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「1886年、この時フランスに逃げた魔女のアリーナ・ブルベッドは当時はまだ開発段階にあった魔法薬を使い……」
ビンズ先生のくしゃくしゃに嗄れた低く優しい声が、耳元をゆるく撫でていく。机の上に開かれた魔法史の教科書の文字を追えている生徒は、どれだけいるのだろうか。
すう、と小さな寝息が聞こえてくる教室に、くすくす笑いの妖精は姿を見せない。授業が始まるまでずっしりと重かったローブの端を教科書を捲りながらこっそりと見下ろして、それから教室内をゆっくりと歩きながらアリーナ・ブルベッドの生涯を話すビンズ先生を振り返る。教室の一番後ろ、出入り口に近いその場所を一歩一歩進むビンズ先生が、しわだらけの大きな手で机に突っ伏して眠る生徒の頭を撫でた。それからその隣で大きな欠伸を零した生徒の肩を確かめるように撫でて、ビンズ先生はまたこつこつと靴底を鳴らしてゆっくりと歩き出す。
「………………」
前に向き直り、とうに重くなっていた瞼をこする。それからローブを撫でて、私は目を閉じる前にくすんだ赤毛の横顔を見た。
教室の一番前、右端に座る私と、教室の一番前、左端に座る彼、サミュエル・メイフィールドの間には、箒十本分の距離がある。その距離が随分と大きく果てしないものに思えるのは、一体何故なのだろう。姿はそこに見えないはずなのに、くすくす妖精が見えない壁を作っているように思えた。
「……さて、それでは次は中世ヨーロッパにおいて一番の変わり者の魔法使いの話をしましょう。まだどうにか起きている人は教科書の百三十五頁を開いて……」
いつの間にか教壇まで戻ってきていたビンズ先生の声に教科書をめくったのは、教室の一番前、左端に座るサミュエル・メイフィールド、その人だけだった。
「ミネルバ、ミネルバ、待って」
「カザリはやく、急がないと夕飯が無くなるわ」
そう言って私を急かし廊下をいつも以上に早足で歩くのは、私よりも箒四本分は先を行くミネルバだった。
普段なら今頃大広間でミネルバが食後の紅茶を飲んで、その隣で私がホットミルクに蜂蜜を入れぐるぐるとかき回している頃だろう。それがそうもいっていないのは、考え事をしていたせいで入ってこなかった、いや、していなくても頭に入ってくることのない魔法史の授業についてミネルバに訊いてしまったせいだった。ほんの少しビンズ先生が進めていたフランスに渡った魔女のブルベッドについて訊くつもりが、まさか時計の長い針がぐるりと一周するなんて考えもしなかった。うとうととしだした私に漸く気付いたミネルバが呆れたように私から視線を外し壁時計を見た時の彼女の悲鳴が、頭の中でぐわんぐわんと響いている。とても、可愛かった。
「カザリ、なに笑っているの。ほら、はやくはやく」
「ふ、ふふふっ、うん、行く、行くよ、待って」
開け放された大広間の扉の前に立つミネルバが私に手を伸ばしたので、私は数段しかない大広間の前の階段を一段飛ばしでのぼり、ミネルバの手をとる。可愛かったなんて言うと、ミネルバはどんな顔をするだろう。考えるだけで胸のあたりがホットミルクを飲んだ後のように甘くとろけて、頬がゆるんだ。不思議だ、まだホットミルクどころか夕飯もまだなのに。
「ああ、良かった。まだ残ってるわ。カザリ、此処に座りましょう」
「うん。あ、ミネルバ、ミネルバ。ローストビーフが一枚残ってる」
「あら本当ね。じゃあそれを取ってくれる?」
ミネルバに手を引かれるまま座った席から、私はうんと手を伸ばして一枚のローストビーフが残されていた銀の皿をとる。それをミネルバに手渡すと彼女はなんの躊躇いもなくそれをナイフで半分に切り分け、そしてそれを私とミネルバの前に現れた皿に取り分ける。私の半分のローストビーフは、彼女のものよりほんの少しだけ大きかった。
また胸のあたりがとろける感覚を味わいながら、斜め前で私とは反対側を向いて友人と話す生徒の近くのローストポテトの皿に手を伸ばす。ちょうど二人分残っていたそれをきっかり半分に分けて、それから少し考えて、私の分のポテトを一つミネルバの方に移動した。隣でミネルバが、ふ、と小さく笑った。
「カザリ、パンが残ってる。欲しい?」
「んんー、……ミネルバと半分こなら欲しい」
「もう、変な子ね。はい、半分ね」
ミネルバの綺麗な形の瞳と唇がますます綺麗な形になって、私はほうっと彼女の瞳を覗き込む。そこにうつる私は間抜けな顔をして前髪を跳ねさせていたが、それでも私はミネルバの瞳をじっと見つめた。不思議そうに丸められた彼女の瞳も、素敵なものだった。
「もう……カザリ、あまり見ないで。はやく食べないと私が食べちゃうわよ」
「ふふふふっ、ごめん、ごめん。だから食べないでね」
ミネルバからぱっと目を逸らし、私はミネルバが分けてくれたパンをローストビーフのグレービーソースに浸して一口かじる。ちらりとミネルバを横目で覗き見ると彼女も同じようにパンを浸していたので、私はまた彼女の瞳を覗き込みたくなって仕方がなかった。
いけない、これ以上はきっと怒られちゃう。そう思い、私は一人頭をふって、辺りを見回してみる。燃えるような赤毛のレイブンクロー生。テーブルに残っていたサンドイッチを独り占めするグリフィンドール生。それから離れたテーブルで羊皮紙に羽ペンを走らせながらミートパイを食べるアンドリュー先輩と隣でくつろぐニコラス先輩が見えたが、私は黙って二人からそっと目を逸らした。彼等の後ろには、アンドリュー先輩によく似たくすんだ赤毛がこちらに背を向け座っていた。サミュエル・メイフィールドだ。
「………………ミネルバ、」
「なあに?あら、カザリどうしたの?全然食べてないじゃない」
「……あの、あのねミネルバ。あの、私ね」
グレービーソースのおかげでいくらか重くなったパンを皿に置いて、私はミネルバの名を呼ぶ。すると今度は彼女が私をのぞき込んできて、私は彼女の綺麗に分けられた前髪を見つめた。
弱虫サミュエルという言葉が、良い呼び名ではないことを私は知っている。けれど、その呼び名を聞いた時に胸に広がった黒くて重いこの気持ちを何と呼ぶのか、私には分からない。くすくす妖精の作る見えない壁が、答えの前にたどり着きそうな私を邪魔するのだ。
「……カザリ?」
けれど、この壁を、ミネルバに取り除いてもらってはいけない気がする。
ミネルバの白くて細い指が私の前髪を撫でて、私はミネルバの前髪よりももっと上、天井を、見上げる。薄くかかった雲の向こうに大きな半月が見えて、私はミネルバに頬をゆるめてみせた。
「見て、ミネルバ。とっても綺麗な半月よ」
「え?……本当、大きくて綺麗ね」
「うん、綺麗、とっても綺麗」
私の前髪からミネルバの手が離れ、私は何事もなかったかのようにパンを口に運ぶ。グレービーソースに浸りすぎたそれはずっしりと重く、黒くて重いそれの上にのしかかった。
ちらりとアンドリュー先輩を見ると、くすんだ赤毛はもうそこに居なかった。
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