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雄英に入学してから周りのことが見えるようになり、視界が開けた。俯けた顔を思い切って上げた先に広がる世界は目が眩んで仕方がなかったけれど、騒がしく賑わう日々の中で過ごすうちに物事を前向きに捉えられることが増えていった。
絶望ばかりを数え確かにあった喜びに向き合ってこなかったこと、そんな己の頑なさ、狭量さに気が付いたのだ。
だから轟は、彼女の気持ちを蔑ろにした昔の自分が許せなかった。
でもその一方で、どうすれば取り戻せるのかもわからなかった。
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週末の帰省中、家で落ち着くことができなかった轟が適当な散歩から帰った時だった。
アプローチを抜け玄関の引き戸に手を掛けようとした時、家の奥から楽しげな声が近付いてきた。
「長くなっちゃってごめんなさい」
「ううん、全然。わたしで良かったらいつでも言ってね」
「ありがとう。またお願いしちゃうかも…」
「もちろん!」
懐かしい声に轟は目を見開いた。すぐさま戸を引くと、濃紺と漂白色のセーラー服を纏うなまえがこちらを振り返った。思っていたより近くに立っていたこと、記憶の中の彼女より近くなった目線に数センチ後退った。
土間に立ちこちらを見上げるなまえの後ろ、ホールに立つ冬美から「おかえり」と声がかけられた。轟は目線だけで短く応答し、すぐなまえに視線を戻した。
「なまえ」
「ひ、さしぶり…」
「来てたのか」
「う、うん!冬美ちゃんに勉強教えてもらいに」
轟が再び姉に視線をやると「言ってなくてごめんね」と笑顔が返ってきた。
「ゆっくりさせてあげてって、なまえちゃんが」
「…水臭ぇな」
「ご、ごめん。その、焦凍くん、雄英で忙しそうだし、たまの帰省のお邪魔はしたくないなぁって」
そのまま無言で見つめるとなまえは慌てて謝罪を重ねてきた。
八の字に下がった眉と対照的に丸く見開かれた瞳、そして激しく振れる両手。記憶の中の彼女と一致する反応に肩の力が抜けた轟は、ごく軽く聞こえるように「怒ってねぇ」と言葉を返した。
一瞬ポカンとしたように止まったなまえだが、我に返ったように冬美に顔を向けた。
「冬美ちゃんに勉強教えてもらいに来てさ、遊ぶのもどうかと思ったし」
「なまえちゃんは真面目だから」
「違うよ。本気でやばいんだよ」
「受験やだぁ」と笑ったなまえが左手で横髪の後毛を耳に掛けた。記憶の中では短かったはずの髪は今は1つにまとめられていて、毛先が尻尾のようにふるふると揺れている。露わになった顎のすっきりとしたラインが彼女の成長を感じさせるようだった。
「帰るんだろ。送ってく」
半身を翻し引き戸に手を掛ける轟に「い、いいよ。まだ明るいし」と申し訳なさそうな声がかけられた。
「焦凍くん帰って来たところなのに」
「気にするな。というか、俺がなまえに用がある」
「え?」
きょとんとした顔が轟を見上げてくる。その後ろ、含み笑いを浮かべる冬美を視界に捉えながらも、轟は構わず敷居を跨いだ。
数秒の後、慌てたように姉に挨拶をする声と小走りの音が後ろからついてきた。
橙色に染まった土手は秋風が心地良く吹いていた。
右側を歩くなまえは終始高校受験に対する不安を言い募っていた。確かに彼女は勉強は苦手なようで、過去何度か勉強を教えたことがあるが基本的に眉間に深い皺を寄せて唸るばかりだった。
久しぶりに話すことに若干の緊張をしていたが、記憶と変わらないなまえの口調に轟の強張りが解けるのにそう時間はかからなかった。
「なまえ」
「ん?」
「悪かった」
突然の謝罪に、またきょとんとした顔がこちらを見上げてきた。
訝しむことなく素直に疑問を返してくる。彼女の素直さ、裏表の無さにどれほど救われてきたのか。昔の轟はそんなことに気付くことはなかった。
「なんのこと?」
「酷いこと言ったと思う」
「へ?」
当惑したなまえの瞳が左に右にと振れる。轟は薄く息を吐き、なまえを見据えた。
「告白してくれた時」
ぴたりと止まった瞳としかと視線が合う。瞬間、瞼がぐんと見開かれた。
雄英入学の前日、轟はなまえに告白された。そして振った。
普段より緊張した面持ちで、でも真っ直ぐ見つめて伝えるなまえに、考える暇はないとかくだらないといった類の、不必要で暴力的な言葉をいくつか投げつけたのだ。
さすがに記憶はあやふやになってきたが、なまえの顔が強張っていたこと、たった一言「そっか」と発しただけで終わらせてくれたことは確かだった。そしてその後も変わりなく、避けるでも擦り寄るでもなく、それまで通りと同じ距離感でなまえは轟に接してきた。
それは今も変わらない。
あの頃は一切気が付かなかった。
自分のこと、両親のこと、反骨心、怨み、嫌悪。そういったことで埋め尽くされていた頭では目に留まるどころか意識の外にあったのだ。
当たり前ではない気遣いを空気のように感じ、そこに彼女の配慮があるなど考えもしなかった。
見開かれたなまえの瞳は轟を凝視したまま、差し込む西陽でその透明度を増していた。
「酷いこと、なかったと思う、けど…」
「なまえのことロクに考えもしないで、俺の都合で突き離した」
「焦凍くんからしたら勝手に告られたわけだし」
「言わなくていいことまで言った」
「そう、だったっけ?」
逡巡するような表情で斜め上に視線を移したなまえに、轟はなおも言葉を続ける。
「気持ちが変わったとかじゃねぇ。……けど、あの時の俺はなかった」
「それだけは謝んねぇと、って、ずっと思ってて」
「今まで言えなかった」
そこまで言ってゆっくり戻ってきた瞳はひどく静かだった。真っ直ぐに向けられる沈黙を受け止めるうちにはっとした轟は、逃げるように顔を背けた。
失敗した。正直に伝え過ぎた。言葉の選び方が不味かった。それ以前にそもそも言うべきではなかったのではないか。ただの自己満足ではないか。
轟の脳内で後悔が巡る。ここに至って初めて、いつものなまえの笑顔が返ってくることを勝手に想像していた自分に気が付いた。
あの頃と何も変わっていない自身が歯痒い。眉間に皺が寄るまま、真新しいコンクリートの上にはっきりと伸びる長い2つの影を見つめるしかできない。
「ありがとう」
明るく軽い声色に視線を戻すと、「複雑だけど」と続けたなまえは眉尻を下げて微笑みを浮かべていた。
「わたし態度悪かった?」
「そんなこと、ねぇ」
「…ならよかった」
謝罪を発したい気持ちを押し留めた轟の喉元に、「焦凍くんには嫌われたくないから」となまえの独り言のような言葉が飛んできた。
どちらともなく立ち止まっていたが、なまえが歩みを再開するのに合わせて轟もゆっくり足を進めた。
「焦凍くん、変わったね」
つい数分前までそう思っていた轟は沈黙を返すしかなかった。
「久しぶりに目が合った気がする」
「そう…か?」
「うん。空気が違うというか」
「……『怖かった』?」
「………結構」
「ごめんね」となまえの視線が下がるのに合わせて、轟も顔を正面に向けた。
なまえが両手で握り締めていたスクールバッグを右肩に掛け直した。
「今日もね、正直言うと、その……、緊張しちゃうなって思って。それで、連絡はいいって」
「勉強教えてもらってたのはほんとだけど。久しぶりに会って、普通に話せる自信なくって」
「だから、焦凍くんから声かけてくれて、ほっとした」
言葉を探すように瞼が左右に揺れ、首が傾げられるのが視界の端でもわかる。慎重に、それでいて正直に話す歳下の幼馴染に返す言葉が見つけられない。顔を向けることも憚られ、ただ前を見て歩調を合わせるしかできなかった。
「雄英行って何か変わったのかなあって」
「……」
「高校生だから、なのかもだし。よくわかんないけど…」
「わかんねぇ」
「…そっか」
「………いや、変わったな」
「……そっかあ…」
溜息のように漏れた言葉に微かに右を向くと、なまえはなおも眉尻を下げた表情のままこちらを見上げていた。
「羨ましいな」
「焦凍くんの高校の人たち」
「わたしが、そう出来たら良かったのに」
眉尻を下げるなまえの後ろでは川面が夕陽を乱反射させていて、轟はすぐさま視線を前に戻した。泣いているのか、笑っているのか、その表情は刺すように鋭い逆光によって正確に捉えることはできなかった。
その後はただひたすら沈黙が続くばかりだった。
17,280,000秒の刹那
この気持ちはなんだろう