────雄英の人だったんだ。

なまえはエレキギターの弦を張り替えながら、教則本を立ち読みする制服姿の女子を横目に見た。




なまえが上がる少し前、店長にもう少し残っていて欲しいと頼まれた。「自由にしてて良いしバイト代出すから。ごめん」との言葉に二つ返事で了承したなまえは店長を見送り、レジ横で母親のエレキギターを弄っていた。


その女子のことは週末のアルバイト中に数回見たことがあった。
年格好が近いこと、特徴的な耳の形から印象に残っていた。近所の商業施設に全国展開の楽器店が入っていることもあり、なまえと歳の近い人がこの店に来ることは少なかった。
店内を回る雰囲気から音楽に詳しそうだなと勝手に思っていたが、今日は今までと違いギターの教則本やスコアばかり手に取っていた。


弦を張り終え、チューニングをする。最終確認を兼ねて一曲弾いていた時だった。

「あの、すみません」

「はい」と顔を上げると、女子生徒がなまえを見ていた。なまえはギターをスタンドに置き近付いた。

「初心者にわかりやすいエレキギターの本ってありますか?」
「…このシリーズの入門って書いてある本は比較的わかりやすいかなと思います」
「…やっぱそうですよね」

そう零した彼女は口許に手を当てた。既に内容を把握しているような口振りに「イメージと違いましたか?」と声を掛けた。

「1ヶ月以内にステージで演奏できるレベルに持っていかなきゃダメなんです」
「……そ、れは。ちょっと待ってくださいね」

困ったように眉を下げる女子生徒にそういうことかと合点がいった。なまえも自然と真剣になる。
薦めた本はわかりやすい分ひとつひとつ丁寧に分解した解説が載っているため、短期間での習得には向かない。となれば短期集中などと銘打った本が頼りになるが、長い期間触れてきたことで弾けるようになったなまえとは真逆のタイプに内容の向き不向きはあまりピンと来なかった。

「これならコードの索引もあるしイラスト付きなので、用語がわからない人でも調べやすいかもしれないです」

思案の末選んだ解説本を女子生徒に渡す。パラパラと捲る横顔は真剣そのもので、そしてまだ悩んでいるようだった。

「…短期間でってなると、基礎トレしつつひたすら曲を練習するのが一番良いのかなと思います」
「やっぱそうですよね」
「出来る方がいらっしゃるなら特に。本も良いとは思うんですが、人によってはとっつきにくかったりイメージが掴みづらい気がします」
「…わたしが教えるんですけど、今までずっと教わる側だったからどう伝えようか悩んでて。向こうも一生懸命だし、だけど時間はないしで、1秒も無駄にしたくなくて」

真剣な表情のなかに混ざる温かさや不安を見て、なまえは自らの力不足を嘆いた。

「すみません、お力になれなくて」
「いえ、無理言ってるのはこちらです。…どっちかっていうと話してみたかったのもあるし」
「…?」
「歳が近そうだから、つい」

照れたように笑う彼女の様子になまえも自然と笑みが零れた。

「雄英高校の方ですよね?わたし高1です」
「わ、一緒だ。女の子でこういうとこでバイトしてる子って珍しいなって、音楽好きなのかなって思ってて。そしたらギター触ってるからテンション上がっちゃって。ごめんなさい」
「そんな。わたしも嬉しいです」

アルバイトの中で一番歳が近いのも大学3年生だったから、なまえも素直に嬉しかった。

「1ヶ月ってことは、雄英の文化祭ですか?」
「そう!うちのクラス、バンドやることになって。メンバー5人中3人は楽器出来るんだけど、ギター2人が初心者なの」

「クラスでバンド」との言葉に爆豪の声が浮かんだ。

「しかもドラムがすっごいストイックな奴だからギター2人にめちゃくちゃ厳しいの。言いたいことはわかるんだけど、言い過ぎというか、暴言吐きまくりで」
「……」
「乗っけからそんな感じだったからちょっと参っちゃってさ。でもほっとくわけにもいかないから、ウチがなんとかしなきゃって」

彼女の言葉に電話での会話が蘇った。『ヘタクソ過ぎてマジでイライラする…!』と低く呟く爆豪を宥めたのは記憶に新しい。

「あの、もしかしてヒーロー科ですか?」
「…そうだけど」
「……ドラムの人って、爆豪くん?」
「…うそ。知り合い?」

目を見開く女子生徒にしばし沈黙した後、「爆豪くんと緑谷くん、小中同じなんです」と明かした。さらに目を見開く彼女は、ふと首を傾げた。

「違ったらごめん。もしかして、爆豪の彼女さん?」
「……へ!?」

今度はなまえが目を見開く番だった。

「爆豪の彼女、緑谷とも友達って聞いてて。だからそうかなと思ったんだけど」
「そ、そうなんだ…」

なまえのことを知られたくなさそうな爆豪を知っているだけに、まさか自分のことが彼のクラスメイトに少しでも認識されているとは思ってもみなかった。先日会った轟は爆豪と仲が良いから知っているのだと思っていた。
目と声を吊り上げる爆豪の姿がなまえの脳裏に浮かび、今さらながら返答に困ってしまう。そのまま否定も肯定もできずにいると、女子生徒が軽く吹き出した。

「すっごい偶然。ウチもう会ってたんだ」
「え?」
「爆豪、彼女のこと全然しゃべらないの。でもみんな気になってどんな子だーって言ってるんだよ」

その言葉になまえは一気に赤面する。何を言われているのだろうか。

「なるほどね。ギターにもやたら詳しいと思ったらそういうことか」

そう言ってなおも笑う彼女になまえは居心地が悪くなり視線を逸らすと、「ごめん」と声が聞こえた。

「初対面なのに。あの、周りに言い触らしたりしないから」
「いえ。でも、爆豪くんがあなたに、その、色々言うかもだから」
「わかった。…ウチ、耳郎響香。よろしく」
「みょうじなまえです」
「ね、ギターどれくらいやってるの?…って、ごめん。バイト中か」

なまえは数歩動いて棚から顔を出し、店内を見回した。他の客がいないことを確認したなまえは耳郎に笑顔を向け言葉を返した。






『オイコラ、んで耳がてめェのこと知っとんだ』

開口一番不機嫌な声が飛んできて、なまえは思わずスマートフォンから耳を離した。

「み、みみ?」
『会ったって言ってきたぞ』
「…あ、耳郎さんのこと?」

アルバイト中に声を掛けられ接客するうちにわかったのだと言うと、盛大な舌打ちが右耳に届いた。

「たまに見るお客さんだったし、勝己くんのクラスの人ってわかってて黙ってるのも変かなって思って」
『名乗らんでいいっつったろが』

こういう反応が返ってくることはわかっていたが、ここまで嫌がられると少し複雑な気分にもなる。そもそも爆豪とは関係のない場所で出会った人がたまたま彼のクラスメイトだっただけだ。

「…ごめん」

それでも爆豪が嫌なら仕方がない。喉につっかえた思いを嚥下したなまえは謝罪を口にした。
ただその反応も気に食わなかったのか、『言いたいことあんなら言えや』と不機嫌な声が食い下がってきた。

「………ないよ」
『嘘つけ』
「言ったって怒るよ、たぶん」
『…ハァ?』

さすがにそこまで言われることかと思ったなまえは少しの抵抗を試みたが、更にトーンの落ちた声が右耳に響いただけだった。なまえの抗う気力は一気に削がれた。

「ごめん。…この話やめよう。こんなことで喧嘩したくない」
『あ?』
「今度から気を付ける。ほんとごめん。耳郎さんと連絡取ったりもしないから」

短かったが楽しかった彼女との会話やキラキラと輝く瞳が浮かんだ。友達になりたいと思った。

『拗ねんなや』
「拗ねてないよ。勝己くんが嫌なことしたくないだけだよ」
『俺が嫌なら何でも呑むんかよ』
「そんなことは、ないけど…」

一向に話を終わらせようとしない爆豪になまえは焦る。

「ねぇ、ほんとにもうやめ『言えっつっとんだろが!!』

突然の苛烈な怒気になまえは身を固くする。目を見開き息を呑んだ。

『言えや全部!前から言っとんだろが!!』
「勝己くん…」
『そうやって黙って合わせてりゃ俺が喜ぶとでも思ってんのか!?』
「そ、そんなこと思ってないよ…!」
『テメェのそういうとこマジでムカつくんだよ!』

はっきりと真正面から向けられる嫌悪になまえの心臓が揺れた。怖いと思った。何か言わなければと思うのに喉が引き攣って言葉が出てこない。

親戚が見つかったことで施設を出、一人での暮らしが始まった。
自分で決めたことだ。不安はあるにしても孤独だとか寂しいと思っているわけではない。しかし自分の生活環境が変わったことで一段と爆豪の存在が大きくなっていた。
会えないけれど、声を聞けば心が凪いだ。なんでもない話をして、聞いて、明日も頑張ろうと思えた。夜の電話が毎日楽しみだった。

しかし今、その声はなまえに嫌悪を向けていた。愛しい声だから余計に響き、切り傷が深まっていくようにじくじくと胸が痛んだ。
なまえはぎゅ、と瞼を閉じ枕を抱き込んだ。怒る声に焦りながらなんとかこの場を収めなければと考えるあまり、爆豪の怒りのきっかけがもはや何だったのかわからなくなっていた。

『何回言やわかんだよ!』
「…っ」
『言えや…!』


『じゃねぇとわかんねぇだろが…』


怒気の中に微かに交じった苦しげな声になまえは瞼を上げた。
唾を飲み込んで貼り付いた喉を動かし爆豪の名前を呼ぶが、掠れた声になってしまった。

『…俺は言いてぇことは全部言う。なのにてめェは毎回毎回隠そうとする』
「か、隠す、つもりじゃ…」
『そういう自分に酔ってんのかよ?テメェの我慢に寄り掛かるつもりはねんだよ!』
「っ邪魔したくないんだよ!」
『ハァ!?』
「勝己くんはヒーロー目指してるんだから」

ヒーローになるということが大変なことだとわかっているつもりだし、その想像の範疇すらも優に超える多くの壁や障害があるだろうことは常になまえの頭にあった。子どもの頃の朧げな記憶ではあるが、なまえの前では変わらない父も何か辛さを隠していたことはなんとなく気付いていたし、何より体力面での消耗が激しいことはひしひしと感じていた。

それに比べれば自分のちょっとした不満など日が経てば消化できる。またなんでもない話が出来ればすぐ忘れてしまえる。それが出来る側が呑み込むことの何がいけないというのか。

「足引っ張りたくない。そういう人にはなりたくない」
『…』
「匂わせたのはごめん。そんなこと考えといてずるかったと思う」
『だから最初から「でも」

「でも、酔ってなんか、ない……!」

爆豪が望んでいないのなら違ったのだろう。
それでも自分なりの思いやりを一方的に無碍にされたことが悔しかった。




沈黙が下りる。
誰かと言い合うことなどいつぶりだろうか。こんなに体力を使うものだったか。
なまえは重く速い鼓動を感じながら、苦いものを追い出すように深い息を吐いた。

スピーカーの向こうから小さな、ごく小さな謝罪が聞こえた。

『…けどな、最初っから言えや』
「…勝己くん、」
『足引っ張るだか邪魔だか、聞いてから俺が決めることだわ。てめェで俺の迷惑勝手に想像して片付けんな』
「…うん」
『全部前から言っとるだろが。いい加減分かれ』
「うん」


爆豪の言っていることはわかる。なまえを気にするが故のことなのもわかる。
それでもなまえの胸には靄がかかり、ざわざわと嫌に擽られるような感覚が続いていた。

ただ、落ち着く流れが出来た今、新たな火種を生むようなことはしたくなかった。このまま平穏に戻るならば、この胸の騒めきはいくらでも無視できると思った。




その後はぽつりぽつりと言葉を交わしたが、いつもの空気に戻ることはなかった。「おやすみ」の言葉にもごく小さい返答があったただけだった。




今までとは違う電話の終わりに騒つく胸が収まらなかった。
薄く開けた窓から吹き込む風が高い音を立てていた。






収まれ、とざわざわと揺れる心を抱き込んだ





波風




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