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カリカリと小気味良い音を鳴らして紙の上を走る羽根ペンの動きが止まったのは、つ、と小さな白い花の花弁が僕の右手の甲を撫でたその時だった。
ふと振り返ると部屋に浮かぶ小さな宇宙に混ざり、白とラベンダーが惑星にぶつかりながらそこら中を漂っていた。どうやら開け放していたドアから入り込んできたらしい。ノックもせずにいつの間にかそこにいるそれに覚えがあって、僕はインク瓶の蓋を閉めながら席を立った。やはり、この白い花は甘すぎる。


「ああ、もう、どうしてダンはこの花ばかり買ってくるんだろう」


手の甲を撫でた花を、それからオリオン座の真ん中でさまよっていた花を手繰り寄せて、そっと廊下に押し出してやる。廊下のひやりとした空気とむせかえるような甘い匂いに眉根を寄せながら、もう入ってこないようにとドアを閉めた。
部屋の隅のクローゼットから、深い藍色の毛糸で織られた少し厚めのカーディガンを取り出す。ダンとハツがマダム・マルキンの洋装店で買ったのだと僕には到底似合わない赤いカーディガンを袋から取り出した時は、思わずこの家に来てから一番の深い皺を眉間に作ったが、その赤はどうやらクリスマスにはホグワーツから帰ってくるカザリのものだったらしい。表面を軽く撫でると毛糸に織り込まれた銀色の細い糸がきらりと光り、その部分だけが生温いミルクに浸ったようにあたたかくなる。僕の着る藍色と揃いの赤を着るカザリを想像して、ほんの少しだけ頬が緩んだ気がした。


「……クリスマスプレゼントは何が良いかって、訊いた方が良いのかな……」


両の腕をカーディガンの上からそろりと撫でながら、生温いミルクに浸った腕で黒い日記帳と羽根ペンを撫でる。おやすみなさい、と僕の字ではないそれが開いた日記帳の左端に浮かび上がってきて、僕の疑問は音も立てずに飲み込まれていった。どうやら今夜は、ここまでらしい。


「……おやすみ、カザリ」


届くはずのないキスを日記帳に落として、そっと日記帳を閉じる。今頃彼女は枕に顔をうずめ、瞼の裏の世界へと落ちているのだろう。良い夢を見られれば良いとは思うが、その反面、嫌な夢でも見て泣きながら目覚め、朝から日記帳を開き僕の名を書く羽目になれば良いとも思う。そうやって、一日の始まりを僕と過ごしてくれれば良いのに、と。


「……なんか、気持ち悪いな、僕って」


自分で考えた癖に妙な寒気がして、僕はまた両の腕をなで上げる。きらりきらりと銀の光りが駆け上るのを見ながら、随分と絆されたものだ、と息を吐き出した。
ぼすりとベッドに腰をおろし、そのまま仰向けに寝転がる。ゆっくりと円を描くように動く小さな宇宙を見つめながら、頭の中では赤いワンピースや花飾りが浮かんでは消えてを繰り返す。クリスマスプレゼントなんてもの、僕に思い付く筈がないのだ。少なくとも、時代遅れの肌にちくちく刺さるセーターや、すっかり冷えたカスタードのかかった味気のないクリスマスプディングしか与えられなかった僕には。


「……はやく、帰ってこないかな」


瞼を下ろし、悪巧みをする小鬼よりも小さな声でそっと呟く。一月以上も先のことを楽しみに生きる今の僕は、きっと孤児院にいた頃よりも気味が悪く、そして気持ちが悪い。
枕に顔を埋めて、何故だか甘い匂いがするそれに擽られたような気持ちがしたが、それでも僕は目を開けなかった。瞼の向こう側では、小さな宇宙が相も変わらずゆっくりと円を描くように部屋を回っていた。







「お、カザリ、最近はやけに可愛くしてるなあ、っで!?なん、何だよ!何で殴るんだよ!」

「馬鹿アンディ、カザリはいつも可愛いよ」

「ニック……お前は実のところ紳士だよな」


銀のデイジーを付けるためには、やはりそれ相応にきちんとした態度の髪でなくてはならない。ミネルバに髪留めを貰った次の日から、まるで目に見えない妖精が瞼に乗っているのではないかと思うくらいに重くて仕方のない瞼を頬を抓ったりトムが送ってくれたばかりの花にまみれた布団の中で手足をばたつかせてどうにか持ち上げ、いつもよりほんの少し早く起きて櫛を持つのだ。くるりと余所を向いてしまっている毛先はそれでも直らなかったが、それでも幾分か効果はあったらしい。初日に気付いてくれたミネルバがあまりに不思議そうに私の前髪を撫でたので、私はその朝の目に見えない妖精との小さな戦いを彼女に話した。それを聞くなりミネルバはそんな大した物じゃ、と恥ずかしそうに、嬉しそうに頬を染めたが、私にとって銀のデイジーは温かいミルクに落とす蜂蜜のように特別だった。


「ふふ、ふふふ、ねえねえミネルバ、可愛い?この髪留め、可愛い?」


そして、その特別は今日も目に見えない妖精と戦いどうにかしてまとめられた前髪の上で座っている。どうして無視するんだと怒るアンドリュー先輩を無視してニコラス先輩が去り際に撫でてくれた前髪に触れれば、ミネルバはティーカップをソーサーに置き、何故だか少し納得がいかないように眉を寄せていた。ミネルバのもとへは目に見えない妖精は現れないらしい。彼女は今日もぴんと背を伸ばし、皺一つ無いローブに身を包んでいた。


「可愛いわ。とってもね。でも彼が誉めたのはそっちじゃ……」

「…………違うの?」

「……可愛いわ。あなたも、その髪留めも。とってもよく似合ってる」


何かを諦めたように息を吐き、ミネルバは私の髪を撫で、それから脇に置いてあった鞄をとる。それに倣って私もテーブルの下からハシバミ色を引っ張り出し、席を立ちこちらに手を差し出すミネルバの手を取った。
コッ、コッ、と一定のリズムで床を鳴らすミネルバの後を追いかけながら、レイブンクローの一番端の目立たない席にくすんだ赤毛を横目に見る。一瞬グレーの瞳が此方を見た気がしたので口を開こうと歩みを止めたが、私の口が開くことはなかった。グレーの瞳は、素知らぬ顔で下を向いていた。


「……なあに?どうかした?」


胸の奥に苦い苦い黒い液体がぽたぽたとこぼれ落ちてきたのでたまらずミネルバの手を揺らせば、ミネルバはすぐさまそれに気付き私を振り返る。しかし、歩みは止めない。私を引っ張るように歩く彼女のいつものように綺麗にまとめ上げられた髪には、私と同じ銀色が座っていた。


「カザリ、なあに?」

「……あの、あのね、ミネルバ」


魔法史の授業へ向かうミネルバと妖精の魔法の授業へ向かう私は、大広間を出て直ぐの階段の手前で別れなくてはならない。その階段の手前でミネルバは漸く歩みを止め、コッ、と踵を鳴らして私に向き直った。顔をのぞき込んで手を包み込んでくれる彼女は、まるで母さんのようだ。
ミネルバの大きな瞳は、ふさふさと長い睫に縁取られている。ピクシー妖精ならその長くて立派な睫をペンに出来そうだ、なんて思いながら、私はミネルバの手をそっと握りかえした。彼女の白くて細くて綺麗なその手は、ほんの少しだけ冷たい。


「ううん、ううん、何でもないの。ただ、少し眠たくて」

「……カザリ、もう少しゆっくり寝たって構わないのよ。その髪留めは、ゆっくり寝たあなたの暴れん坊な前髪を大人しくするためにあるの」

「嫌よ、嫌。私、この髪留めを付けるならきちんとしたいんだもの」

「あら、それにしたってあなたの髪は尻尾みたいよ?」


ほら。そう言って、ミネルバは私の背中でくるりと跳ねるダークブラウンを捕まえて、綺麗な瞳を細める。それが妙に可笑しくて思わず口元を押さえれば、ミネルバは一瞬顔をくしゃくしゃにして、それからぷっと一度噴き出した。


「ああ、もう、駄目ね。朝から遅刻しちゃうわ」

「もう、もう、ミネルバが悪いのよ、ミネルバが意地悪なことを言うからっ」

「そうね、私が悪かったわね、ええ、ええ」


ふ、とミネルバがまた笑って、私の髪から手を離す。それからローブのポケットに手をいれ、ミネルバは懐中時計を取り出した。きらきらと光りながら重たげに揺れる鎖が素敵で、私はついそれに見入ってしまう。ミネルバの見開かれた目にも気付かぬほどに。


「……カザリ!大変!私もう行かなくちゃ!」

「え?」

「ああ!ゆっくりし過ぎたわ!あと五分しかないなんて!私ったらどうしてもっと早く時間を確かめなかったのかしら!」

「え、え?」


ぱたんと懐中時計の蓋を閉め、ミネルバにしては珍しくそれを無造作にポケットに突っ込んだ。ちゃりん、と懐中時計の鎖がポケットに吸い込まれた所で、私は漸くミネルバの言葉を頭に入れる。階段を二つ上って廊下の角を三つ曲がらなくてはならない彼女は、どうやら急いで走らないと間に合わないようだ。
鞄を抱え直し、ミネルバがローブの皺を伸ばすようにローブを叩く。初めから皺なんてないそれはすぐさまミネルバのようにしゃんと背筋を伸ばし、ふわりと波打った。ミネルバの顔は、険しかった。


「じゃあカザリ、お昼にね!」

「あ、うん、あの、気を付けてねっ」

「ええありがとう!気を付けて走るわ!」


気を付けて走るとは、転ばないようにか、それとも監督生や先生に会って廊下を走ってはいけないと減点されないようにか、どちらなのだろう。普段のミネルバからは想像も出来ない早さで目の前の階段を駆け上っていった彼女の背中を見送って、私も行かなければと一つ向こうの階段へと急ぐ。
その瞬間、ふわりとアールグレイの匂いが通り過ぎて、私は匂いのもとを目で辿る。くすんだ赤毛が私を追い越して、階段を上っていくところだった。


「あ、……」


開いた唇から、呼び止める言葉は出ない。授業に遅れてしまうから、なんて理由ではなく、何と呼び止めれば良いか分からなかったからだ。
そ、と足元に視線を落とし、ハシバミ色を抱え直して下唇を噛む。少しだけ早いリズムで階段を上っていく足音を聞いて、顔を上げた。くすんだ赤毛は、曲がり角に吸い込まれて消えた。


「……早く、クリスマスにならないかな……」


そうしたら、こんなに苦しくなることもないのに。
ぽたりぽたりと黒い液体が胸に落ちてくる音が聞こえた気がして、ローブの端を払う。いつの間にか現れていたくすくす妖精のせいで、私は曲がり角の先でハシバミ色を持って立ち止まり、ほんの少しの間だけ待っていたくすんだ赤毛に、メイフィールドに気付けなかった。







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