しばらくして気持ちが落ち着いたなまえは、公園の水栓でハンカチを濡らし瞼に当てた。熱を帯びた瞼を覆う冷たさに肩の力が抜ける。
涙の自浄作用なのか、心は幾分軽くなったし、クリアになった頭は冷静さを取り戻した。
完全に修復はできないとしても、せめて普通に連絡を取れるくらいには関係を戻したい──。なまえは軽く息を吐く。女々しく泣いていてるだけでは何も始まらない。
動かないと何も得られない。以前そんな話を爆豪がしていたことを思い出した。
『この前は送ってくれてありがとう。体育祭見たよ。優勝おめでとう。』
そこまで打って手を止める。
「なまえのメッセって簡潔というか、女子高生ぽくないよね。お父さんみたい」と友人に苦笑されたことを思い出す。
メールやメッセージは苦手だ。相手の声色や表情で言外の意図を汲み取ることができないし、気の利いた言葉を添えようにも上手くいかない。
しかし送信先はあの爆豪で、そんなメッセージを送ってもきっと意味はないだろう。それはなまえにとってかえって気が楽だった。
一番言いたい言葉も入れようか、指を彷徨わせているその時だった。
『どこにいる』
突然現れたそれに、はじめは過去のタイムラインかと思った。
「え…?」
何が起きたのか反応できないでいると、さらに『見てんのか』と表示された。
その文字で事態を把握したなまえは咄嗟にホームボタンを押す。心臓が耳元で鳴り始めた。
すると今度はスマートフォンが立て続けに振動し、アプリアイコンの未読件数が増えていく。
まさかの事態にただただ慌てていると、ついには電話がかかってきた。
「……っ!!」
画面に表示される名前に緊張が高まる。
ぐ、と唇に力を入れ震える胸に手をあてながら、なまえは通話ボタンを押した。
「ここ以外来るとこないんかよ。行動範囲狭すぎんだろ」
ベンチのそばに着くやいなや爆豪から放たれた言葉にデジャヴ…、となまえは心の中で呟いた。
開口一番『無視するたぁいい度胸してんじゃねェか』とスピーカー越しに聞こえた不機嫌な声に、なまえはスマートフォンを握り締めた。尋ねられるまま場所を伝えると、『そのままそこにいろ』とだけ残して電話は切られた。
どれくらいで着くのかもわからずその場から動けなくなったなまえは、しかし落ち着けるはずもなく、とりあえず文庫本を捲っていた。内容は一切頭に入ってこなかった。
少し汗ばんでしまった顔を軽く手で扇ぎながら、横に座る爆豪を盗み見る。
一向に話しかける素振りが感じられない。なまえから話そうかとも思うが、仏頂面の横顔にあの雨の日の眼光を思い出してしまう。いざ会うと勇気が出ない自分に嫌気が差し、なまえは視線を落とした。
「今日はバイトないんか」
突然の問いかけになまえは慌てて答える。
「あ、う、うん。中間も終わった後だし入れるつもりだったんだけど、先に先輩がシフト入れてて」
「ふうん」
「う、うん…」
終わってしまった。爆豪が話を広げるタイプとは思っていないが、こうも反応がないと戸惑う。再び訪れた沈黙に、なまえは取り繕うように言葉を発した。
「あ、あの。体育祭、見たよ。優勝おめでとう」
その言葉に爆豪が微かに揺れたのにも気付かず、なまえはそのまま続けた。
「あの雄英で、入試1位で、体育祭も1位ってほんとにすごいよ。最後の決勝なんて「言うな」
俯きながら、でもピシャリと言い切るその姿に、なまえはただならぬものを感じ閉口する。その表情は窺い知れないが、きっと厳しい顔をしているのだろうことは想像できる。
図書館の帰り道が懐かしい。ぎこちないながらも会話ができていたあの頃に戻りたいのに、今は自分の発する言葉は彼を苛つかせてばかりなようだ。
傍から見ればなまえに一切否はないのは明白だが、一度思ってしまった頭の中はその思考で埋め尽くされてしまう。
「……ごめん」
「…………」
「…わたし、爆豪くんのこと、怒らせてばっかりだよね。ほんとごめん」
「……は?」
本当は、理由がわからないまま謝るなんてことはしたくない。その場凌ぎの無責任な行為だとわかっている。
「…っ、でも、わたし、爆豪くんと、前みたいに話したく、て…」
この前からすぐ胸が揺らいで、騒ついて、溢れそうになる自分が嫌いだ。
「…なにしたのかわかんなくて、」
まとまらない思考に爆豪の顔が見れない。
「……ほんと、ごめん…」
なんてみっともない。こんなことを言ったって、きっと余計に爆豪を不快にさせるだけなのに。
なまえは膝の上のショルダーバッグをぎゅっと握り締め、瞼に力を込めながら爪先を見つめる。
震える声は抑えきれなかったが、泣くことだけは絶対にしたくなかった。
「なんか、勘違いしてんだろ」
しばらくして聞こえた声とともにこちらを向く気配を感じたが、耐えるのに精一杯で反応できない。
左耳に息を吐く音が届く。
「前言ったろが。勝手に他人の気持ち決めつけんなって。一緒にいてイライラするやつに会いに来るほど暇じゃねぇわ」
少し和らいだような声色に、諭すような言葉に、なまえは目を見開いた。
「…てめェこそ、いい加減気付けよ」
なまえはゆっくりと視線を上げる。眉を顰め細められた瞳に見つめられ、なまえの瞳は揺らぐ。
「みょうじ」
「…好きだ」
夢だろうか。
なまえの喉はひくつき、緩く頭を振る。
「うそ」
「嘘じゃねェわ」
「…だって、この前も、今も、怒って…」
「…あーー、まあ、確かに前のアレはムカついたな」
「……」
「体育祭のは、俺が納得してねェだけだ。話題にすんな」
「よ、く、わかんない…」
「チッ」
言ってることがうまく理解できない。
「俺がなに言ったか憶えてねェんかよ…」
「え、えと、」
「言葉の意味だけ受け取っときゃいいんだよ」
「…?」
「雰囲気ばっか気にしやがって」
「ええと、今、怒られてる、よね…?」
「…そういうとこだ、クソが」
「ご、ごめん」
あれが怒ってないというならなんなのだろう。
一方的に責められる状況に理不尽さを感じつつも、どこか本気で怒る気はないような口調になまえも大人しくなる。なにか盛大な勘違いをしていたようだ。
「…てめェは、どうなんだよ」
「え、」
「…俺にだけ言わす気か」
不満気で、そして確信めいた言葉になまえは顔が熱くなるのを感じた。
震える声で伝えた言葉は、明るさの中に溶けていった。
やっと捕まえた