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「ヒュー、早く戻ろうぜ!」
決闘に最も適した防衛術とは、一体何なのだろう。埃一つない図書室のテーブルに広げた黄ばみの目立つ本を指でなぞっていれば、聞き慣れるには充分過ぎる程一緒にいるだろう同級生、ジャックの声が深いところまで沈もうと息継ぎをするために顔を出した意識をぐいっと引っ張り上げる。
は、と顔を上げるとそこには呆れたように腕を組み此方を見てくるジャックと、何を考えているのか何も考えていないのかいつものように当たり障りのない笑みを浮かべるイアンがいて、つい本を隠すように自分の方に引き寄せる。真面目に勉強をしている、なんて思われてしまうのが、不思議と嫌だった。
「分かってるって、でも、もう少し……」
「そんなに面白い本なら寮に持って帰ろうって、なあ!」
「ジャック、しい、静かに。怒られるよ。……ヒュー、先に戻ってようか?」
怒ったように地団駄を踏み赤毛を揺らしたジャックの横で、イアンがストロベリーブロンドの髪を揺らして首を傾げる。それにすぐさま頷きたかったが、ここでそうするのはきっとあの赤毛の地団駄を激しくさせるに決まっている。そんなに俺より本が良いのか、と。ジャックは、短絡的なのだ。
「んー……あー、……そうだな、ごめん。まだかかるから、そうしてくれると助かる」
「……消灯時間までに戻ってこないとお前のベッドに悪戯するからな!」
「分かってるって、また後でな」
「読書も良いけど、程々にね」
たっぷりと時間をかけて迷いに迷ったようにそう答えれば、ジャックは諦めたように頭をかき、捨て台詞を吐いて足早に図書室を出て行く。それに慌ててイアンが後を追いかけていったのを見送って、ほ、と短く息を吐く。まだ、二人の影が近くにいる気がした。
ローブのフードを深くかぶり、本を抱えて立ち上がる。大きなこれを軽く片手で持つのは、一年生の自分には難しい。両手で抱えて本棚と本棚の間の狭い席に逃げ込めば、そこで漸く一人きりになれた気がした。
一人きり、だ。
「保護の呪文……跳ね返し…………受け流しの呪文……これよりさっきの方が……」
椅子に座って膝を抱え、その上に本を置く。顔から近い位置にある文字を隅から隅までなぞれば、ローブのポケットに突っ込んだ杖と指先がうずいているような気がした。ぶくぶくと、意識が沈んでいく。
「あ、」
と、炎に対する水の防壁呪文の頁に差し掛かったその時、フードの向こう側であまり聞き慣れない声がして、また意識が引っ張り上げられる。今度は誰だ、と思わずフードを脱げば、思っていたよりも近い場所にその声の持ち主が立っていて、本が膝から落ちそうになった。レイブンクロー生が、本を左手に抱えて立っている。自分のすぐ隣で、本棚から本を抜こうとしながら立っている。
ほんの少し見開かれたグレーの瞳が、くすんだ赤毛の前髪の下で此方を見つめる。すぐさまその瞳は気まずげに逸らされ、血色のあまり良くない指が慌てたように本棚から抜こうとしていた本を押し戻し、その隣に抱えていた本を押し入れた。
「ご、ごめん……」
何に対して謝っているのか。突然声を上げたことか。読書の邪魔をしたことか。それともただの癖なのか。男とは思えない消え入りそうな震える声で小さく呟いて、レイブンクロー生は足早に駆けていく。翻ったローブには、しわ一つなかった。
「…………変な奴」
名前は確か、何だっただろう。レイブンクローで、同じ一年生で、いつも真面目に授業を受ける、くすんだ赤毛。よく似た姿を上級生に一人知っているが、とても彼とは似つかない。
時折見るその姿を頭の中で思い返しながら、どんな人間だっただろうかとフードを被り直す。ふ、と浮かんだのは、鼻を隠すようにおさえて此方を嫌そうに見る、同級生の姿だった。俺の前では決して笑わない、同級生の、カザリ・ヴィッセル。
「……そういえば、あの二人、話してたっけ」
真夜中の屋上で、淡い灯りに照らされながら星を見る二人を思い出し、知らず知らずのうちに鼻を隠した。
膝に置いた本への興味は、とうに消えていた。
「ちょっとカザリ、前髪が嵐にあったみたい。あああ、ローブにキャンディの欠片がついてるわ、糸くずも。ああもう、もう、カザリ、あなたって私がいないとそのまま一日を過ごすんじゃないでしょうね?」
怒ったような呆れたような、それでいて嬉しそうな。何とも言えない顔をして私の両頬を包み込むように指先を滑らせたミネルバは、私が昨夜の綺麗な半月を思い出しながら何を考えベッドに潜っていたのか考えもしないだろう。いや、考える暇も無かったのかもしれない。彼女は朝食のトーストをかじる私をよそに杖を振りローブを清め、櫛を取りに寮に走ったかと思えば戻るなり再び杖を振り、私の髪をしとりと湿らせたかと思えば忙しなく私の髪を撫でるように櫛を滑らせていたのだから。
「……いつもよりふわふわする……」
そして、そんな忙しなく私の身なりを整えてくれたミネルバと別れて、午前の授業を無事に終えた昼下がり。いつものようにはねていない前髪を指先でつまみながら中庭のベンチに座り、ぼんやりとつまんだそれを太陽に透かして見ていた。ミネルバが飛行術の授業を終えて此処にくるまでまだ時間がかかるだろうか。塔の向こう側を小さな箒の影が三つ飛んでいるのが見えて、それから笛の音が響いてくる。授業は、まだ終わっていないらしい。
ベンチの端に置いていたハシバミ色の鞄を引き寄せて、それを枕にしてそっとベンチに寝転ぶ。足早に夏が過ぎていくイギリスでは、柔らかな眩しい日差しが降り注ぐのはめったに無いことだと昔母さんが言っていた。それを思い出しながら、母さん曰く貴重らしいそれを存分に味わいながら目を閉じる。左頬に当たるハシバミ色の鞄の固さが、心地よかった。
「ミネルバ……まだかな……」
瞼の裏で今朝のミネルバの何とも言えない顔を思い浮かべながら、ぽつりとつぶやく。それからぷくぷくと浮かび上がってきたのはやはり見えない壁で、ぐり、とハシバミ色に額を擦り付けた。
瞼の裏。暗いそこに、見えない壁が浮かんでいる。見えない筈なのにそこにあることはしっかりと分かって、思わずきつく目を閉じた。しかし、それは変わらずそこにある。魔法薬学や薬草学に使うつんとした嫌な臭いをまとわりつけて、じっと黙って私を見ていた。
その向こう側にいるのは、くすくす妖精と、それから、それから、
「……ヴィッセル?寝てるの?」
それから、サミュエル・メイフィールドだ。
ぱっと目を開けて寝返りをうつと、私の顔をのぞき込むように腰を折る彼、メイフィールドがそこにいて、私ははっと目を見張る。彼はすっかり私が眠っていると思いこんでいたらしく、腰を折り私をのぞき込んだまま目を見開いて固まって、お互いにくっと息を飲み込んだ。
くすくす妖精が、すう、とどこかに飛んでいく。グレーの綺麗な瞳が、昨夜の半月のように細められた。
「ごめん、起こしたね……」
「う、ううん、ううん。寝てないの、起きてたの、だから平気、平気」
「そう?それなら良かった……。寝てたのなら風邪をひくといけないから、起こそうと思って」
「あり、がとう……、でも、今日はとっても良い天気だから」
ほら、と言って起きあがりながら上を見れば、メイフィールドは私の視線を追って上を見る。小さな雲が流れていくそれに、メイフィールドは眩しそうに目を細めて髪を耳にかけた。塔の向こう側には、まだ一つの影が飛んでいた。
少しの間を置いて、メイフィールドは振り返る。それから彼は肩にかけていた鞄を見て、それからベンチを見て、私を見て、またベンチを見た。その間私は、彼の首もとにある綺麗な形に結ばれたネクタイをぼんやりと見つめていた。アンドリュー先輩やニコラス先輩はぐしゃりと丸めたように結んでいたが、彼のそれはアルヴィ先輩のようにきっちりとしている。
「……あの、」
「うん?」
「…………隣、その、空いてるかな……?」
いつの間にかベンチから私に視線を移していた彼が、唇を震わせながらそう尋ねる。それが何故だかとても綺麗なものに見えて、私はネクタイの結び目から彼の瞳に視線を移し、じっとその二つのグレーを見つめた。
白い肌が、だんだんくすんだ赤毛と同じような色に変わっていく。魔法使いの彼である、ヴィーラの血が流れる魔女がいるように、彼の血には何か不思議な生き物の血が流れているのかもしれない。髪や肌を思い通りの色に変えられる、そんな何かの血が。
「私、ベンチを独り占め出来るくらい大きくはないよ?」
「……そうだね、うん、そうだ」
ぽん、と私の隣を叩きながらそう言えば、メイフィールドはなぜだか心底安心したように笑みを浮かべ、鞄を抱え込むように膝に置いて隣に座った。一瞬、瞬きと同時に見えない壁を持ったくすくす妖精が見えたが、きっと気のせいだ。ローブの端にも私の肩にも、くすくす妖精はいなかった。
「ヴィッセル、この間の天文学のレポート、出来た?」
「う、ううん、まだ、まだなの」
「そっか。それじゃあ、あの、もしよかったらなんだけど、明日の昼休みにでも、図書室で一緒にやらない……?」
「え、いいの?ほんとにいいの?」
「君が、ヴィッセルが、よかったら……」
せっかくだし、とはにかんだメイフィールドに、私はハシバミ色を膝に乗せ、くるくると考える。明日の昼休み。図書室。明日はミネルバと、特に約束はしていない。いつものようにミネルバが紅茶を飲むのを見終えたら、彼女は羊皮紙と教科書と羽ペンと、それから滲まないインクのたっぷり入ったインク瓶を抱えて、机にかじりつきに行ってしまうのだ。
私もたまには、机にかじりつくのも良いかもしれない。
「あ、弱虫サミュエルなんかと何してるんだよヴィッセル」
こっくりと、頷こうとしたその時だった。くすくす妖精が目もくらむ程の早さで目の前に飛び込んできて、見えない壁を彼と私の間に放り投げたのは。
は、と、メイフィールドが息を飲む。恥ずかしげに私の目を見ていたグレーの瞳はすぐに下を向き、微かに開いた唇はわなわなと震える。綺麗だと、さっきは思ったはずなのに。何故だろう。胸がざわついて仕方ない。
「ヴィッセル、こっち来いよ!」
「ヴィッセル、いつもの子はどうしたの?まだ授業?」
ゆっくり振り返ると、メイフィールドとは違う燃えるような赤毛とストロベリーブロンド、それからその後ろには藍色がいて、私はぐっと息を飲み込んでハシバミ色を抱きしめる。耳元にも見えない壁があるのだろうか。ジャックとイアンの声が、壁と耳の間でぐわんぐわんと揺れる。濃くいれすぎたコーヒーよりも苦くてくるしいものを、二人は、素知らぬ顔で吐き出していた。
「っ、ご、ごめんっ……!」
「あ、」
気付けばメイフィールドは勢いよく立ち上がり、私が引き留める間もなく彼らから逃げるようにその場を駆けだした。手を伸ばそうとすれば、くん、とローブが引っかかり、私はまさかと恐る恐るローブの端を見下ろす。くすくす妖精は、しっかりとそこに捕まって、私を見ていた。
「ヴィッセル、昼飯はまだ?俺らと食う?」
「ジャック、ヴィッセルはほら、グリフィンドールの子を待ってるんだってば。ね、ヴィッセル?」
此方に駆け寄ってくる赤毛とストロベリーブロンドが、風に揺られてふわふわ揺れる。その向こうから遅れてやってくる藍色はじっと私を見つめていて、その肩にはくすくす妖精が乗っていた。塔の向こうには、もう誰もいない。
「……ミネルバを、待ってるの。でも、多分、もうすぐ来るから……」
だから、ごめんなさい。
小さく小さく呟けば、ジャックはそっかと笑って私に手を振る。大広間に向かうのだろう。すぐさま方向転換をして歩き出した彼にイアンも私に手を振って、彼の後を追いかけた。藍色だけが、じっと私を見つめていた。
彼の、ヒュー・ガーランドの口が、微かに動く。何を言っているのかは、分からない。遠くから、ミネルバが私の名を呼ぶ声がする。ガーランドの形の良い唇が、に、と笑った。
「………………、」
その笑みがマルフォイと重なって、私は鞄を強く抱きしめる。ハシバミ色に、苦い苦いコーヒーが染み込んだ気がした。
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