悪霊



髪留めのクリップをどこかに落としてきてしまった。汗で濡れる肌に髪が張り付くのが鬱陶しくてもそれを払う余裕はない。道行く人々に全力疾走する私はどう映っているのだろう。日頃から走っていて良かった、とまではまだ思えないのだ。振りきれない。振りきれないどころか距離を縮められている。冷たい色をした太い腕が背中を掠めそうになって坂を転がるように走り抜ける。右へ曲がるときに"それ"と目が合ってどっと汗が出る。
ーー悪霊だ。それも、とても強力な。
人の形を成していない霊は時々目撃した。元々が何だったのかはわからないがそれらの殆どは皆悪霊と判断できるものだった。
幼い頃からそういった類いのものが見えてしまう性質の私はそれらに気付かれないように、私がそれらを見えているのだと悟られないように生きてきた。失敗した。悪霊が人間に取り憑いているのは見たことがあったが、人間が悪霊を使役しているなんて一体どういう事なのか。呪術の類いならばあり得るかもしれない。私を執拗に追うのは、そういう事なのか。

「ッしつこい!!!」

ならば逃げても無駄だ。足を止め振り返ると悪霊の爪が頬を掠めた。橋の下、日差しを受けないそこで悪霊の体はぼんやりと光っている。違法投棄されたのだろうゴミの山からアイロンを手に取り振りかぶってぶつけると悪霊はガパリと大きな口を開けた。
経験で知っている。悪霊に物理攻撃は効かない。

「う、ぐ!!」

悪霊の腕が私の体を容易く捕らえ砂利に押し付ける。顔が擦れて痛い。人間とは比べ物にならない力だ。息ができない。

「こ、の、ぅあッ」

メキ、と骨が軋む音。巨大な手の平で押し潰される感覚。肺が圧縮されていく。もがいても抜け出せない。まずい。唾液が口の端を伝っていく。耳鳴りのようなものが脳に響く。ああ、落ちる。

「結構頑張ったみたいだけど、ここまでね」

薄れゆく意識の中でそんな声が聞こえた。







←前 次→

top