「今週末?確かどっちか空いてたけど…ちょっと待ってね」

スクールバッグからスケジュール帳を取り出し確認する。

「土曜は夕方までバイトだけど、日曜は空いてるよ」
『買い出し、付き合え』
「買い出し?」
『夏休みに林間合宿がある。それの足りんもん買いに行く』
「楽しそう!…って、わたしの思う合宿じゃないんだよね、きっと」
『遊びじゃねえからな。仮免取得に向けての強化合宿』
「わ、まさにヒーロー科って感じ」


その後少し雑談をして電話を切ったなまえは、緩む口許を抑えることができないままベッドに倒れ込んだ。

────久しぶりだな。

爆豪はあの雄英で、なまえも学校とバイトに毎日忙しい。そこに加えて期末試験の時期になり、ここ数週間はほとんど会えていなかった。会えたのは1度だけ、図書館からの帰りに落ち合って少し話した日があっただけだった。


────…好きだなあ。

トークアプリの通話履歴をなぞりながら、なまえは胸が温かくなるのを感じた。

粗暴で周囲を見下すような爆豪を敬遠していた中学の頃からしたら全く想像できない。元々緑谷と仲の良いなまえとしては、中学の頃の爆豪の態度は正直許せない部分もあった。ただ転入してきた当初から2人を取り巻く雰囲気が普通の友人関係ではないのを感じ取っていたから、口を挟む勇気が持てず、爆豪を避け緑谷を心配することしかできなかった。

それが今は付き合っているというのだから驚きである。
言葉遣いは荒いままだが、静かな声色や力強いけれど優しく触れてくる手に爆豪の気遣いを感じる。そしてそれが自分だけに向けられるものと知っているから、なまえはどんどん絆されていってしまう。

アプローチをかけてきたのは爆豪だったが、今は自分の気持ちの方が大きいのではないのかと思う。ふとした時に思い浮かべるたび、心のどこかに常に爆豪の存在があることを認識させられる。
爆豪の邪魔はしたくないし我儘を言って幻滅されたくないから口にしないだけで、本当は毎日電話したいし、できるなら会いたい。言えばできる範囲で許容してくれるだろうけれど、それでも我儘や甘えを伝える勇気は持てなかった。

────勝己くんって甘えるのかな。

ふとそんなことを思う。
実力と自信のある彼は何でも自力で解決していそうだし、実際にそうなんだろうというのは話していてわかる。ああだった、こうした、次はこうする、と既に明確な答えが定まっている話し方に、いつもなまえは相槌を打つばかりだった。
それでも完璧な人間などいないわけで、辛いことがあった時にどう対処しているのだろうと、なんとなく気になった。


「終わったら教えて」と気を利かせて出て行ってくれた女の子の存在を思い出し、なまえは慌てて飛び起きた。
乱れた髪と服を整え部屋を出たなまえは、階下の共有スペースに向かった。




日曜日、駅前に着いたなまえは駅ビルの下に佇んでいた。街路樹から遠いはずの場所にまで蝉の声が響き渡っていた。


『9時半に駅前に来い』とのメッセージが来た時はその早さに唖然としたが、いざ当日になると平日と同じ時刻に目が覚めた。
同室の友人を起こさないように準備し階下に降りると、「あれ、今日バイト…じゃないね」となまえの服装を見た寮母にニヤリとされた。

早すぎる、と思っていたのに30分前に着いてしまった自分に苦笑する。
寮母の視線に耐えかねて早々に出てきたが、日陰にいても感じる空気の暑さにもう少し涼んでから出てくるべきだったと後悔した。駅ビルの下から仰ぎ見た太陽は既に高く、燦々と熱を注いでいた。その眩しさと暑さに思わず目を細め、被っていたキャップを団扇替わりにした。


数分後、陽射しの中駅ビルに向かってくる金髪を見つける。久しぶりに見る私服姿に胸が高鳴った。
軽く手を振るとこちらに気付いた爆豪が近付いてきた。眉間の皺が深い。

「9時半つったろが」
「目が覚めちゃって。そういうば…、勝己くんも早いよね」
「うっせ」

そう言って右手を取られる。その温かさに思わず頬が緩んでしまう。

「…ンだよ」
「だって、嬉しいから。…久しぶりだね」
「ばーか」

正直に言うなり悪態をつかれたが、その悪戯っぽい笑みとほんの少し赤い耳を見てさらに嬉しくなる。言葉の意味だけ受け取れ、と言いつつこういう時は言葉以外で伝えてくる不器用さがかわいいと思う。
手を引く爆豪について行きながら、やっぱり早くて良かった、と心の中で呟いた。




「混んだらウゼェ」という理由で早い時間にしたらしく、開店と同時に目的の店に入る。3軒ほど回り用事が済んだと言う声にスマートフォンを見ると、まだ1時間しか経っていなかった。

「ほんとにもう終わり?」
「あとは登山用品で足りる」
「え?登山?」

爆豪の口から初めて聞く単語に思わず聞き返すと「ただの趣味」と素っ気なく返ってきた。
真っ直ぐ歩を進める爆豪の隣を歩く。

「登山するんだ。知らなかった」
「言ってねえからな」
「…そういうの聞きたい」

躊躇いながらそう告げると、爆豪の視線がこちらを向いた。

「ば…。勝己くん、あんまり自分のこと話さないから」
「…」
「何が好きとか、趣味とか、教えてほしいな、って」
「…」

少しの間の後、視線を前に戻した爆豪からの返事はなかった。

怒ってはいないようだが話す気のない雰囲気に、なまえは特段落ち込んだりはしなかった。
基本ハッキリものを言う爆豪から時々こういうぶっきらぼうな反応が返ってくるが、これも彼の不器用さが出てしまっているだけなのだと、付き合いのなかでわかってきた。

爆豪は自分のこと──例えば家族や友人、趣味、自分の考え、そして悩みといったもの──は話さない。
唯一話すのは音楽の話題くらいで、それもどちらかと言うとなまえの好きな音楽を尋ねられることが多く、結局のところ爆豪のことはあまり知らないというのがなまえの実感だった。
無理強いするつもりもないが、話してくれるなら聞きたい。そう思って尋ねただけだった。

──いつか聞けたらいいな。

そう思いながら「この後どうしよっか」と声を掛けた。




あの後爆豪に連れられ入ったのはアウトドアショップだった。

「あれ、何か買い忘れ?」と尋ねると、「…知りてぇっつったのテメェだろが」と眉間に皺を寄せた顔が返ってきた。数秒止まった後思わず笑みを零すと、照れ隠しなのか軽く睨まれてしまった。「ありがとう」と伝えるなまえを置いてズカズカと進んで行く背中を追いかけた。

登山の雑誌を手に取って登ったことのある山を聞いたり、道具の説明をしてもらった。学校の遠足でしか山に登ったことのないなまえには知らないことばかりで、抑揚はないがひとつひとつわかりやすく説明する爆豪の話に聞き入っていた。


店の奥に進んだ時、ガラスで区切られた広いスペースが視界に入った。
その中には突起物が無数に取り付けられた壁があった。突起物の形や大きさ、色は様々で、大きく反り返る壁に不規則に並んでいる。何をするものだろうと首を傾げていると、「ボルダリング、知らねぇの?」と声を掛けられた。

「ぼる…?」
「道具なしでこういう壁や岩場登るスポーツ」
「え!ロープとか使わないの?」
「フリー…、ロープ使うやつは別。それの練習に始まったのがボルダリングで、今は独立したスポーツになってる」
「へぇぇ…。あの突起を掴んで登るの?」
「…やるか?」
「え?できるの?」
「ヨユーだわ」

そう言った爆豪は慣れた様子で近くの店員に声を掛けた。


開けられた扉を潜り中に入ると、靴がクッション地の床に吸い込まれた。自然とゆっくりになる足取りで壁に近づくと、その傾斜と高さに吃驚する。外で見るのとはまるで印象が違った。手近の突起物に触れると、思いの外滑らかな感触にさらに驚いた。

「え、これ掴める…?」
「まあ見とけや」

その声に横を振り向くと、軽くストレッチをしながら壁を見上げる爆豪がいた。手に白い粉を揉み込みながら壁を辿るような視線の動きがわかる。何か思考しているような爆豪の素振りに、なまえも自然と沈黙した。

両手と左足を突起物に掛けたかと思うと、伸び上がるようにして右足を上げた。素足になっていることに気付くと同時、左手と左足を宙に浮かせ右半身のみで身体を支えた。突起物には手と足の指しか掛かっておらず、その負荷を想像してなまえは目を見張った。当の本人は表情を変えることなく上を見つめたまま、今度は左上に伸び上がり次の突起物を掴んだ。

そのまま、ひょいひょい、と軽やかに壁を登っていく爆豪の姿になまえは呆気にとられた。


ある程度の高さまで登った後、宙にぶら下がって飛び降りてきた爆豪に思わず拍手をする。

「す、すごい!」
「本気出しゃもっと登れる」
「え、見たい!」
「アホか。明日の演習に影響出まくるわ」

爆豪から視線を外し、壁を振り仰ぐ。

「登れたら楽しそうだね」
「…やってみろ」

その声に爆豪を見ると「まあ、一つ移れたら上出来だろ」と粉の入った袋を差し出された。

「出来そうなところ登ってみろ」と言われたなまえは、先ほどの爆豪の動きを頭で反芻しながら壁を見渡す。反り返りが少なく突起物の溝も深そうな壁を見つけたなまえはそこで靴を脱ぎ、指先に軽く粉をつけた。掌握運動を数回したあと、ぐ、と突起物を掴んだ。




「お前何かやってんのか?」
「え?」
「運動できんならそう言えや」

昼食に入った店で、怪訝そうな表情の爆豪にそう尋ねられた。汗をかいたドリンクカップの水滴が指先を伝う。

勿論爆豪の足元にも及ばなかったが、なまえは数m登った。
最初は何もできないまま手を離してしまったが、2回目は軌道修正しテンポ良く登った。4つほど移った時はいけるかも…と思ったものの、その直後普段使わない筋肉と全身のバランスに限界を感じたなまえは壁から飛び降りた。
「わ、腕と指がプルプルする…!」と振り返ると、目を見開いてこちらを見る爆豪がいたのだった。

「毎朝運動はしてる、かな」
「なんだそれ」
「…言ったっけ。お父さん、ヒーロー事務所でサイドキックやってたの」

昔、ヒーローになりたいと言ったなまえにトレーニングと銘打って、パルクールの真似事をさせた父親を思い出す。朝方の街を父親に付いて走り、スケートボード場の壁や柵を飛び越えたりしていた。
父親譲りで運動は得意だったし、「人の動きを見て盗め。イチから全部自分でトレーニングしとったらヒーローなる前に死ぬで」と言う父親に倣い、動きを観察して再現する癖がついていた。

「でもさっきのはきっとまぐれだよ」
「…ヒーロー、なりてぇのかよ」
「どうだろ。テレビで観てかっこいいなって思っただけで、勝己くんや出久くん見てるとそこまでじゃないかもって思う」
「ふうん…」
「毎朝やるのが普通だったから今も続けてるだけだよ。抜けない習慣、みたいな」

頬杖をついてこちらを見る爆豪に居心地が悪くなったなまえは、手元のアイスコーヒーを口許へ持っていった。見透かすような視線に耐えられなかった。


「…今度、」
「?」
「山行くか。足手まといにならんのはわかった」
「…いいの?」
「俺のこと知りてぇんだろ、なまえチャンは」

そう言って揶揄うように笑う爆豪になまえは目を見開く。その様子を見た爆豪は満足げな表情を浮かべていた。




その後は特に何をするでもなく、ただ街をふらついただけだった。
それでも帰りを切り出さない爆豪になまえは安心したし、なまえもそれで十分だった。

理由がなくとも一緒にいられて、なんでもない話が出来て、温もりを共有できる人。
そんな存在は二度と出来ないのかもしれないと思っていた。悲嘆に暮れることこそなかったが、自分には無条件に甘えられる存在がいないことに気付いて寂しさを覚えたことは幾度もあった。

繋がれたままで汗ばんでしまった右手が気になり、少し離そうと手を捩る。しかしその抵抗はさらに強く握り返してきた左手に阻まれてしまった。
「まだ大丈夫だろ」と言う爆豪に、なまえは無言で頷いた。





夕方を過ぎても空は明るい。いつもの公園に入った2人は、一角にある古びたブランコに座った。


「…今日すごい楽しかった。ありがとう」

ギィ、と錆びた音を立てながらなまえは緩く前後に揺れた。
正面の柵に腰掛ける爆豪は「そうかよ」とごく小さく呟いた。

「合宿、頑張ってね」
「言われるまでもねぇわ」
「場所、わかんないって言ってたけど。連絡は取れる?」
「電波が通じりゃな」
「電波…!」

この時代の日本に電波のない場所とは、一体どんな僻地に行くのだろうか。それさえもわからないのだろうけれど。


今日が終わればまたしばらく会うことはできない。もしかしたら連絡も取れないかもしれない。場所すら知らない。

爆豪への想いが日に日に大きくなっているのを自覚しているなまえにとって、それは相当堪えるものだった。念のためのヴィラン対策だと言っていたし、引率の先生はプロヒーローだと聞いている。安全最優先の仕方のないことと頭で理解していても、心には受け入れ難いものだった。
いつかの襲撃事件が頭を過ぎった。

「…なまえ」

自然と視線が下がっていたなまえは、爆豪の声に顔を上げる。「こっち来い」と手招きされるままブランコから腰を上げ近づくと、ぐい、と腕を引かれた。その勢いのまま前につんのめったなまえは爆豪に抱きとめられた。腰に腕が回り、お腹の辺りに爆豪の頭が埋まった。

「っ、ちょ、勝己くん…!?」
「ンな辛気臭ぇ顔すんな」

「帰ったら連絡する」と言う声は、ぐり、と押し付けられたお腹に響いた。
あやすような言葉とは裏腹の行動になまえは呆然とする。

「か、つき、くん。あの…」
「…」
「わたし、汗かいてる…」
「……」

そのまま動く気配のない爆豪に、なまえはまさか、と思いつつゆっくり手を持ち上げる。躊躇いながら金髪に触れると、ほんの微かに肩が揺れただけで拒否されることはなかった。そのまま撫でていると回された腕の力が強くなり、深く呼吸する音が耳に届いた。

初めて見る爆豪の様子に、得も言われぬ温かさがみるみる胸中に広がっていく。そのくすぐったさと少し硬い髪の感触に、なまえは静かに微笑んだ。


しばらく撫でていると爆豪の顔がゆっくり上がった。赤い瞳と視線が交わる。

「帰ったらどっか行くぞ」
「うん」
「バイトばっか入れんじゃねぇぞ」
「っ、うん」
「…テメェだけじゃねぇんだわ。わかってんな」
「…勝己くん」

思わず赤面したなまえは羞恥に目元を抑えるが、立ち上がった爆豪にその手を取られた。
驚いて爆豪を見上げた瞬間合わせられた唇に、なまえは吃驚しながらもその愛撫を受け入れた。

ひたすら啄むようなキスをする。控えめなリップ音が2人を支配した。


少ししてゆっくり離された唇に、おずおずと視線を上げる。赤い瞳が伏し目がちになまえを捉えていた。

「気を付けてね」
「ハ、言われるまでもねェ」
「怪我、しないでね」
「ったりめーだ」
「…いってらっしゃい」

そう呟いて胸板に額を寄せると、今度はなまえの頭が撫でられた。時折掬うように髪に触れられ、なまえは瞼を閉じた。
今はただ、この心地良さと匂いに包まれていたかった。




回した腕から伝わる背中の感触は逞しくて、なまえをひどく安心させたのに。






この力強い温もりは揺らがないと信じていた





陽炎




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