【26.拒絶】
いつもは静かなマンションのフロアーだが、今日はやけに騒がしく感じた。
「なにか起こってるの?」
ようやく起き上がれるようになったナーナだったが、更にふさぎ込みがちになっていた。
一八は時間を作っては様子を見に来るようにしていたが、この所は忙しく部下のアンナがナーナの元を訪れていた。
だが今日に限っては誰も来ていなかった。
ダンッ!!
突然の破壊音にナーナは驚き、咄嗟に部屋の奥に身を隠した。
「ナーナさんいらっしゃいますか!?」
自分の名前を呼ぶ声に耳を疑った。
「っ!!」
ドクンと強く鼓動が脈打ち、呼吸が乱れ息を上手く吸う事ができない。
「ナーナさん?」
徐々に近づく声。忌まわしいあの記憶が甦って身体が震え出した。
嫌だ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!
厭だ!厭だ!厭だ!厭だ!
不意に銀色に光るモノが目に飛び込んできた。それは果物ナイフ。
「……」
震える手でそれを握ったナーナは、立ちがりラースの前に姿をさらした。
「それ以上近寄らないで!!」
「!?」
ラースの目に最初に飛び込んできたのは、自分に向けられている銀色の果物ナイフ。
刃渡りはそんなに長くないが、十分に殺傷能力はあるだろう。
それからナーナの両腕に巻かれた痛々しい程の白い包帯。
「ナーナさん一体何があったのですか!?」
痩せほそった身体。
やつれた頬。
暗く沈んだ瞳。
久しぶりに見るナーナは別人のようで、ラースは内心の驚きを隠せなかった。
「何があったなんて、貴方が一番ご存知のはずでは?」
ナーナは握っていたナイフで腕に巻かれた包帯を切り裂いた。
「その傷は!?」
ラースの瞳に映るのは腕に刻まれた痛々しい程の無数の傷痕。
それはリストカットの痕だと判る。
見せつけられた傷にラースの動きが止まった。
「貴方は、また、私を、苦しめに、来たのね」
ラースを見つめるナーナに表情はない。
「違います!俺は!!」
その言葉はラースの胸に深く突き刺さった。
あの一夜の出来事がナーナをどれだけ傷つけたのか。
そして、昨夜仁に言われた言葉が胸に突き刺さる。
ラースは今更ながら思い知らされていた。
そしてその快楽に溺れた代償が、こんな事態を引き起こすとは。
ラースは唇を強く噛み締めた。
そんなラースの葛藤など知る由もなくナーナは視線を外すと、ナイフを自分の胸に突き立てた。
「ナーナさん駄目だ!!」
「駄目?何が駄目なの?貴方が私を壊したくせに!!」
無表情だったナーナのその瞳が怒りを宿す。
「貴女を傷つけてしまった事は幾重にもお詫びします。俺は貴女に何をされても構いません」
「……」
「けれども今は、貴女を頭首の元へお連れするのが、俺の最後の役目なんです」
ラースはナーナに手を差し出した。
「さあそのナイフをこちらへ。そしてもう一度だけ、俺を信じてこの手を取って下さい」
だがナーナはラースを睨みつけながら明確に拒絶した。
「ラースさんはそう言って、また私を騙すつもりなのね?」
「違います!今度は本当にナーナさんを頭首の元にお連れしたいんです!!」
これはラースの本心だった。
あの時ナーナを手にしたいが為にとってしまった行動が、自分を苦しめるようになるとは……。
「もう何もかもが遅いのに……」
「!?」
握られているナイフに、力が込められたようにラースには見えた。
「私は仁を裏切った女。貴方にレイプされながら感じていた最低な女。そんな私が今更仁の元へと戻れると思っていますか?」
そして、ナーナは嗤った。嘲りにも似た渇いた嗤い。
「ナーナさん……」
ラースの悩内で危険を知らせるシグナルが鳴り響いた。
それは幾多の死戦をくぐり抜けてきた者にしか分からない感覚。
……俺はどうすればいいんだ?
何を言ってもナーナは言葉を聞き入れないばかりか、自らの命を絶つ事に迷いはない。
むしろ死にたがっているように見えた。
「何をしている貴様ら!!」
「三島一八!?」
「……」
突如響き渡る太い声。それは騒ぎを聞きつけ急遽駆け付けた一八のもので、
「馬鹿な真似はよせ!!」
彼の目に映るのは、ナイフを自身の胸に突き立てているナーナの姿と、それを見つめる鉄拳衆の将校の姿だった。
「一八さん。……ごめんなさい」
ナーナは表情を変えた。
透き通るような微笑みも似たそれに、ナーナの本気を見た一八は息を呑んだ。
今しかない……。
ラースは拳をぐっと強く握りしめた。
一八の登場でナーナの気はラースからそれている。
ラースはそれを見逃さずナーナの手からナイフを奪おうと動いた。
だが一瞬早くナーナの手は動いていた。
「うっ!!」
短い呻き声の後、ガクンとナーナの身体から力が抜ける。
「ナーナさんっ!!」
目の前で崩れ落ちるナーナの身体を、ラースは抱きとめそして声を失った。
ナーナの胸に深々と突き刺さったナイフ。そこから溢れ出し滴り落ちるのは赤い液体。
それはラースの腕を、鉄拳衆のアーマを染めてゆく。
これでラクになれる。
ごめんなさい……仁。
でも、私は貴方をーーーー。
「じ……ん……」
床に拡がるのは鮮やかな赤色。
流れ出す夥しい血液が血溜まりを形成してゆく。
「ナーナっ!!?」
リビングの入口から聞こえた悲痛な声に、ラースと一八は目をやる。
「頭首……」
「仁……」
そこに立っていたのは仁で、彼の顔は真っ青だった。
「ナーナ!?しっかりしろ!!!」
ラースから奪い取るようにナーナをその腕に抱く。
ナーナに意識はなく、徐々に失われてゆく血の気。背中に冷たい汗が流れる落ちる。
まさかこんな結末を迎えるなんて、一体誰が想像出来たのか。
「早く連れていけ。命がなくなるぞ」
茫然としていた仁に一八の声が突き刺さった。ハッとして我に返る。
「ラース救護用ヘリを」
仁は着ていたライダースーツの上着を脱ぎ、それからナーナを包んだ。
出血による体温の低下を、少しでも抑えたいとそう思ったのだ。
やがて轟音と共にヘリが姿をあらわす。
「屋上から行け」
一八は鍵を仁に投げる。このマンションは一般世帯も入居しているが、G社所有の物。
そして屋上と最上階は一八の居住区だった。
「一八。落ち着いたら改めて挨拶させてもらう」
「いいから急げ」
予期せぬ状況の中、仁はナーナを取り戻す。
だが事態は一刻の猶予も許さなかった。
不知夜月