が二人分遠ざかってゆく。扉の向こうにはもう誰も居ないようだ。

あたしは扉から離れて、溜息を吐いた。
ついでに乱れていた着物を整える。すると、帯の中に挟み込んであった小さい二つ折りのものがあるのを思い出した。
“ケータイ”を帯の中から取り出しながら、あたしは一人ほくそ笑んだ。

あたし、文明の発達持ってた……!!

「むふ。ムフフ……。あたし、持ってるんだった。さっすが。まずは万事屋に掛けたいところだけど、ここはやっぱり警察かな。えーっと、」

ケータイを没収されてなくて、本当に良かった。それよりもまず、ケータイを買っていて本当に良かった。実は数日前に総悟に言われて買っていたケータイ。“今の時代、持ってねーとかダセェ”と言われて憤慨しながらも買っていたケータイ。
買っていたあたし、ナイス!!!
でも、買ったはいいものの、あまり使いこなせていないので、人に買ったと報告していなかったことに今さら気づく。お登勢さんとか、万事屋とか、こっちは一方的に登録してるはずだけど、今度会ったらこっちの番号も教えておこう。

電話帳から“沖田様”を見つけて通話を押した。
奴が勝手に登録しやがったので、“沖田様”なんて此方側としては非常に屈辱的な登録名になっているが、決して認めた訳ではない。変更の仕方が解らないのだ。それほどに、まだケータイを使いこなせていないのだ。
いやしかし、この状況下でケータイは神の道具にさえ思える。耳元で響くプルルルル、という規則正しい機械音を聞きながら、無事帰還出来たら、一度総悟のことを“沖田様”と呼んでやってもいいような気がしてきた。

『なんでィ。雌ブタから電話なんて初めてじゃねェですかィ?』

……やっぱり、クソ沖田と呼ぼうか。

「雌ブタじゃねーわ!!名前です!名前!総悟助けて!」
『あん?名前?どうした、ハム作る機械にでも挟まれたか?』
「だからブタじゃねーわ!!なんか知らないけど高杉に拉致られてんの!」
『高杉?……おい、お前今どこでィ。』
「い、今?えーーーえっと、今、えーっと……」
『チッ。おい、山崎ー!この番号調べろィ。』
「ごめん、総悟。部屋に閉じ込められてて、窓が一つあるんだけど、これ、開かないのっ!江戸からあまり離れてはいないと思うんだけど、どこに居るんだかさっぱり。」
『落ち着け。今山崎にお前のケータイの電波拾わせてる。それで位置情報探るから、お前はケータイの電源落とさずに肌身離さず持ってろ。』
「う、うん……」
『あ、あとマナーモードにしとけ。』
「ま、まなー?もーど?」
『はぁー。そんなことも知らねェのか。だからお前はいつまで経ってもブタのままなんでィ。』

一人だと少し広いくらいの部屋の隅っこに、あたしは膝を抱え座った。
扉の向こうに依然として人の気配は無い。しかし、これ以上大声で騒いで気づかれでもしたら、ケータイを没収されてしまう。さらに悪ければ破壊までされかねない。大金叩いて買ったケータイをぶっ壊される。
それだけは、絶対に避けたい。
“マナーモードにできねェブタはただのブタでさァ”と、よく解らないことを言い出した総悟に、言い返したい気持ちを必死で抑えて、早くマナーモードの仕方を教えるようにせがんだ。

ガチャ───


瞬間、錠が開く音が聞こえ、あたしは咄嗟に通話を切った。二つ折りにして帯の中に戻す。マナーモードには未だできてない。でも、それどころじゃない。
ケータイを押し当てていた右耳と、両掌が熱い。汗ばむ掌を着物で拭って、三角座りの膝の上に顔を埋める。
膝を抱える腕の隙間から、うまい具合に横目で覗けば、高杉のものらしき足元が見えた。

「このまま狸寝入りを決め込むつもりか?」

“このまま狸寝入りを決め込んでしまおう”と考えた矢先の高杉の発言に驚きを隠せない。
ええい!
この際、もう狸寝入りだとバレてもいい。怖がっているのか、悲しんでいるのか、どう推測されてもいい。何も応えず動かず喋らない。もうこの作戦でいこう。
だって、後は助けを待つだけだもの。
高杉と取り合って、無駄に体力や精神力を削るよりは、そう。
無になるのよ。あたし、無になるの。
あたしは宇宙の一部で、宇宙はあたしの一部なんだから。


────ぎゅるるるるる…………





…………………………………え。




「フン。てめェの腹はえらく正直者らしいなァ」




あたしの胃の中の宇宙では、大戦争が起きているらしい。







2018.2.23

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