施設に帰り着いたなまえは、駆け寄り心配する寮母や友人達に頭を下げた。誰しもが「無事で良かった」と声を掛けてくれた。
部屋に戻るとすぐさまスマートフォンを充電ケーブルに繋ぎ、そのまま親戚に電話を掛けた。こちらも連絡のないなまえを心配してくれていたようで、電話の向こうから安心したような声が聞こえてきた。
電話越しに頭を下げると「また帰って来い」と祖父の穏やかな声が返ってきた。


電話を終えたなまえは、未読メッセージを告げるアプリを見つめた。少し置いてからアプリをタップすると、メッセージの差出人は思った通りの人物だった。

トークを開く。表示された文字を捉えたなまえの瞳にみるみる涙が溜まっていく。
涙を堪えることもせずすぐさま電話を掛けると、5コール程鳴ったところで繋がった。

「…、もしもし。勝己くん?」
『……おう』

その声についに涙が流れ出た。どこから湧き出てくるのかと思うほど、一筋、また一筋と流れていく。
テレビやネット、緑谷からの連絡で爆豪の無事は十二分に知っていたし、安堵の涙などとうに果てたと思っていた。
そうではなかった。本人の声に勝るものなどなかったのだ。

震える声を隠すこともしないまま、なまえは言い募った。

「連絡、遅くなってごめん。帰る途中で、じ、充電切れちゃって、さっき帰ってきて。…あの、大丈夫?怪我ないって聞いたけど、ほんと?今、どこにいるの?安全?」
『一気にしゃべんな』

苛立った気配は一切ない静かな声に、なまえは口を噤んだ。

『……悪かった』
「…っ」

呟かれた謝罪になまえは目を見開き、すぐさま頭を振った。
かけたい言葉は次から次へと浮かんでくるのにどれも喉でつっかえてしまう。電話越しに聞く声の懐かしさに不安が溶けていき、なまえの胸はみるみる緩んでしまう。

「お、かえり」

やっとの思いで告げた言葉も、小さくか細い、嗚咽混じりのものになってしまった。
電話の向こうで微かに聞こえる呼吸音に、爆豪の存在を感じた。




後日、警察から外出は控えるよう言われたという爆豪を訪ねたなまえは、教えられた住所を辿った先に建つ家にしばし呆然とした。
普段の爆豪からそんな雰囲気を感じなかっただけに、目の前の大きく立派な家に驚きを隠せなかった。

そっと呼び鈴を押す。インターフォンから声が返ってくるのを緊張しながら待っていると、向こうの玄関が開く音がした。その音に顔を向けた。

玄関のドアを開けこちらを見る姿になまえは声を詰まらせた。アプローチを歩いてくる姿に現実味が湧かない。

そばに来た爆豪の、合宿前とは変わらない見た目に安堵したなまえはぐっと喉に力を込めた。
流れ出そうな涙を耐えた瞳には、苦虫を噛むような爆豪の表情が映った。


爆豪の後について玄関に入る。
「お邪魔します」と声を掛けると奥から女性が出てきた。

「こんにちは。母の光己です」
「はじめまして。みょうじなまえです。…えと、」

付き合っている、と言うべきなのか躊躇っていると爆豪に軽く小突かれた。

「はよ上がれや」
「勝己!女の子には優しくしなさい!」
「黙れババア」

爆豪が答えるやその頭を平手で打つ母親になまえは肩をビクつかせた。

「イッテェなクソババア!!」
「痛くしてんのよ。あ、なまえちゃんどうぞ上がって」

なおも吼える爆豪とそれを平手であしらう母親に唖然としつつ、なまえは促されるままゆっくりと靴を脱いだ。


その後も口をつけば母親に向かって暴言を吐く爆豪に、なまえは身を固くした。こんな荒々しい爆豪を直で見るのは中学以来だったし、付き合ううちにそんな爆豪をすっかり忘れてしまっていた。

言い合う2人に続いて入ったリビングは外装を裏切らない品の良さが漂っていた。きれいだな、となまえは目を見張った。
視線を向けた先にズラリと飾られた盾や表彰状を見つけた。爆豪のものだろうか。

見回すのも失礼かと思い手持ち無沙汰に立ち尽くしていると、振り返った爆豪に「行くぞ」と顎をしゃくられる。母親への挨拶をまともにしないまま去っていいものかなまえが戸惑っていると、青筋を立てた表情が返ってきた。

「来いっつてんだクソが!」
「え、あ、うん」
「勝己!アンタ彼女にもそんなんだと愛想尽かされるわよ!!」
「テメェにだけは言われたかねェわ!!」

吐き捨てた爆豪は「はよ来い」とだけ残し進んで行ってしまった。
何気なく言われた単語に赤面する間もなく、なまえは母親に一礼しその背中を追った。


爆豪の背中について入った部屋は広くシンプルだった。整理整頓が行き届いている室内からも彼のストイックさを感じられた。
「適当に座れ」と言う言葉に、なまえはゆっくり腰を下ろした。

「ちゃんとご挨拶してないけどいいのかな…」

ドアの方にちらりと視線をやりながら零すと、仏頂面の爆豪が振り返った。

「最初にしとっただろが」
「いや、そういうのじゃなくて」
「グダグダ上っ面の話するだけだろ」
「えぇ…。初対面だし、大事だと思うんだけど」

「勝己くんのお母さんなんだし」と言うと、爆豪の眉が微かに動いた。何か言われるかと思ったが会話が続けられることはなく、爆豪は無言で隣に胡座をかいた。

少しの沈黙の後、なまえは言葉を発した。

「…怪我もなくて、無事でよかった」
「…」
「体調とか、今もなんともない?」
「…」

返事がないことを不審に思ったなまえが右に顔を向けると、そこには不快そうに眉を顰め、口を曲げる爆豪の横顔があった。

──聞くな、ってことかな。

こうやって押し黙る爆豪を見るのは初めてではなかった。
なまえは口を噤む。言葉は一切返ってこない。

そのうち少し下げられた爆豪の視線になまえはしまった、と思った。
あんな大きな事件に巻き込まれたのだ。しかもヴィランに狙われ、攫われた。
きっとなまえには想像の及ばないことが起こっただろうし、そうなれば言いたくないこともきっとあるのだろうと思い至った。
無神経だったと後悔したなまえは、たった一言「ごめんね」と零した。


言うや、右腕を引かれた。
強い力に引き寄せられたなまえはバランスを崩す。それを爆豪に抱き止められた。
身体が爆豪の上半身と脚に囲われ、下腹部には腕が回された。その密着度になまえの顔は一気に染まる。

「か、かつ、き、くん」
「動いたら殺す」

そう言って肩口に埋められた爆豪の頭になまえはさらに緊張する。
首筋に当たる髪の毛が擽ったくて少し身を捩ると、ぎゅう、とさらに抱きつかれた。

羞恥で体温がみるみる上がっていくのを感じる。
この部屋には2人きりでも階下には母親がいて、いつこちらに来るかもわからない。そんな状況で密着することに後ろめたさのようなものを感じた。

「勝己、くん。ちょっと離れて」
「んでだよ」
「だってお母さん、」
「ンな野暮なことしねェわ」
「でも」
「少し黙っとけ」

耳元で囁かれた低音になまえはさらに赤くなり、そのまま大人しくすることにした。

首筋と背中と腹部と、身体の至る所から爆豪の体温が伝わってくる。今までで一番近い距離に羞恥と緊張を感じつつも、なまえの胸は温かく早鐘を打っていた。

本当は嬉しくてたまらなかった。
離れていた期間が長く、しかもあんな事件があった。爆豪に焦がれた時間は今までで一番長く、一番苦しいものだった。だからこんなふうに求められれば嬉しいし、爆豪も同じように考えてくれていたのかもしれない、と思わずにはいられなかった。
なまえが少し肩の力を抜くと、スリ、と爆豪の頭が首筋に押し付けられた。


「寮生活になる」
「え?」

抱き締められるまま身を任せていたなまえの右耳に言葉が届いた。

「雄英の寮で生活する」
「寮…」
「ヴィラン対策だと」
「そっか」
「今月には引っ越す」
「…うん」

再び降りた沈黙になまえは瞼に力を込めた。

──会えなくなっちゃうのか。

学校終わり、図書館や帰り道で過ごした穏やかな時間がひどく懐かしい。そんなに多くはなかったそれらの時間がさらに減ってしまうのかと思うと、自然と眉が下がった。

なまえは細く息を吐いた後、身体を捻った。その気配に爆豪もなまえに回した腕を緩め顔を上げた。自然と向かい合う形になる。

寂しい。けれどそれ以上に、爆豪が安全な方がいい。
ヴィランに狙われているなら、攫われる危険があるなら、より安全なところで過ごしてほしい。あんな喉を引き絞られるような辛さはもうたくさんだった。

「そっちの方が安全だもんね。先生達はプロヒーローなんだし」

そう言って笑うと、額を小突かれた。小さいけれど突然襲った痛みに思わず目を瞑る。

「な、なに?」
「他にねぇんかよ」
「え?」
「言うことあんだろ」
「?」
「チッ」

心当たりが無い指摘に頭を捻ると、不満気な、少しむくれたような表情が返ってきた。

「ご、めん…?」
「わかんねぇもん謝んな。余計腹立つ」
「う…!ご、ごめん」
「謝んなっつったろが」

不機嫌な表情になまえは戸惑った。
それでも先ほどまでのどこか仄暗い雰囲気とは違う、本来の爆豪を取り戻したような気配になまえは微かに安堵の息を吐いた。




────そっか、

「もっと会えなくなるね」

無意識に零れた呟きはほぼ独り言だった。

「…イヤかよ」

降ってきた声になまえは視線を上げる。

「…うん。それは、もちろん」
「ふぅん」

先ほどまでとは打って変わった表情でニヤリと口角を上げる爆豪に、なまえは合点がいった。わかりにくいなあ、と思わず笑みが零れる。

「寂しいよ」

改めて伝えると、満足気な顔が寄せられた。

「せいぜい寂しがっとけや」
「ひどいなあ。なんで嬉しそうなの」
「ハァ?テメェがメソメソ泣かねぇか心配してやってんだわ」
「泣かないよ」

なおも笑う爆豪に、なまえは思わず眉を下げた。
こんな時間が過ごせることが嬉しい。爆豪が無事で良かったと改めて思った。

「でも、気をつけてね。何があるかわかんないよ」
「ンなもんわかっとるわ」
「なら良いけど」

そうやって微笑むと、ぴたり、と爆豪と目が合った。その瞳は赤く澄んでいて、最初の暗さは微塵も感じなかった。その様子に改めて安堵の表情を浮かべると、爆豪の瞳が細められた。
自然と近付いてくる顔に、なまえは瞼を閉じた。




と、突然聞こえた舌打ちになまえは瞼を上げた。
立ち上がった爆豪は真っ直ぐドアへ向かい、勢いよく開けた。

「ウッセェわクッソババア!!!!」
「まだ何も言ってないわよ!!」

先ほどまでとはまるで正反対の爆豪になまえは吃驚して肩を竦める。目の前で始まった口論に心拍数が速まった。

「どうぞ」
「あ、ありがとうございます…」

お茶とお菓子を持ってきた母親に頭を下げると、盛大な舌打ちが降ってきた。
去り際に爆豪に平手を食らわせる母親とそれに震えながら言い返す爆豪に、またもなまえは目を丸くした。

ドアが閉まった後見上げた爆豪の横顔は、耳朶と頬が少し赤い気がした。




「お邪魔しました」

なまえは門柱の側で振り返り、頭を下げた。
「また遊びに来てね」と微笑む母親に礼を言い、爆豪に視線を向けた。

「じゃあ、またね」
「…」

眉間に皺を寄せ押し黙る爆豪の様子に、片眉を上げた母親がその背中を叩いた。

「挨拶くらい返しな!ホント愛想尽かされるわよ!!」
「いっちいち口出しすんな殺すぞ!!」
「母親になんてこと言ってんの!!」

口を開けば言い合う親子に最後まで驚かされる。なまえは再度頭を下げ、その場を離れた。




──そっくりだったな。

信号を待ちながら、見た目もそれ以外も似通った2人を思い浮かべた。
お父さんはどんな人なんだろう、と思いながらイヤフォンをジャックに差し込んだ時、スマートフォンが振動した。
爆豪からの通知を知らせるアプリに何か忘れ物したかな、とメッセージを開く。
表示された文面を読んだなまえの表情は止まり、微かに目を見開いた。そして数秒固まった後に軽く吹き出し、笑みを零した。

────ほんと、わかりにくいなあ。

あの場にいたのが母親だったというのもあるのだろう。それでも2人きりの時とそうでない時の爆豪があまりに違いすぎて、そんな態度にも愛しさが増した。


メッセージを返したなまえはスマートフォンを軽く操作してからショルダーバッグに仕舞い、イヤフォンを耳に差し込んだ。
胸の内に広がる擽ったさと温かさをそのままに、青に変わった横断歩道に踏み出した。




ごく柔い風が頬を撫で、ほんの少しだけ熱を奪っていった。






このまま穏やかな日々が戻ればいい





静穏




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