幸せのカタチ(風間仁)
【幸せのカタチ】
P・P・P・P・P…………。
目覚まし時計が鳴り止まない。手を伸ばせば音が消せるのに、今日は何故か身体が重く動かなかった。
「ナーナ?」
既に起床しトレーニングから帰って来ていた仁が異変を感じ声をかけてくる。
「ごめんなさい。何だか身体が怠くて……」
「風邪でもひいたか?」
仁はナーナの額に手の平を置いた。心なしか顔色が悪いように見える。
「少し熱いな」
手の平に感じる熱はそんなに高くはない。だが何か苦しそうだと仁は感じた。
「今日は仕事を休んだ方がいい」
見つめる仁の瞳が優しくて、胸がキュッと苦しくなる。
「……ごめんなさい」
今日は半期に一度の大事な会議の日。書類の用意などは終わらせていたが、頭首秘書として出れないのは心苦しい。
「かまわないし気にするな。その代わり、落ち着いたら病院に行くんだぞ」
それから付き添いを付けようかとの仁の心遣いを、ナーナは大袈裟過ぎるとやんわりと断った。
「ならば何かあったらすぐ連絡をする事。忘れないでくれ」
「はい……」
仁はナーナの額にキスをすると、寝室から出て行った。
次にナーナが目を覚ましたのは、午前10時を少し回った頃。
仁が寝室から出て行った後の事は覚えていない。
「もう、こんな時間なのね」
ナーナはゆっくりと身体を起こす。だが、さっきより体調は悪くなっているように感じた。
怠さ、熱っぽさに加えて貧血をおこしているのか。血の気が引いているようでクラクラする。
「!!」
急に込み上げてくる吐き気。
ナーナは洗面所に駆け込むと、白い陶器の洗面器に嘔吐した。
水を流して吐物を洗い流し、コップの水をふくんで口の中をゆすぐ。
「まさか……」
思い当たる事はある。
だが体調が悪いだけだと信じたかった。
肉体的には落ち着いたが、精神的な動揺はむしろ大きくなっていた。
目の前には白衣を着た女性の医師が検査結果らしき書類に目を通している。
ナーナはマンションから程近いレディースクリニックを訪れていた。
身体の変調が起こって初めて気が付いた。毎月定期的にきている生す理がきていないことに。
避妊なしの仁とのセックスは、いつかこうなることを予想できたはずなのに、考えることすらしなかった。
「━━━━七瀬さん」
「は、はい!」
名前を呼ばれて心拍数が一気に上がった。
何かの間違いだろうと、そうあって欲しいと心の中で願う自分。だが理性的にその考えを否定するもう一人の自分がいた。
「おめでとうございます。妊娠3ヶ月に入ってますよ」
「!?」
差し出されるエコーの写真。
白黒の画像がプリントされたそれにはまだ人の形は形成されてないが、確かに生命の姿があった。
「これがあなたの赤ちゃん」
「あ……」
どんな表情をしたらいいのだろうか?
自分の中に宿った小さな命は、仁と愛し合った証。
本来なら喜ぶべき事のはずなのに、ナーナは喜べずにいた。
仁は己の身体に流れる三島の血、デビルの力を厭んでいる。だからそれら全てを滅ぼし尽くし、その後自身も滅する。
それが彼━━風間仁という男の願いなのだ。
会計をすませ病院を後にしたナーナは、自宅には戻らずその足で空港に向かっていた。
喜ばしい出来事なのに喜べず戸惑う自分。産むにしても堕ろすにしても気持ちの整理をつけたい。
そう思った時にふと浮かんできたのは、仁の母親━━風間準の事だった。
三島一八の中に宿る神秘的な力に惹かれた準は、それが邪悪な存在だと分かっていながら彼を受け入れ、そして仁を身篭った。
彼女も仁を身篭った時に悩んだのではないか。
三島の血と、デビル因子。
━━━━会いたいと思った。
「屋久島まで行きたいのですが……」
コンクリート社会に生きるナーナに、屋久島の風は優しく自然の匂いに心が落ち着いた。
「こんな所で何をしているんだ!?」
屋久島の空港で不意にかけられた声。
振り返ったナーナは、目の前に立っている人物に目を丸くした。
「か、一八さん!?」
スーツ姿の三島一八がそこにいたのだ。
「まさかナーナが屋久島にいるとはな」
「私もここで一八さんに会うなんて思ってもみませんでした」
まさかの再会に、いまだ驚きが収まらないでいる。
仁のアキレス腱であるナーナを一八は狙っていた。
だが、なかなか彼女を手中に収める事が出来ないでいた。
しかし、ある出来事がナーナと一八を結び付ける。
それは、半年前の出来事だった━━━━。
一八を迎えに来たG社の車にナーナは同乗していた。
「一人とは珍しいな」
仁は一緒じゃないのかと一八は問う。
「どうしても会いたい人がいるので屋久島に来ました」
流れ行く窓の景色を見つめながらナーナは口を開いた。
「ほう……その会いたい人とは?」
今日のナーナはどこか様子が違うと。彼女を見つめながら、そう一八は思った。
「……仁のお母様です」
「……」
真っ直ぐに一八を見つめるその瞳から目が離せなかった。
「あいつは行方不明だ」
「もちろん知ってます」
6年前に起きた格闘家が次々と失踪した事件。仁の母親風間準はそれに巻き込まれ未だ行方不明になっていた。
後に仁の運命を大きく変えた出来事。
「知っていて何故だ?」
一八には分からない。もう存在していない人間に会おうとすることなど。
「屋久島に来れば、仁の育った場所に行けは準さんに会えると……」
漠然だがそう思ったとナーナは一八の問い掛けに答えた。
6年前の事件はまだ人々の記憶に新しいのか、その場所はすぐに分かった。
住宅地を抜け獣道に入り山道を登って行く。目指す場所は小高い丘の頂だ。
あの車中の会話の後何故か着いてきた一八。
ナーナにとっては予想外の出来事だった。
順調に山道を登っていた二人だったが、急にナーナの足が止まる。
「どうした?」
異変を感じた一八はナーナの顔色の悪さに驚いた。
「すみません。貧血を起こしたみたいです」
元々色白なナーナだが今日は特に青白く感じる。
彼女は額に汗を滲ませながら、荒い呼吸を繰り返していた。
(……貧血だというが、元々体調が良くないのではないか?)
自分を見つめる一八の視線に全てを見透かされそうで、ナーナはスッと視線を外した。
今妊娠している事を一八に知られてはならない。
じわじわと沸き起こってくる吐き気。それをごまかすように冷たいペットボトルの水を流し込んだ。
しばらく休むと少し吐き気は楽になった。
「もう大丈夫です。一八さんお待たせしました」
ゆっくりと立ち上がり歩き出すナーナ。だがその足元はどこかおぼつかないように感じる。
「世話が焼ける」
一八はナーナに近づくと強引に抱き抱えた。
「か、一八さん!!?」
「黙っていろ!」
見上げる顔が近い。
自分がお姫様抱っこをされていることに気がついたナーナは、顔を赤く染めながら俯いた。
しばらく山道を登って行くと、急に視界が拓ける。
そこは不思議と木々も草も生い茂ることはなく、殺伐とした景色が広がっていた。
一八に降ろしてもらいナーナは歩いて行く。まるで何かに導かれるようにその場に立つ。
「……」
一八はそんなナーナの様子を見つめていた。
家の土台だけが残るこの場所。
ここで仁は母親の愛情を一身に受け、幸せな時間を過ごしたのだろう。
切ない想いが胸を過ぎる。
その時一陣の風が吹き抜けたかと思うと、それはナーナを包み込んだ。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
淡い光の中にナーナはいた。
ゆらゆらと白いワンピースが視界の隅で揺れている。
「!?」
ナーナの目の前には、仁によく似た黒髪の女性が立っていた。
「……あなたは仁のお母様の、風間準さんですか?」
ナーナの問い掛けに女性は静かに頷く。
「私どうしてもあなたに会いたくて、その……」
会いたかった人がすぐそこにいるのに、言葉が上手く出てこない。
「……だから、私っ!……」
『ナーナさん?』
柔らかな微笑みと共に、スッと伸びてきた腕が優しくナーナを抱きしめた。
『あなたは今戸惑っているのね』
準の言葉が、動作が、ナーナを落ち着かせる。ナーナはぽつりと胸のうちを話し出した。
「仁は三島の血とデビルの血を呪い、いずれ己を滅すことを望んでいます。それなのに、私の中に彼の子供がいて……」
このままだと三島の血を引く者がまたひとり誕生してしまう。
果たして仁はそれを望むのだろうか?
考えてしまったら分からなくなってしまったのだ。
『あなたはどうしたいの?』
「え……?」
『仁がどうこうではなくて、あなた自身は?』
優しい眼差しがナーナを見つめる。
「私、は……」
ナーナは瞳を閉じ、己の心に問い掛けた。
本当の自分の気持ちを知るために。
「私にとってこの子は、血の繋がった唯一の子供なんです」
早くに両親を亡くし兄弟もいないナーナは、天涯孤独だった。
仁と出会い恋をして、突然の別れに涙を流した。
けれども運命のいたずらか必然か。
再会した二人は深く愛し合い。
そうしてナーナの中に宿った小さな命。
失いたくない━━━━。
「私は産みたい……」
涙が頬を濡らしていった。
張り詰めていた気持ちが解きほぐされてゆく。
『あなたがそう思うなら問題はないでしょう?産みなさいナーナさん。きっと仁もそれを望むはずよ』
ぽんぽんと背中を優しく叩かれる。
まるで子供をあやすようにそれは何度も繰り返された。
ナーナが落ち着くのを待って、身体に回されていた準の腕が解かれた。
それから今度は両肩に手が置かれる。
合わされた視線の高さ。
『私に会いに来てくれてありがとうナーナさん。そろそろ時間ね』
肩に置かれたはずの準の手。その感触が感じられない。
「準さん?」
目の前にいる準の身体が徐々に透けていく。
『仁を愛してくれてありがとう』
あの子は今幸せなのね。と、柔らかな微笑みを浮かべながら準は光の中に消えていった。
「あ……」
それと同時にナーナの意識が遠退いてゆく。
「おい!?」
崩れ落ちそうになるナーナに気付いた一八が慌てて彼女を抱える。既にナーナは意識を失っていた。
涙の跡が残る頬。ナーナの様子を見つめていたが、特に何かが起こっているようには見えなかった。
「一体何が……」
その時だった。
柔らかい風が一八の頬を掠めて行く。
『一八さん』
「!!!」
次いで聞こえる懐かしい声。
顔を上げた一八の目の前に懐かしい顔があった。