綿菓子雲

冷たい風が肌をかすめて思わず身震いした。授業中の一般生徒を屋上から見下ろす午前十時を過ぎた今、半袖で居ることを強く悔やんでいる。

「天気予報くらい見てきなよ」
「だって昨夜は暑かったもん……」

フェンスから顔を出してグラウンドを観察する私の隣で、寝転がって小さく欠伸をしている男は呆れたとでもいいたげな視線を向けてきた。一応私も一般生徒という括りに入ってはいるが、教師に特別な許可を得てちゃんとした理由の元にここに居るのだ。

「雲雀くんはどうして私が近くにいても酷いことしないの?」
「理由が無いからね」
「理由って?」

そう聞いても何も答えてくれないのだ。彼は私の質問にハッキリとした解答をくれたことは一度たりとも無い。彼に聞いてもダメなら部下の人らに、と思って草壁くんやその他の風紀委員に聞いてみたこともあったけど誰も教えてはくれなかった。視線を泳がせて「私たちからはなんとも」と焦った様子で逃げ出すばかりである。

強風でスカートが揺れるのを反射的に抑え、振り返ってフェンスに背中を預けた。とある下級生が起こした自殺未遂のおかげで新調されたフェンスはとても頑丈であり、私の体重で崩壊したりはしない。

「授業出なきゃいけないのわかってるんだけどなー」
「テストでちゃんと点が取れてるんだから出なくてもいいでしょ」
「それが意外なんだよね、雲雀くん変な所で真面目っぽいからちゃんと授業出ろって言われると思ってたもん」

過去にさぼりの現場を彼に見られたのは本当に偶然だった。それ以来こうして屋上で呑気に話す機会が増えたのは学校に来る楽しみの一つだけど。

「去年までは普通の女の子だったのにね」
「つまらない人間だと思ってた」
「だろうね〜、私もあの毎日つまんなかったし」

真面目に授業に出て、テストで当たり前のように点数を取って、時間に厳しく規則を守って服装も乱さず。至って普通の、優等生だった私が。

そんな私を変えたのは雲雀くんだ。
友達も居なくて群れなんて作れなかった迷子の羊だった私を案内してくれたのは彼である。

「今は楽しいよ、ありがとう」

私がそう言ったと同時に、二限目の終わりを告げるチャイムが響いた。彼にこの声が届いたかは分からないけど、聞こえていてもいなくても彼は何も言わないのだろう。教室へ戻っていくグラウンドの生徒を見て、私も足を動かす。

「次の授業出よっかな、美術だった気がするし」
「僕も面白いとは思ってるよ。変わっていく君を見てるのは」
「え」

大きく浮かぶ綿菓子のような雲が彼を影で暗くした。そのおかげで鮮明に見えた表情、口元には確かに笑みが浮かんでいて、鋭い灰色の瞳はしっかりと私を捉えている。

「素直に僕に変えられていく君は本当に見ていて楽しい」
「それってペットの成長見てるみたいな感じ?」
「どうだろうね、少しは自分で考えてみたら」

そんなことを言われたって他人である雲雀くんの気持ちが分かる訳ないんだよ。
でも、確かに今まで自分の意思で動くなんて例のさぼりの時くらいしかなかったかもしれない。今ここにいるのも雲雀くんからの誘いだからであって、きっと誘いが無ければ真面目に授業を受けていただろう。
それってなんか、教育されてるみたいだな。
でもいいと思えた。親に言われる愚痴より、雲雀くんの小言の方が優しいから。

「出なくていいよ、授業」
「でも美術の作品、まだ描き上がってない」
「放課後にでもやればいい。今はここに居て」
「放課後の美術室は美術部が……」
「他のところでも描けるでしょ、僕が許可するから」

教師より権力のあるこの人が言う「許可」はなによりも強い。私がここにいることの許可を取ってくれたのも彼だし。

「うーん、じゃあお言葉に甘えてサボタージュしちゃお。実は授業出る気分じゃなかったしラッキーかも……へくしゅっ」
「……やっぱり応接室に行こうか」
「ぅん、ありがと」

身体を起こした雲雀くんがこちらへ近付き、肩に掛けていた学ランを私に掛けてくれた。こういうとこ、ほんとに優しいのになんでみんな怖がるんだろうな。




気分がよかった。つまらない普通の人間が自分によって堕落していくのは。

優等生として様々な意味で有名だった彼女は何一つ規律を乱したりせず、平和な学校生活を送っていたのだが。ある月曜の日中、そんな優等生が屋上から地面を眺めているのを見つめた。ここで死なれるのは困る、この並中で自殺なんてことが起こってはならない。声を掛けると、感情が抜け落ちたかのような顔で僕を見た。そんな彼女に何と言ったかはもう覚えていない。

それ以来、放課後に彼女の姿を見つけたら応接室に連行したり屋上でほんの少し会話をしたり、と馴れ合うようになっていったのだが。これがなぜだか嫌ではなかった。時には昼休み、時には授業中、時には深夜。彼女は僕の言う通りの時間にここに来てくれる。今まで周りの望むような優等生だった彼女が僕によって塗り替えられていくのだ。これからきっと、もっと血なまぐさいことに巻き込んでいくかもしれない。だがそれでいい、隣にいるなら。


「雲雀くんの事好きかも」
「は?」
「ふふ、こんなに優しくされるの初めてなんだもん。親友になれたらいいなって思うよ」
「あぁ…………そう……」

その無駄に鋭いようで鈍いところは直して欲しいが。