朝起きても部屋は暗く、あまりの暗さに夜明け前に目が覚めてしまったのかと思った。
枕元のスマートフォンで時間を確認したなまえは目を擦りながら起き上がり、カーテンを開けた。
窓の向こうには重く押さえつけるような曇天がどこまでも広がっていた。




今日は土曜日、講習が早く終わるという爆豪とアルバイトまでの時間に会うことになっていた。
あの電話以降初めて会う爆豪になまえは緊張していた。

午前中は高校の音楽室で軽音部と練習をしていた。急遽頼まれたヘルプだったし曲を覚えるのも苦労したが、初めて組んだバンドは思いの外楽しく、自然となまえも前向きに参加していた。この時だけは他のことを一切考えなくて済んだ。

一旦寮に戻らなければ外出できないという爆豪に短い返信をし、それまでの時間はどう過ごそうか考えながらギターを片付け、メンバーと音楽室を出た。


その後高校の最寄駅に着き、なんとなくの流れで立ち話をしていた。爆豪が来る予定の時間までは余裕があったから特に気にしてはいなかった。
「立ち話もなんだからどこか入る?」との提案が上がった時、なまえの鞄の中から振動が伝わった。

「いいっすね!」
「あっ、あの。わたしはここで。すみません」
「え、みょうじさんこねーの?」
「ごめん、この後バイトあって」
「じゃあ俺送ってくよ」

まだ振動は止まない。軽音部のクラスメイトの提案に些か驚きつつもその言葉を断った。

「俺もこの後本屋とか寄りたいし、ついでだって」
「いやいや…!せっかくなんだしお茶してきなよ」
「残念、お前振られてやんの」
「みょうじさんといたかったのにねー」
「ちょっと先輩!」

目の前で交わされる会話にまさかと思ったが、そのまま先輩達と会話を始めたクラスメイトの姿に安堵の息を吐いた。振動はいつの間にか止んでいた。
盛り上がる会話は止まない。このまま去ろうと声を掛けようとした時だった。

「オイ」

後ろから低い声が聞こえ、なまえは即座に振り返った。
こちらを見据える爆豪がいた。
駅まで来るとは言っていたが聞いていた予定より大分早い。その赤い瞳は不機嫌に染まっていて、その表情に身が竦む思いがした。久しぶりに見る姿に喜びを感じる余裕は持てなかった。

「…みょうじさん、知り合い?」

クラスメイトの声に振り返ろうとした時、盛大な舌打ちが左耳に届いた。

「行くぞ」
「あ、ご、ごめん。…じゃあ、あの、失礼します」

軽音部の面々に会釈をする。笑顔で手を振る先輩達に再度軽く頭を下げ、なまえは爆豪の背中に駆け寄った。




改札を抜けホームに上がり電車に乗った。その間はどちらも言葉を発することはなく、ひたすら沈黙が続いた。

気不味い空気が2人の間を流れていた。
言い合った夜以降の電話は言葉少なで短かった。今の空気も同じ重さを纏っていて、きっとあの夜のことが原因だろうことはわかっていた。会えばなんでもなかったかのように話せるかもしれないと淡い期待を抱いていたが、押し黙る爆豪の圧になまえは口を開くことができなかった。

電車を降り、アルバイト先へ向かう。手は繋いでいなかった。
無意識に力が入り続けていた右半身は強張っていた。


「あのモブ、誰だよ」

突然右上から聞こえた声に爆豪を振り仰ぐ。その横顔は前を向いたまま、なまえに向く気配はない。

「…え?」
「馴れ馴れしかったクソ野郎だわ」

地を這うような声になまえは両手を握り締めた。

「だ、れのこと?」
「ハァ?テメェに色々ほざいとったろが」

さらに語気が強くなる爆豪になまえは思わず肩を竦めた。自然と足が止まる。

「……同じクラスで、軽音部の人」
「ふうん」
「バンドに誘ってくれた…」
「………くれた、なぁ」

嘲笑うかのようなトーンと口許に、ざくり、と胸が裂けた気がした。

「なに…?」
「……電話したら出ろや。気付いとったろ」
「だって、人と話してる時、出たら失礼だなって…」
「断りゃいいだろが」
「もう解散するところだったんだよ。勝己くん、こんな早く来てくれると思わなかったし」
「……」
「……ご、めん」

俯いて零すと、頭上から溜息が聞こえた。

「思ってねぇもん謝んじゃねェ」

その言葉に胸が震え、消化していたはずのものが奥底からふつふつと這い上がってきた。

「…どうしたの?」
「……は?」
「なんでそんな、怒ってるの?」
「ァア!?」

こちらを見下ろした爆豪の表情になまえは驚く。
中学の頃の爆豪がそこにいた。なまえが敬遠した姿だった。心底不快そうに顰められる眉に心臓が大きく揺れた。
それでもなまえの言葉は止まらなかった。

「あと、その…モブ、ってやめて」

裂けた所からどくどくと溢れ出すようなそれを止められない。

「友達なの。そんなふうに呼ばないで」


瞬間、爆豪の顔が歪んだ。


「…そーかよ」
「な、に?」
「なんでもねェ」
「言って」
「なんでもねぇっつってんだろ」

──…なんで。

「終わりだ。忘れろ」

────なんで。


「…勝己くんもでしょ」
「………は?」

爆豪は何が不満で、何に怒っていて、何を頑なになっているのか。
なまえには全くわからなかった。ひたすらに不快を向けてくる爆豪を冷静に見つめることなど出来るわけがなかった。
なかったことにしようと思っていたあの夜の違和感もつい口から滑り出てしまう。

「勝己くん、言いたいことは全部言ってるって言ってたけど。言いたくないことは言わないよね」
「…」
「それと同じだよ。わたしも言いたくないだけ。我慢じゃない」
「やめようっつった本人が何蒸し返してんだよ」
「あ、あの時は…!その、ヒートアップしちゃったから……」
「んだそれ。俺のせいってか」
「わ、わたしもだよ。…ねぇ、お願い。怒らないで聞いて」
「ハァ!?胸糞ワリィ気分にさせとんのテメェだろが!」

変わらない、止まらない。
それでも、ここで止めてしまったらまたしこりが残ってしまう。再び探り合うような居心地の悪い空気に戻ってしまう。
爆豪の不満を解消したくて、自分のわだかまりもわかって欲しくて、なまえは言葉を尽くそうと努めた。

「勝己くんと喧嘩したくない。でもごめん、話してくれないとわからない。お願い、教えて」

出来る限り真っ直ぐ、赤い瞳を見つめた。嫌悪しかないその顔を正面から見つめることは本当は心底怖かった。
でも、諦めたくはなかった。話せばわかると思った。握り締めた両手の拳が震えた。


ふい、と爆豪の顔が逸らされた。


「……バイト、時間だろ」


拒絶だった。


「っか、勝己くん…」
「はよ行け。遅刻すんぞ」
「ごめん、あの、」
「謝んな」


「それが言いたかったんだろが」


なまえは口を開いたまま、挙げかけた左手をそのままに止まる。
そうだ、言いたかった。嘘などついていない。本当に思っていることを伝えられた。

それなのに、この心の内に広がる空虚はなんだ。

これが本来の爆豪なのか、虫の居所が悪いだけなのか、自分に原因があるのか。
わからない。なんとか察しようと努めても、爆豪から向けられる拒絶と嫌悪で埋め尽くされた脳内ではまともな思考などできるはずもない。


「…教えてくれないんだね」

真っ直ぐ見上げても、その横顔はこちらを向かない。無力感にだらり、と左腕が落ちた。

「わたしだって、勝己くんのこと知りたいのに」

振り返らない横顔に耐えきれなくなって俯く。視界の先に見えるスニーカーは微動だにしない。その様になまえは制服のプリーツスカートを握り締めた。

「言ってくれなきゃわかんないのに」

爆豪への不満を伝えるので精一杯だ。自分を省みる余裕などない。

「遮断しないで」

涙声になるのを抑えられないまま言い切ったなまえは、顔を上げることもなくその場から歩き去った。




その日以降、とても静かな夜が続いた。






どこまでも暗い空に糸口すら見つけられなくて





暗雲




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