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「僕を、カザリの家族にしてよ」
父さんと母さんならこんな時、箒を杖で呼び寄せて簡単に飛んでいってしまうのだろう。しかし私は倉庫に埃をかぶった箒を持ってもいないし杖だってまだである。だから私には、自分の両の足でひたすらに家までの道のりを走るしかなかった。今日に限って少しサイズの合っていない編み上げブーツを履いてきたのが悪かったのだろう、つま先がじくじくと痛むし上手く走れないし、散々だ。
話したこともないマグルの親子を横切って、まるで逃げ込むように真っ白なドアを勢い良く開けて玄関に転がり込んだ。父さんが魔法で変えたばかりのマットのお陰で膝は擦りむかなかったが、その変わり私とマットが揉みくちゃになる。リビングから母さんが驚いたように顔を出して、それからマットと絡まる私を見つけて可笑しそうに笑った。私は上手く息が出来ず、マットに絡まったまま母さんを見つめるばかり。
「なあに、そんなに慌てて。ほら、ドアはちゃんと閉めなくちゃ」
笑いながら母さんが私に歩み寄って来て、母さんは私の隣に立ち手を伸ばして玄関のドアを閉める。ばたんと閉じられたドアを確認して母さんが杖を取り出せば、私の乱れた髪やワンピースが元通り綺麗に、いや、私の髪は起きた時のまま少し跳ねていたが、それでも少なからずましにはなった。
マットには魔法をかけなかったらしく、相も変わらず絡まったままのマットから自分で抜け出し、家を出て行く前の位置に戻す。すると母さんは私が慌てて家に飛び込んで来たことを思い出したのか、そんな私の肩を指先でなぞるように触れた。
「カザリ、どうしたの?あんなに慌てて帰ってきて。マグルに魔法でも見られた?」
そんなことがあったなどと微塵も思っていないであろう母さんの指先が肩から耳に移って、私はばくばくと五月蝿い胸をそろりと撫で下ろして母さんを見上げる。母さんはただ可笑しそうに、くつりと笑っていた。きっと私が鳥か猫か何かに驚いて逃げてきたのだと、そう思っているのだ。
「母さ、母さん」
「うん、なあに?母さんは此処にいるわよ?」
「あのね、私、私ね」
母さんの杖がポケットに仕舞われるのをぼんやりと眺めながら譫言のようなはっきりとしない口調で繰り返しても、母さんは気味悪がりもせず怒りもせず黙って私の答えを待った。それが何故だかトムと重なって、私は一度奥歯を噛み締めて母さんの目を見る。無表情で言葉を待つトムと違い、母さんは笑っていた。
父さんがどんな子供を連れてくるのか、私にはてんで予想がつかない。蛙チョコレートを捕まえることすら出来ない私に分かるはずがない。けれど、トムなら捕まえられる。私の肩に手を置いて後ろから覆い被さるように壁に手を伸ばし、それから当たり前のように私に差し出してくれる。
私はきっと、父さんが連れてくる家族とは永遠に家族になれない。蛙チョコを受け取ることも、食べかけの百味ビーンズを分け合うことも出来ない。その子のために息を切らして家に駆け込んでくることだって、出来ないのだ。
「母さん、私、家族にしたい子がいるの」
外はとうに暗くなっていて、廊下の壁に掛けられた時計が八時を回ったことを告げる為間抜けな音を八回鳴らした。それと同時に僕は夕飯を食べ損なったことになる。此処では夕飯は八時までに食べ終えないとそのままごみ箱行きなのだ。勿論、僕の夕飯も。さして美味しくもなく温かくもない夕飯であっても空腹を満たすには十分であるが、今の僕はお腹が空いているというのにそれを食べる気にはなれなかった。多分、いや、絶対にカザリが原因だ。悔しいが、カザリが原因なのだ。
ベッドの脇に置いていたマフィンは今やベッドの下に転がり落ちていて、珈琲の香りもいつの間にか壁や床に吸い込まれて消えてしまっている。それが窓から逃げるように出て行ったカザリを連想させて僕は動くことも出来ない。
「院長先生!お客様が来たよ!」
一階の玄関から僕より二つだか三つだか年下のイアンとかいう名前の子供の声が響いてきて、思わず眉間に皺を寄せる。どうにかこうにか体を動かしてベッドに寝転がり薄いシーツを体に巻きつければ、ずっと膝を抱えて座り込んでいたせいで固まってしまっていたらしい体がぎしぎしと痛んだ。
カザリはもう、この部屋に来てくれないのだろうか。彼女を取り囲む世界の切れ端を持って、僕に会いに来てはくれないのだろうか。
床下から妙に響いてくる騒ぎ声に耳を澄ませながらそんなことを考えていれば、たちまち気分が悪くなり、僕はシーツを強く握る。別にカザリなんかどうだって良いじゃないか。以前の僕ならきっとそう思っていただろう。しかし、今は違うのだ。今の僕はカザリが僕のいない間に来てはいけないからと他の子供達の玩具を取り上げに行くことも無くなったし、院長先生の説教に反発的な態度をとって時間をさくよりもカザリが持ってきた魔法書を読む方が楽しいし、カザリがいつ来ても大丈夫なようにと窓に鍵をかけなくなった。そのせいで周りの子供達からは以前よりも一層気味悪がられたが、構わなかった。訝しむ視線に気付かないふりをして目を閉じれば朝になり、昼になり、カザリが現れる。カザリが、いつも。
「……言ってはいけなかったんだ。僕はあんなこと、望んではいけなかったんだ」
家族が欲しいなんて、今まで一度だって望みはしなかったのに。
明日からまた以前の僕に戻ることは厭ではない。むしろ此処での僕はそうあるべきなのだとすら思える。しかし、カザリがいないというその事実は受け入れ難かった。彼女はあのふにゃふにゃとした力の無い笑みが良くも悪くも僕を刺激して、悪魔の子でなくしてしまった。彼女のような人間なら、いや、魔女なら、家族になりたいと願ってしまった。心地良かったのだ。僕を恐れも嫌いもせず笑って隣に座っていた彼女との空間が。トム、と僕の名を呼ぶどこか間の抜けたその声が。
「トム、トム、起きているかしら?」
こんこん、と部屋のドアをノックされ、僕は我に還る。トム、と再度ミセス・コールの声がドアの向こうから聞こえてきて、僕は思わず飛び起きた。此処の人間に、マグルなんかに僕が弱っている姿を見せてなるものか。僕は此処で、他人を支配していなくてはならないのだ。だからこそ、悪魔の子なのだ。
トム、といつもなら返事が無ければすぐに諦めるはずの彼女が今日は何故だかしつこく僕の名を呼んだので、僕はベッドの縁に座り直す。ぎしりとベッドが軋む音を彼女はしっかり聞き取ったらしい。起きているのね、と安堵したような声がドアの向こうから聞こえてきた。
「トム、出て来てくれない?あなたにお話があるの」
「……嫌だね。僕はあなたに話なんてない」
「ああトム、そう言わずに出て来て。とても大切な話なのよ」
ミセス・コールがそう言いながらドアを開けようとするのを感じて、僕はすぐさまドアを睨み付ける。開くな、開くなと念じたそれは通じたらしく、ミセス・コールがドアの向こうで焦ったような声を上げるのが聞こえた。
話すことなんて、ないのだ。僕は今まで誰の話にもろくに耳を貸さなかった。その話全て面白くもなく時間の無駄になるものだと分かっていたから。カザリが話すこと以外は全て、同じなのだ。
「トム、お願いよトム、ドアを開けて話を聞いて」
「そこで話せば良いじゃない。僕は此処にいるんだ」
「駄目よ、あなたが会って話さないと、ああ、来てしまったわ」
一体誰と会うというのだろう、何が来たというのだろう。もしかすると先ほどのお客さんとやらだろうか。ミセス・コールの声に紛れて小さな足音が階段を上ってくるのが聞こえて、まさか新しく子供がこの院にやって来たのだろうかと眉を寄せる。院にいる上級生が入ってきたばかりの子供の世話役をつとめなくてはならないことは分かっていたが、それでも僕は今までその役を任されていなかった。もし僕がその役をすれば頭がおかしくなってお終いだと誰かが言っていたのを聞いたことがある。まさにその通りだ。僕はきっと、その子供の頭をおかしくする。
部屋の前まで来るであろう子供に早くも嫌悪感が湧き上がり、開くな、と再度ドアを睨み付ける。ぱたぱたと小さな足音はやはり僕の部屋の前で止まり、ミセス・コールに何か言っているようだった。その声は小さくて、誰かが喋っている、ということしか分からない。まるでひそひそと囁き声で話しているようだ。
「ええ、ええ、大丈夫よ、もう出てくるから。……駄目よ、無理よ、このドアはあなたでは開けられないの。……無理よ、聞いて、駄目、無理に開けたらあなたが」
ミセス・コールの震える声は僕を恐れているからだろうか。彼女の言葉からしてどうやら子供はドアを開けようとしているらしく、僕は思わず鼻で笑ってみせた。もしもドアに触れてみろ、ドアごと吹っ飛ばして出て行けと命令してやる。それから二度と此処に戻って来るなと念じるんだ。僕の部屋には一歩だって、踏み入れさせやしない。カザリ以外、誰も。
きつくシーツを握り締めて、駄目だと未だ声を震わせるミセス・コールの声に耳を澄ます。その中に混ざる囁き声はやはり聞き取れないが、ミセス・コールの制止を聞かず地団駄を踏む音が響いてきた。馬鹿な奴だと思った。
「もう、もうっ、レダクト!」
まさに鼻で笑ったその瞬間である。今の今まで睨み付けていたドアがけたたましい音を上げて、僕が念じるまでもなく吹っ飛んだのは。そして、聞き覚えのある声が響いたのは。
廊下の頼りない明かりが部屋に差し込んで、僕は目を細めぽっかりと空いた大きなドアの形をした穴を見る。カザリがいつ来ても良いようにと窓の鍵を開けていたせいか、ドアが吹っ飛ぶ勢いで開いた窓から春に似つかわしくない冷たい風が吹き込んできた。いつだったか、カザリが言っていた言葉を思い出す。ニホンという国はもう暖かく、淡いピンク色の桜もとうに散っているのだと。
「トム、トム。ねえ、私の話を聞いて」
今みたいに、ふにゃふにゃとしか力の無い笑みを浮かべて。
「ああ!何てこと!?嫌だ!ドアが!嘘よ!こんな悪夢ってないわ!もううんざり!」
ミセス・コールの悲鳴なんて聞こえていないかのようにカザリはふにゃふにゃと笑い、ドアの残骸を昼間履いていた編み上げのブーツで踏み、僕の前に立つ。ラベンダー色のカーディガンが淡いオレンジ色の明かりに照らされて、おかしな色になっている。それでもいつものカザリのその柔らかなスタイルを、僕は気に入っていた。
何だ何だ、と聞いたことのない男の声が聞こえてきてもカザリは相も変わらず笑って僕の前に立っているので、一体誰が来たんだと思う僕はカザリの視線のせいで動けない。ドアが無いせいか足音がよく響いて、僕の部屋の前で止まる。大きな革の鞄が勢い良く部屋に放り込まれた。ばふん、と埃が舞う。
「ミスター!あなたの娘が、ああ!」
「ああ、全くもうカザリが。魔法省に気付かれないといいが……。すみませんミセス、うちの娘は考えることが苦手で」
「ドアが吹っ飛んだのよ!トムだってこんなこと!ドアが!あの子が!」
「ミセス、ミセス・コール、落ち着いて。うちの娘は魔法がまだ下手でね、つい力加減を間違ってしまうんですよ。さ、下で院長先生と三人でお話しましょう」
ああこれは忘却呪文をかけなくては、と疲れたように男が呟くのが聞こえたと同時に、カザリが埃を腕で振り払いながら部屋のど真ん中に転がっていた鞄を開け、僕を見た。
もうこの部屋に来ることはないのだと、僕に会いに来ることはないのだと、思っていた。トムにあげるよ、と読み古された魔法界の絵本も、特別な日にしか買ってもらえないという甘い甘いお菓子も、もうベッドの上で御披露目されることはないのだと。逃げるように窓から出て行ったカザリを見て、そう思っていたのに。
家族になりたいだなんて、馬鹿げた願いを言ったばっかりに。
「トム、トム、迎えに来たよ。早くこの鞄に荷物を全部詰めて。大丈夫、父さんが鞄に魔法をかけたから沢山入るわ」
小さな白い手がオレンジ色の明かりに照らされているのを、僕は言葉もなく見つめる。するとカザリは不思議そうに首を傾げ、トム、と僕の名を呼んだ。僕の喉がこんなに渇くことが、この先無いことを祈る。
「……カザリ、どうして君が此処にいるの。だって君は、僕から逃げたじゃないか」
「逃げてない、逃げてない。トムのことを話しに帰っていたの。だって、私が勝手に連れて行くわけにいかないでしょう?」
「でも、だからって、」
震える僕の声を、ミセス・コールの喚き声がかき消してしまう。目が熱い。僕の目はきっと真っ赤に燃えている。カザリの小さくて白い手が、鞄から離れて僕の手を掴んだ。
「僕の目の前から何も言わずに居なくなるなんて、二度としちゃ駄目だ」
情けない僕の命令は、きっとカザリに効いていない。それでもカザリは僕の手をきつく握り締めて、僕の目を見て笑った。裏庭の塀の上で初めて出会った日を、僕は思い出す。
「じゃあ一緒に行こう、トム」
あの日握り返せなかった手を握り締めて、僕は大きく頷いてみせる。ドアの向こうではミセス・コールが杖を向けられて、呆然と立ち尽くしている。冷たい風に乗って、ベッドの下に転がっていたカザリのマフィンの香りがした。
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