恋に堕ちた二人(風間仁)


【恋に堕ちた二人】

摩天楼の光の洪水に夜空の星はその姿を隠してしまう。

三島財閥頭首の風間仁はこの一ヶ月間仕事に忙殺され、本社ビルに寝泊まりしていた。
「ニーナこれを情報部に提出してくれ」
最後の書類に頭首印を押し仕事の相棒であるニーナに渡す。
「では一週間留守を頼む」
「ええ、ごゆっくり」
仁は片手を上げ、執務室から出て行った。
明日から一週間仁は休みを取った。三島財閥頭首になってから一年、初めての休暇だった。

「……間に合わなかったか」
店の看板の電気を消していると、背後から聴き知った声がした。振り返ってみると、
「仁さん!?」
「久しぶりだなナーナ」
そこには数ヶ月ぶりに店を訪れた仁の姿があった。

「お食事は出せませんが、軽いおつまみとお酒ならば大丈夫です」
閉店後の店内はやけに静かだった。コートをハンガーラックに掛けると、ナーナは入口を施錠していた。
「閉店なのにすまない」
「いいえ。仁さんが久しぶりにいらして下さったのが、嬉しいので」
まずはいつものからでよいですかとナーナが訊ねる。
「そうだな。お願いする」
仁はいつものカウンター席に座った。

三島財閥本社ビルから徒歩数分の距離にあるここ『Bar Blue Moon』。
煉瓦造りの落ち着いた雰囲気の店。
仁は時間がある時には必ず立ち寄る店である。
いつもなら常連客で賑わっている店も今は二人きりだった。

「仁さんお待たせいたしました」
ソルティー・ドックが仁の前に置かれる。
「仁さんの為に特別な愛情を注いでおきましたよ」
「ありがとうナーナ」
首を傾げて笑うナーナにつられて仁も笑んだ。

ナーナはこの店のマスター兼バーテンダー。
年若い女性ながらもその腕は、バーテンダーのコンクールで優勝する実力だった。
その腕もさることながらその容姿は可愛らしく、雑誌などでも度々取り上げられる。
この店の常連客は皆ナーナのファンで、仁もその中の一人だった。

「せっかくですから、乾杯しましょう」
ナーナはフルート型シャンパングラスを手にし、カウンターから出て仁の隣に座った。
シャンパングラスの中は鮮やかなピンク色のカクテル。
ワインベースの『ベリーニ』いう名前のカクテルで、女性に人気だとナーナは説明した。
「お仕事お疲れ様でした」
「乾杯」
グラスを軽く掲げ二人は微笑み合う。
数ヶ月ぶりの仁の来店がナーナには嬉しかった。
「仁さんが来なくて寂しかったですよ」
「またまたそんな事」
「本当なんですから」

仁が来ない間毎日のように常連客から、
『ナーナちゃんいつもと違う。元気がない』
と言われていた。

その言葉でナーナは気付いたのだ。
仁の長期の不在をとても寂しく思っている自分は、仁が好きなんだという事に。

「お忙しかったのですか?」
「一ヶ月程会社に寝泊まりしていたんだ」
「え━━っ!!」
信じられないといった表情のナーナに、仁は苦笑いする。
「時期も時期だからやらなければならない事が山積みで、こき使われていたんだ」
はっきり言って休みなどほとんどない三島財閥頭首の仕事。
「それはまた大変でしたね」
ナーナは仁の素性を全く知らない。仁も好んで話したりはしない。

二杯目からは仁はジン・トニック。ナーナはノンアルコール・カクテルに変わる。
「そんなに忙しい仁さんって、一体どんな仕事をしているのか気になります」
興味本位ではなく、好きな人の事だから知りたいと思う。
今まで何度か訊ねたが、仁はやんわりと断っていた。
正直人には言えないような仕事を平然とやってのける三島財閥頭首の仕事。
私兵の鉄拳衆を使いどんなに汚い事にも手を染める。
ナーナにそんな自分を知られたくなかった。だから話さないのだ。
だがこの日仁はよほど疲れていたのか、はたまた久しぶりにナーナ会った気の緩みだったのか。
「そんなに聞きたいか?」
ついそんな事を言ってしまった。
「好きな人の事を知りたいと思うのは、いけない事なのでしょうか?」
けれどもナーナは仁の瞳を見つめながら、さりげなく爆弾発言をする。
仁の瞳が驚きに見開かれた。
だがすぐに優しい色を湛えナーナを見つめ返す。
「教える代わりに、俺の願いを一つ聞いてもらえるか?」
「内容によりけりですけど、私に出来る事なら何でも。あっ、お金は貸せませんよ」
「お金は余る程ある」
仁に優しく見つめ返され、ナーナの鼓動が跳ね上がった。
「明日から一週間の休暇で、気晴らしに旅行に行こうかと思っている」
「旅行……ですか」
また会えなくなるのかと悲しくなり、ナーナは俯いた。
「ナーナ」
「……っ!!」
仁はナーナの顎に手をかけ、自分の方へ顔を上げさせる。
「じ、仁……さん?」
突然の出来事に、ナーナの手からグラスが滑り落ちた。
ガシャンと落下音と共にガラスが床に砕け散る。
「俺の旅行に一緒に行かないか?」
「それ、って?」
ドクンドクンと心臓の音が煩い。彼にも聴こえてしまうのではないくらいに。
「ナーナと一緒に居たいんだ」
照れたように仁の頬はうっすらと赤く染まっている。
「一緒に来て欲しい」
「……はい」
甘く視線が絡み合い、二人の唇が重なった。

結局仁は自身の仕事の事を、この日は教えなかった。
後に知る事になるその肩書きに、ナーナがどんな反応をするのか。
仁には楽しみであり恐さもあった。
だがナーナはきっと変わらない態度でいてくれるだろう。
そう思いながらナーナの唇は甘くてクセになりそうだと、仁はしばらくの間その唇を味わった。

高層ビルが乱立する都市の路地裏に、『Bar Blue Moon』があった。
ひっそりと佇む煉瓦造りの店はいつも客が溢れている。

突然ですが諸般の事情により、誠に勝手ながら、明日より一週間お休みさせていただきます。

またのご来店をお待ちしております━━━━。

不知夜月