保須市でヴィランに遭遇した数日後──午前で授業が終わった日、なまえは病院を受診した。

様々な検査を受けた結果異常なしとの診断が下りた。最後の問診時に約5年強使えなかった個性が戻ったことを告げたが、本来の力が戻ったことは問題ないだろうと言われた。
よかったね、と微笑む初老の医師に頭を下げ診察室を出た。

『病院終わりました。異常なしでした』
メッセージを送信してから病院を出ると、少し強い陽射しに目を細める。夕方近くなっても日が高くなってきた。
なまえは濃紺のブレザーを脱ぎ、シャツの袖を捲る。青、紺、グレーのストライプネクタイを少し緩めながら、夏が近いことを感じていた。


正面玄関から離れ、横断歩道を渡ったところで鞄が揺れた。外ポケットからスマートフォンを取り出すと爆豪からの着信を知らせていた。

「もしもし」
『大丈夫なんか』

学校なのだろう、電話の向こうに囃すような声が聞こえる。『ついてくんじゃねー!』と一瞬スピーカーから遠退いた爆豪の声も聞こえてきた。

『…アホ共が付いてきとった』
「ふふ、賑やかで楽しそうだね」
『うるせぇだけだわ』

そう言ってきっと本気で怒っていないだろう爆豪を想像する。

「身体も脳も異常なしって言われたから大丈夫だよ」
『……』
「ぶつかった時は結構気持ち悪かったから、何もないってわかってほっとしたよ」
『…てめぇは、』
「ん?」
『てめぇは大丈夫なんかよ』

静かなトーンで言われた一言に、なまえは胸が締め付けられた。
事件の後も爆豪とは会えておらず、メッセージと電話のやりとりだけだった。それだけでも十分だと言い聞かせてきたが、爆豪の気遣う言葉につい本音が漏れてしまう。

「ば、くご、くん」
『なんだ』
「…会いたい、です」

声で悟られないように喉に力を入れたつもりが、かえって震えた声になってしまった。電話の向こうの息遣いが変わったのがわかる。

『終わったらすぐ行く。どっかで待ってろ』
「…ありがとう」

電話を切り、重く息を吐いた。
会える嬉しさと、まだ鮮明に思い出せる恐怖が胸の中で混ざり合っていた。




その後、なまえは雄英高校まで来ていた。爆豪に手間をかけたくなかったし、なにより早く会いたかった。
近くまで行くのは憚られたので、通りの反対側からその建物を眺める。大きく綺麗な校舎と周りをぐるりと囲む門の迫力に圧倒される。

なまえは眺めながら、ずっと小さい頃に「雄英に入りたい」と言っていたことを思い出す。「ヒーロー免許取ってお父さんのサイドキックになる」と言うなまえに「サイドキックのサイドキックになってどうすんねん」と笑った父の顔は今も憶えている。
両親が亡くなり個性が使えなくなって以降はそんな将来を考えることはなくなった。諦めたというより、その選択肢がなくなったことをあまりにも自然に受け入れてしまっていた。
今の生活に不満はないし毎日が充実している。ただその校舎を見て、今まで思い出しもしなかった昔の小さな夢を呼び起こしてしまっただけだ。

────でも、爆豪くんと同じ高校っていうのは、ちょっといいかも。

そんな夢想をしながら近くにいる旨を連絡する。ここで待つのは爆豪が嫌がりそうだと思い、その場を離れた。




そこから歩いて10分ほどのコンビニの前で待っていると、少し眉間の皺が深い爆豪が現れた。久しぶりに見る姿にそれだけで心拍が上がる気がする。平常心を装うのに必死だった。

「…おつかれさま」
「なんでここなんだよ」
「え?いや、待ってる間暇だったし行こうかなって。十分離れてると思ったんだけど…」
「近ぇわ。学校の近くは来んなっつったろ」
「ご、ごめん。タイミング良ければ出久くんにも会えるかな、なんて思ったりもして。そんな嫌だと思ってなかった」
「チッ」

いつになく不機嫌を露わにした爆豪に再度謝罪すると、しばしの沈黙の後「行くぞ」と返ってきた。


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数時間前、スピーカー越しで聞いた「会いたい」と震える声に爆豪はスマートフォンを握り締めた。

保須であったことをなまえから聞いた時は耳を疑ったし、いくら無事だと言われてもその姿を認めるまでは安心できそうにないと思った。いつかの雨の日、なまえが言ったことを思い出した。
自分がプロヒーローのそばで職場体験をしている時、なまえは一人死ぬ思いをしていたのだ。仕方のないことだとわかっていても悔しさはいくらでも募った。

だからその姿を視界に入れた時、迫り上がる感情を堪えるのに必死だった。自然と眉に力が入り、いつもより強い言葉を向けてしまう。身を案じる言葉をかけたいと思うのに、虚勢を張っていないと耐えられそうになかった。彼女の前では強い自分で在りたかった。


電車に乗り隣に座ると、触れる左腕から体温が伝わってくる。互いにブレザーを着ておらず薄いシャツ越しに伝わる感覚に、ようやく爆豪の心は凪いでいった。なまえの右手を握り引き寄せた。少し驚いたような気配を感じたが無言を貫くと、なまえも少し身体を寄せてきた。
最寄駅に着くまでずっとそうしていた。




一向に何も言わないなまえの手を引き、通りがかりにあった大きな公園の中を当て所なく歩いていた。 陽は既に落ち、温い空気が辺りを漂っていた。

「…今日はごめんね。急に会いたいとか言って」

やっと発した声になまえを見下ろす。風で揺れる髪から首筋が覗いた。

「爆豪くんも忙しいしって、わかってたんだけど。声、聞いたら、なんか…」

震え出す声に立ち止まる。目元を抑え俯く姿に眉を顰める。

「…会いたいな、って。ほんとごめん」

堪らず繋いだ左手を引いた。胸元に引き寄せたなまえの身体が微かに震えた。

「ばくご、くん」
「耐えんな」
「……っふ、」

なまえの手が胸板に控えめに置かれる。頭を撫でると嗚咽が漏れた。

自分よりはるかに華奢なこの身体で、痛みと恐怖に耐え、人を助けた。あの脳無から逃げ切ったのだ。戻った個性やその冷静さ、当時のことを知りたい気持ちもあったが、そんな野暮なことをできるわけがなかった。

しばらくして、少し嗚咽が落ち着いたなまえの頭を抱え耳元で告げる。

「甘えてりゃいいんだよ」
「……」
「なんかあったら言え。我慢すんな」
「……ぅ、ん」
「言わねぇと殺すからな」
「うん…」

柔らかい髪をひと撫ですると、「ありがとう、爆豪くん」と小さく聞こえた。

「…いい加減バクゴーくんってのやめろ。ついでにクソナードの名前呼びもやめろ」
「えっ、いきなりどうしたの」
「ンで、デクのことは名前で呼んどんだ」
「…い、出久くん、は出久くんだよ」
「アァ?」

前から気に食わなかった。自分がなまえと関わっていなかった間も2人は友人として繋がっていたようで、しかも互いを名前で呼び連絡も取っているという。緑谷がいつのまにか爆豪となまえの関係を知っていた時には心底腹が立った。
爆豪の知らないなまえを知っているかもしれない幼馴染に、また別の嫌悪を感じていた。

「ば、爆豪くんだって、わたしのことほぼてめえって呼んでるよ…」

窺うように上げたその目元は赤く、揺らめく瞳に一瞬息を呑む。泣き顔でも反応してしまう自分に相当イカれてんな、と心の中で嘲笑う。

「なまえ」

言うと、なまえの瞳が見開かれ頬が朱に染まった。視線を逸らそうとする顔を右手で抑え、その瞳を覗き込む。困ったように眉尻を下げるなまえに顔を近付け、促す。

「…か、勝己、くん」

不敵な笑みを浮かべた爆豪は、そのままなまえの唇を喰んだ。
反射で身を引こうとする腰と頭を抱く。抵抗するような素振りを無視して啄んでいるうちに、少しなまえの強張りが解けた。なまえの両手が縋るように爆豪のシャツを握る。

「ん、ふ、…だ、誰か来ちゃう…!」
「うっせ」

抗議するなまえになおもキスを降らせる。そのうち諦めたのか、または満更でもなくなったのか、なまえの唇も応えるように微かに動き出した。

「勝己くん」
「なまえ」

合間に呼ばれる名前とキスの心地良さに頭が痺れていくのがわかる。薄く瞼を開けると、睫毛に縁取られ伏せられた瞼にうっすら涙が浮かんでいた。

唇を離すと、耳まで真っ赤にしたなまえが「み、見ないで」と俯く。その頭を掴んでポス、と胸元に寄せると、なまえの手が控えめに爆豪の背中に回った。
そのまましばらく抱き合っていた。




触れた部分から伝わる少ししっとりした肌の感触に、爆豪はやっと安堵の息を吐いた。






少し暑いけれど、あと少し、どうかこのままで





薄暑




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