窓から見える一面灰色の雲は一向に動く気配をみせなかった。




ここ数日続く雨に、教室には湿気が籠っていた。梅雨入り宣言がされていないのが不思議なくらいだった。
運動部のクラスメイトは校舎内での地味な筋トレが続くのを嘆いていたし、覇気がなく澱んだ空気の教室に先生達も手を焼いているようだった。偏頭痛持ちの友人は登校すら辛そうだった。

机に突っ伏す友人を気遣いつつ、なまえも鬱屈した日々に辟易していた。




数週間前のことだった。
雄英高校がヴィランに襲撃されたとのニュースが店内のテレビから流れてきた時、なまえの背筋を冷たいものが走った。しかもそれが爆豪と緑谷のクラスと知り、なまえは手脚の先から血が凍っていくような感覚に眩暈を覚えた。

アルバイト中にも関わらずすぐに2人にメッセージを送り、祈るようにスマートフォンを握り締めた。どうやら事態が収束してからの報道だったようで返信はすぐに来た。無事を告げる文字を捉えた瞬間、薄く張っていた涙の膜が崩れてしまった。

実際に会って2人の無事を確かめたかったが、緑谷からの返信では雄英周辺はまだ騒ついているとのことだったので、なまえはメッセージを返すだけに留めた。
爆豪とはまた図書館で会えることも期待したがいつもの所在確認のメッセージが届くことはなく、今日に至っていた。


その時のことを思いながら、なまえは窓の外を見やった。

──早く止まないかな。

澱んだ空気を散らして欲しくて、なまえは心の中で呟いた。




来週には中間テストが控えていたこともあり、授業が終わるとなまえは図書館に直行していた。
アルバイトの日以外はほぼ図書館に通っていたこともありテスト勉強は順調だったが、少しでも上位の成績を取りたいなまえに余裕は一切なかった。


その後、一区切りついたところで荷物をまとめエントランスに向かった。館内を見渡すといつもより制服姿が多く、皆もテストなのかな、などど思いを巡らせる。
内側の自動ドアを越え、風除室の傘立てから自分の傘を取ろ────うとした。

「…ない……」

なまえの薄いブルーの傘はどこにも見当たらなかった。無地のシンプルな傘だったので誰かが取り違えたのかもしれない。
なまえはちらりと外を見やった。
傘を差さずに帰るには弱くない雨で、相変わらず切れ目なく覆う灰色に止むことは期待できそうになかった。


溜息を吐き、外側の自動ドアに向かう。とりあえず最寄りのコンビニまで走ろう、と鞄を肩にかけ直した時だった。




「……ば、くご、くん」




俯いていて顔は見えないが、雨の中こちらに向かってくるその姿は間違いなく爆豪だった。
ブレザーのポケットにスマートフォンを仕舞い顔を上げた爆豪も、エントランスで立ち尽くすなまえの存在に気付いたようだった。


まさか会えると思わなかったなまえは、ただ呆然とその姿を目で追った。
庇の下に入りビニール傘を閉じた爆豪は、なまえの顔を見るなりハッと鼻で笑う。

「なんてカオしてんだよ」
「だ、だって……!あの事件の後会ってなかったから、心配で…」
「ア?無事だって返事しただろうが」
「そうだけど…。け、怪我とか、ない?」
「だからなんもねえっつっただろうが」

ああ、爆豪くんだ。
このやりとりを懐かしいと感じるくらいには会えてなかったのだと実感した。
爆豪の言う通りぱっと見て怪我はなさそうな姿を確認したなまえは、その瞬間せり上がってくるものを感じ咄嗟に俯く。

「オイ」
「…よかった……ほんとに、無事でよかった…」

それ以上声を発したら溢れてしまいそうで、唇を引き結んだ。握り締めた掌からトク、トク、と血管の動きが伝わってきた。




波が引いていくのを感じたなまえは「いきなりごめんね」と顔を上げた。遠くを見ていた赤い視線がなまえの方に戻ってきた。

「…帰るんか」
「あ、うん。まさに帰ろうとしてたとこ。爆豪くんはこれから勉強するの?」
「………………は?」
「え、なに?」
「…………んっと、マジでめんどくせえ…」
「?」

ハアア、と溜息を吐きながら顔を逸らした爆豪は、次に横目でなまえを軽く睨んだ。その視線になまえは微かに震える。
爆豪はビニール傘を軽く振りはじきを押した。ポンッ、と傘が開く。

「オラ、はよしろ」
「あ、えーーーーっと…」
「……チッ」

なかなかその場から動こうとしないなまえの耳に、爆豪の舌打ちが届く。

「そ、それが、勉強してたら傘なくなっちゃってて。だから、走って帰るつもりだから、ここで…」

友人ならともかく、爆豪に傘に入れて欲しいと頼む勇気はなかった。しかも急に不機嫌になったような雰囲気を感じ、今日はここで別れたほうが良さそうだと思った。

「じゃあ、」と鞄を抱え込んだのとほぼ同時、なまえの右手が引かれた。

「あ、」
「素直に頼めやクソが」

間近から降る声に顔を上げると、こちらを見下ろす爆豪と視線がぶつかった。羞恥を感じたなまえは、慌てて顔を俯けた。




最寄りのコンビニまでのつもりだったが、まさかの「送ってく」発言になまえのキャパシティは既に限界だった。
爆豪の左手と右肩が当たるたびどきりとしたし、離れようものなら舌打ちされるし、会話で誤魔化そうにも機嫌の悪そうな爆豪に話しかけることもできなかった。そんな重い空気の傘の下、時折漂ってくる甘い匂いがなまえの頭を更に乱した。俯けた視界の端に映る爆豪の靴に意識を向け、歩調を合わせるのが精一杯だった。
お願い、早く着いて…。
ぱさりと落ちた髪を耳にかけながら、歩みが遅くなっているような気さえしてきた。




施設のエントランスに着くや否や、なまえはそそくさと傘の下から抜け出た。

「あ、ありがとう…。助かりました…」
「…………」

ちらりと爆豪を盗み見れば、通常時より眉間の皺が深い爆豪と目が合う。やはり不機嫌そうな彼に何かしてしまっただろうか、となまえは目線を泳がせた。

──あ。

「っ、ちょっと待ってて!すぐ戻る!」

踵を返そうとする爆豪に声をかけた。動きが止まったのを確認したなまえはエントランスをくぐり自室へ向かった。鞄を置き、棚の中からハンドタオルをひっ掴んだなまえは急いで玄関へ戻る。

「…ごめんね。こんなに濡らしちゃった」

そう言いながら爆豪の右肩にタオルを当てる。
なまえはほとんど濡れていなかったので、きっと爆豪が傘を傾けてくれていたのだろう。一人で帰れば濡れなかっただろうそれに、罪悪感が募る。
トントン、とタオルを当てていると、爆豪から息を吐く音が聞こえた。

「今度、」
「?」
「体育祭に出る」
「……あ、ゆ、雄英体育祭か!」
「テレビ中継されるから見とけ。いいな」
「わ、わかった」

纏う空気が和らいだ爆豪に内心ホッとし、なまえは微笑みながら言葉を継ぐ。

「すごいなあ。あのお祭りに知り合いが選手として出るとか信じられないや。しかも2人」


その刹那、突如タオルを持つ左手首を掴まれた。吃驚したなまえは爆豪を振り仰ぐ。

「デクの話なんざしてねぇんだよ。俺を見とけっつってんだクソが」
「……っ、」
「ぜってェ1位になる。それをテメェはしっかり見とけ、いいな」

またも鋭くなった剣幕に圧され、ぐっと近づいてきた赤い瞳に捕らえられたなまえはただ頷くしかできなかった。そんななまえの瞳をしばらく見つめた後、爆豪は握った掌を解き今度こそ踵を返してしまった。




雨の中に消えていく爆豪の背中を見つめながら、なまえはひどく混乱していた。

怒ったような態度も、濡れないようにしてくれた優しさも、きっとどちらもなまえに向けられたものだった。後者だけなら少しくらいの期待も持てたが、怒った様子の爆豪は中学生の頃の彼を想起させた。


────嫌われちゃったのかな。
熱く感じる左手首をさすりながら、なまえは早鐘を打ちながらもズキリと痛む胸を自覚していた。


弱まることのない雨音のなか、なまえは熱の籠もった息を零した。






濡れた右肩も不機嫌な態度も、理由は同じと気付かないまま





地雨




prev - back - next