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「カザリ、カザリは男の子と女の子、どちらが良い?」
それは、たまには甘ったるいチョコレートやヌガーじゃないものが食べたい、とぼやいたトムの為に、母さんの手と魔法をほんの少し借りて作った珈琲味のマフィンをオーブンに突っ込んだ時だった。
この国は何て肌寒く薄暗いのだろう、と母さんが呟きながら腕をさすり上げていたので、思うに母さんの母国ではもうダークグレーの薄いトレンチコートを着る時期ではないのだろう。しかし、此処はイギリスである。父さんはいつもと変わらずダークグレーの薄いトレンチコートでその身を包み、キッチンに立つ私をにこやかに見下ろしていた。マグル式の壁掛け時計が午後一時を告げる。マフィンが焼き上がるまで、あと二十分もない。
「ああ、お前はまた違う所を見て。カザリ、今話し掛けたのは時計じゃなくて父さんだろう」
呆れたような、それでも楽しそうな父さんの笑い声に我に還り、私は一度オーブンを覗き込んでから捲り上げていたカーディガンの袖を下ろし、父さんを見上げる。すると父さんは大きな手で私の頬に触れ、私と目線を合わせるようにしゃがみ込む。父さんが先程何と言ったか、私には思い出せなかった。もしかすると、思い出したくなかったのかもしれない。
「カザリ、もう一度訊くよ。お前は男の子と女の子、どちらが良い?」
今の今まで一度だって私に訊きもせず、むしろ私に気付かれまいと隠してさえいた父さんがマグルの街へ出掛けるその理由を、父さんは口にする。とうの昔から父さんと母さんが新しい家族を迎え入れたがっていたことには気付いていたし、次に連れて来る子はどんなつまらない子だろうとさえ考えていた。しかし、これは予想外である。まさか父さんが前もって私に訊ねてくるなんて、今までに無かったことである。
「……どうして?どうしてそんなことを訊くの」
「カザリだって気付いていただろう?父さん達がカザリに弟妹を連れて来ようとしていたこと」
父さんの言葉にゆっくりと頷けば、父さんは私の頬に触れていた手を私の手へと移動させる。父さんの大きな手に乗った自分の右手が随分と小さく見えて思わずそれを見つめていれば、父さんは私の額に自身の額をくっつけてきた。生温い体温に視線を上げれば、直ぐ目の前に父さんの困ったような顔が現れる。オーブンからふわりと珈琲の苦い苦い香りが漂ってきて、舌を出しそうになった。
「カザリ、答えて」
「………………………」
「男の子か、女の子。どちらが良い?」
瞬間、私は父さん曰わく抜けている頭で漸く理解する。父さんは、もうめぼしい子供を見つけてしまったのだと。そしてその子供をこの家に迎え入れてしまえば、今まであった私の決定権はひゅるりと消えてしまうのだと。試すように連れてこられていた子供は、本当に試されていただけだったのだ。どんな子供が私に合うのか、その答えを導き出す為だけに。
父さんの手が私の小さな手を揺らして、私はどう答えれば正しいのか分からずにただ父さんの瞳を見つめる。出来るならば、私は彼が良かった。いや、彼に決めていた。彼に初めて会ったその日から、私は彼を選んでいた。
「どちらでも良いのなら、父さんが決めても良いかい?」
「………………………」
「カザリがこんなに黙り込むのは初めてだな」
今日、話をつけてくるからね。
何も心配しなくて良いよ、とでも言うように父さんは笑って、私の手を優しく握り締めて立ち上がる。手を離さず歩き出したということは、母さんと二人で玄関まで見送ってくれということなのだろう。二人で隠れて今日こそ良い子が見つかると良いね、なんて言わなくても良いということだ。
リビングでマフィンに使われなかった分の珈琲を飲んでいた母さんが嬉しそうに立ち上がり、三人で並んで玄関まで歩く。玄関の前に敷かれていたマットに父さんが杖を振れば、私が来ていたカーディガンと同じラベンダー色に変わった。小さな花がいくつも散らばったその柄は、カーディガンの中に着ているワンピースと同じ柄だった。
「いってらっしゃい。良い子であることを期待してるわ」
「ああ。カザリと合う良い子を選ぶさ。それから、家族みんなで愛せるような子をね」
父さんの手が私の手を離し、くしゃりと頭を撫でてくる。家中に珈琲の苦い苦い香りが広がっていて、私は笑って父さんを見送ることが出来なかった。今になって、母さんに教わってかけたマフィンが美味しく焼ける魔法が上手く出来たのか心配になった。
何時もならば部屋に入り暫くしてから今日のお土産と題されたものを僕に差し出すというのに、今日のカザリは違っていた。何時も通り僕の手を借りて窓から部屋に入ったまでは同じだったのだが、カザリは僕のベッドに腰を下ろすなりラベンダー色のカーディガンのポケットから紙袋を取り出し、無言で僕が手を差し出すのを待っていた。不思議に思いながらも手を差し出せば、カザリは相も変わらず無言でその紙袋を僕の手のひらに置き、ベッドの上で膝を抱える。手のひらに置かれたそれは温かく、院長先生やミセス・コールが僕を気味悪そうに叱った後に疲れた顔でよく飲んでいたものの香りがした。糖蜜ヌガーやら大鍋ケーキが口に合わず、思わずぼやいた僕の余り甘くないものが良いという言葉を彼女は覚えていたのだろう。忽ち胸が感じたことのない激しい感情で満たされ、僕はカザリを見る。胸を満たした波は、直ぐに静まった。カザリは未だ無言だった。
「カザリ、どうかした?」
「……どうも、しない、どうもしない」
「けど、今日は変だ。ずっと黙ってる」
むすりとしているわけでもない。かと言って悲しんでいるわけでもない。カザリはただ黙って床を見つめ、それからゆっくりと僕の方を向いた。膝を抱えているせいで彼女のワンピースの裾から彼女の白い脚が放り出されたかのように見えていたため、僕は同じように黙って彼女の膝を押してベッドにつけさせる。ぺたりと座り込んだカザリを見つめれば、カザリはワンピースの裾を適当に直しながら一度瞬きをした。
「……あの、あのね」
「うん。なに?」
「……あの、ね」
彼女の頭がどこか抜けていて、そして決して優秀な方ではないことを僕は出会ってから十分に理解していた。それでも他の子供達と違って僕に笑いかけ、同じだと嬉しそうに言う彼女は嫌いではないから、僕は大人しく彼女が紡ぐ言葉に耳を傾ける。自分はこんな人間だっただろうか、と彼女といると時折考えるが、答えは否。しかし、彼女以外の人間、彼女が持ってきて僕にあげるのだと言い張り置いていった魔法界の全て曰わくマグルといると、僕は依然として僕である。つまりは、彼女が僕を変えるのだ。彼女だけが、僕を変えることが出来るのだ。それは決して嫌なことではなく、むしろ心地良いとすら感じる。
そんな彼女の長い長い沈黙に大人しく言葉を待つ僕に、カザリは漸く口を開いた。彼女の小さな口が、震えているように見えた。
「それね、マフィンなの。母さんに教わって、美味しく焼ける魔法をかけたのよ。上手くいったかどうか分からないけど、多分大丈夫」
しかし、その震える口が紡いだ言葉は至極呑気なもので、僕は思わず目を丸くする。てっきり、何か暗い話が始まるのかと思っていた。そう、もう此処には来れないだとか、僕には会えないだとか。そんな、ことを。
自分で考えておきながら心臓に悪く、僕はマフィンが入っているらしい紙袋をベッドの脇に置き、カザリの隣に腰を下ろす。ぴたりと肩の触れる距離に座ってみればカザリが何故だか安心したように笑ったので、今の言葉は本来言いたかった言葉ではなかったのだと理解した。まあ、考えずとも分かってはいたが。
「カザリ、何かあった?」
「ない、ない。何にもないよ」
「嘘だね。隠したって僕には分かるんだ、嘘はいけないよ」
僕がそう言えばカザリは見る見るうちに眉を情けなく下げて、それでもへらりと力の無い笑みを浮かべる。困っているのか悲しんでいるのか、はたまた両方か。知識を吸収することには長けていると自負していたが、その知識はカザリの前では役に立ったり立たなかったり。今は、立たない時だ。
「なに。何があったの」
どうすれば良いのか分からず、僕はカザリの目から目を逸らして問い掛ける。するとカザリは小さくううんと唸って、足を伸ばした。ぱたぱたと上下に揺れる足に僕が目を向けている間にカザリは考えを纏めたのか、えっとね、と呟いたので僕はカザリの顔を見る。
「新しい家族がね、出来るの」
「……弟妹が産まれるのかい?何だ、良いことじゃ、」
「ううん。産まれないの。父さんが、連れて帰ってくるの」
多分、今日か明日。
僕が初め考えていた暗い話が頭をぐるぐると回って、ずっと胸の奥にひた隠しにしていた考えが打ち砕かれてしまう。カザリはもう、此処には来れない。カザリはもう、僕に会えない。僕は、カザリの家族になれないのだ。
新しい弟妹が出来たところで、カザリが此処に来ないとも僕に会えないわけではない。しかし僕が抱いていた彼女の家族になりたいという願いは叶わなくなったのだ。きっと、永遠に。
「それってどんな子?」
しかし、僕の絶望感とは裏腹に僕の口は至って冷静にカザリに質問を投げかける。そんな僕にカザリは何も不思議に思わないのか、それとも不思議に思いながらも顔に出さないのか、僕の目を見つめて淡々と答えた。分からない、と。
「分からない。だって、父さんが決めるから」
「性別は?男?女?」
「それも分からない。私、何にも言えなかったから」
ふるりと首を横に振ったカザリに、心臓がばくばくと五月蠅く鳴る。そんな得体の知れない人間を弟妹にするのなら、僕を弟にすれば良い。きっと今日か明日くる新しい家族とやらはカザリの抜けた頭についていけないだろうし、力の無いふにゃふにゃとした笑みに疲れるだけだ。蛙チョコレートを捕まえてやることも出来なければ、新聞の向こうで恐ろしい形相で此方を睨む魔法使いからカザリを隠すことも出来ない。半分かじって不味いと言いながら芽キャベツ味の百味ビーンズを押し付けられてもきっと食べられずに押しのけるだろうし、木の枝にカーディガンが解れて引っかかったって助けてやることも出来ないんだ。
「ねえ、カザリ」
「うん?なあに、トム」
僕には全部出来るよ。カザリ、僕は何だって出来るんだ。
「僕を、カザリの家族にしてよ」
言えなかった言葉を、言ってはならなかった言葉を口にして、僕は笑った。笑ってみせたつもりだった。果たして僕が上手く笑えていたのかは、一生分からないだろう。カザリは目を見開いて僕を見るなり、逃げるように窓から出て行った。少なくとも僕にはそう見えたのだ。
部屋中に広がり始めた珈琲の香りに、僕は胸が押し潰されるような感覚を初めて覚えた。
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