34






「ああ!大変!私ってば寮にレポートを置いてきたわ!」


ごとん!と大きな音を立てて廊下に転がり落ちた革張りのトランクの持ち主は、この世の終わりとばかりに顔を真っ青にさせ口元を押さえるミネルバだった。
レポートとは何のレポートだろう。クリスマス休暇に与えられたレポートは天文学と魔法史の二つっきりだったし、その二つっきりのレポートでさえミネルバはもうやり終えていたはずだ。大広間で夕食をとる私の隣で先に食べ終えてしまったミネルバが羊皮紙を広げてレポートをチェックしていたのを昨日見たのだから間違いない。だから、例え忘れて置いてきても何の問題もないはずだ。レポートはとうに仕上がっているのだから、持って帰る必要がない。少なくとも、私と違って。


「ああ、嫌だわ、何て事!ごめんなさいカザリ、私一度戻るから此処で待っててちょうだい。すぐに戻るから!」

「う、うん、うん、分かった」

「ごめんなさい、本当にごめんなさい!」


もしかすると、あのチェックは一回目のチェックで、彼女は何度かチェックをしなきゃいけない決まりがあるのかもしれない。そんなことを考えながら、ミネルバは転がったトランクを廊下の端に寄せ、スカートをはためかせ走っていった。汽車で帰るだけだからと制服を着ていないミネルバが、廊下を曲がる際にテールグリーンのスカートを鬱陶しそうにたくしあげていたのは、気のせいだろうか。


「……素敵な色のスカート……」


いつもなら決して廊下を走ったり、ましてやスカートをたくしあげたりしない彼女を見送って、私はトランクを引きずって廊下の壁にもたれ掛かる。きっとクリスマス休暇だから、ミネルバも気分が高揚しているのだ。私が、そうなのだから。


「……喜んでくれると、喜んでくれると良いな」


ブラウンのトランクの中に眠るトムへのプレゼントをトランク越しに撫で、私は天井を見上げる。さわさわと何かが伸びる音がして目を凝らせば、緑色の蔓がおりてくるところだった。
頭の上までおりてきたそれに手をのばし、つまみあげてみる。見覚えはあったがそれの名前は思い出せず、喉の奥で引っかかってしまった。


「おっ、カザリ!」

「あ、アンドリュー先輩、ニコラス先輩っ」


どんな名前だっただろうかとそれをつまみながら見上げていれば聞き慣れた声が私の名前を呼んだので、私はそちらに視線を向ける。そして、思わず目を丸くした。ぐるぐるとカナリアイエローのマフラーを巻き付けたアンドリュー先輩の手にトランクは無く、その代わりに箒が握られている。アンドリュー先輩の一歩後ろを歩き私に軽く手を振るニコラス先輩なんて、何も持ってすらいない。


「アンドリュー先輩、荷物、荷物はどうしたんですか?箒で、箒で帰るんですか?」

「ん?ふはっ!違う違う!箒で帰ったら家に着くまでに凍っちまうって!」

「可愛いこと言うなあ、カザリは……。俺達ホグワーツに残るんだ、どうせ家帰ってもやることないし」

「クリスマスも良いけど、クィディッチの練習する方が楽しいしな!」

「お前はな」


にい、と笑って箒を見せるアンドリュー先輩と呆れたようにマフラーに顔を埋めるニコラス先輩に、私は漸く納得して、こっくりと頷いてみせる。クリスマスに特別喜んでいない二人が途端に大人に見えて、ほう、と息をはいた。私も、クリスマスなんて何ともない、と思う日がくるのだろうか。


「気をつけて帰れよ、って汽車だから気をつけようがねえけど……あ、っと、」


いつまでたってもクリスマスが待ち遠しい自分しか思い浮かべることが出来ずにいれば、アンドリュー先輩が箒を左手に持ち替えながら私の頭に手を伸ばしかけ、ぴたりと動きを止める。顔を上げると先程の緑色の蔓がそこにいて、アンドリュー先輩はそれを指でつつき、それから私を見下ろした。グレーの瞳が、す、といたずらに細められる。


「じゃあ、良いクリスマスを、カザリ」

「え、わ、」


ぐ、とアンドリュー先輩の顔が近付いて、大きな手が私の前髪をかきあげた。そしてアンドリュー先輩はそのまま私の額に唇を押し付けて、頭を撫でて軽快な足取りで廊下をかけていった。
わけも分からずニコラス先輩を見れば、ニコラス先輩は何事も無かったかのように私に一歩歩み寄り、ぽん、と私の頭を撫でる。私と同じダークブラウンの髪と瞳が、あ、と声をあげるより早く目の前に迫ってきた。甘いキャンディの匂いが、鼻をくすぐる。


「じゃ、またな。風邪には気をつけろよ」


今度は頬に唇を押し付けられ、私はまたもわけが分からずニコラス先輩を見るが、彼はやはり何事も無かったかのように私に軽く手を振り、ゆっくりとした動きでアンドリュー先輩を追いかけていった。気怠そうに廊下を歩いていくニコラス先輩の靴の裏をぼんやりと眺めながら、私は額と頬を撫でてみる。何か、ついていたのだろうか。
ぱちぱちと額と頬を叩いて確かめていれば、遠くから足音が聞こえてきたので、私はそちらを振り返る。残念ながらその足音はミネルバではなかったが、見知った三色が私を見つけてその中の赤毛とストロベリーブロンドが手をあげたので、私は頬を叩いていた手をそろそろとあげた。藍色は、プルシャンブルーのマフラーに顔を埋めて私を見ていた。


「よう!何してんだよそんな所で!汽車に乗り遅れるぞ?」

「あ、ミネルバが、ミネルバが忘れ物を取りに行ったの」

「そうなんだ。寒いのに大変だね。僕のマフラー貸そうか?」

「ううん、平気、平気。二つもマフラーを巻いたら、息が出来なくなっちゃう」


トランクを置いてマフラーをとろうとしたストロベリーブロンド、イアンの手を止めて、私は首を振る。そう?残念、と笑いながらイアンはマフラーを巻き直しトランクを持ち上げようとしたが、後ろに立つ藍色、ヒュー・ガーランドの言葉に、彼の手は止まった。


「宿り木だ」

「あ、ほんとだ!宿り木!」


ジャックが私の頭の上を指差して、イアンがちらりと視線をあげる。そうか、これは宿り木だ、と喉の奥に引っかかっていたものが溶けるのを感じて、私は真上の緑を見上げた。


「わあ、良いの?」

「え?」


すう、と小さな悩みひとつ分胸が軽くなったその時、イアンがほんの少しだけ弾んだ声でそう訊ねる。何がだろう、と思い楽しそうに半月を描くイアンの口元をぼんやりと見ていればイアンはますます楽しそうに笑って、私の頬を両手で包み込んだ。ひやりとつめたいイアンの指先が、耳にあたる。それから、イアンの唇が、鼻先にあたった。
視界の端にいたジャックが、顔を真っ赤にして口を大きくあけている。目を丸くしてイアンを見上げれば、彼は首を傾げて笑っていた。


「うーん、恋人なら口にするんだけど、ごめんね」

「え、う、ううん、」

「じゃあそろそろ行かなくちゃ。ジャックとヒューは?良いの?」

「は、え、お前、お前、何してるんだよ!急に!お前!イアン!お前!」

「……なに?ジャック、どうしたの?」


何がごめんねなんだろう。今度は私の鼻に何かがついていたのだろうか。聞きたいことはあったが、何故だか楽しそうなイアンにそれを訊いてはいけない気がして、私は頭の中でくるくると星が弾けるのを感じながら頷くことしか出来なかった。そして、分かっていないのはジャックも同じらしい。彼は恥ずかしさからか見る見るうちに瞳に涙をため、トランクを持ち直して此方に背を向けた。そしてイアンがそれを引き留めるよりも早く、ジャックは弾かれるように駆け出した。


「うわああああっ!」

「ちょ、え、ジャック……!ご、ごめんヴィッセル……、また汽車で……!」

「う、うん、うん」

「うん、じゃあ後でね。ヒュー、行くよ!」


ぽかんと口を開けるしか出来ない私にイアンは手を振って、慌てたようにトランクを持ち上げ、すっかり小さくなってしまったジャックの背中を追いかける。すらりと背が高く細身の彼は、トランクには何も入っていないかのように風のように走り去ってしまった。
こつん。靴の踵が、石の廊下を踏みならす。は、と振り返るとそこにはマフラーに顔を埋めて相も変わらず私を見つめる藍色の瞳がそこにあって、私はとっさに息を止めた。
黒いコートから覗く白い手が、私めがけて伸びてくる。びくりと跳ねた腕は鼻を隠そうと口元まで上がったが、鼻を隠すことは出来なかった。


「………………」

「っ、う、」


チョコレートの匂いが鼻を撫でて、それから何も匂わなくなる。つん、と彼の冷たい指先が、私の鼻をつまんでいた。


「……じゃ」


あとほんの少しでも彼が私に触れていたら、きっと私は泣いてしまっていただろう。じわりと鼻の奥が熱くなったその瞬間に彼は私から手を離し、何かを考えるように口を開き、たった一言だけ吐き出して後ずさった。トランクを片手に歩き出そうとした彼は一度私を振り返ったが、結局彼は何も言わずに早足でイアンを追いかけていった。
遠ざかる藍色から目をそらし、マフラーに顔を埋める。胸のあたりに、くすくす妖精が何度も針をさしてくる。つん、と鼻の奥が痛んだ。


「あれ、カザリ……?」

「……さ、サミュエルっ……」


思わずその場にしゃがみ込みそうになったその瞬間、ふわりとアールグレイの匂いが私の名を呼んで、私は顔を上げる。アイボリーのトランクを持ち小さく笑いながら私に歩み寄ってくるサミュエルはとてもあたたかそうなコートを着ていて、それを見たくすくす妖精は飛び去ってしまった。まるで毛布をそのままコートにしたかのようなそれを見てしまえば、手に持つ針が胸に届かないことは直ぐに分かる。


「どうしたの?マクゴナガルは?」

「れ、レポート、レポートを取りに戻ったの」

「え?でも、昨日終わらせてなかった?」

「うん、終わらせてた、終わらせてたよ」


不思議そうに目を丸くするサミュエルにそう言ってみせれば、だよね、と肩をすくめてくしゃりと笑う。それにつられて私も肩をすくめて笑えば、サミュエルは私の隣に立ち、トランクを壁に寄せた。
くすんだ赤毛が寒そうに震えたので、隣に一歩体を寄せる。ふわふわとしたアイボリーの生地が手の甲をかすめ、サミュエルはひと呼吸分だけ目を丸くしたが、すぐにまたくしゃりと笑った。


「終わったレポートを持って帰ってどうするんだろうね?」

「多分、多分ね、あと二回くらい見直すんじゃないかな」

「うーん、それはどうだろう。僕はあと五回は見直すと思うよ」

「五回、五回?ふふっ、きっと休暇があけたらとっても長いレポートになってる」

「うん、そうだね、僕たちの三倍くらい長いレポートになってそうだ」


口元を隠しながら笑えば、サミュエルがわざとらしくしぃっと口に人差し指を当てて辺りを見回す。それがおかしくてまた笑えばサミュエルもとうとう笑い出して、二人並んで肩を揺らした。
ふう、とひとしきり笑って目尻の涙をふけば、サミュエルも同じように目尻に指を這わせ、私を振り返る。あ、と何かを思い出したのだろう、サミュエルは一瞬口を開いて私に向き直ったが、彼の口からこぼれたのは気の抜けた息遣いだけだった。ゆらゆらと、吐き出された息が白く染まって消えた。


「……サミュエル?」


私の目より少し上、頭の上を見つめたサミュエルの白い頬が、ゆっくりと時間をかけてオペラ色に染まっていく。どうかしたのだろうかと彼のグレーの瞳を見つめるが、彼はオペラ色をますます濃くして白い息を吐き出すだけだった。
三度目の白い息が消え去ったのを見送って、私はふと視線をずらす。遠くからかつかつと固い靴底が廊下を叩く音が聞こえてきたのだ。ミネルバだろうか、と背伸びをしてサミュエルの肩の向こう側を覗くが、そこにテールグリーンは無く、代わりにいたのは黒い革張りのトランクを持つアルヴィ先輩だった。


「ああ、カザリじゃないか」

「アルヴィ先輩、アルヴィ先輩は帰るんですか?」

「勿論。これでも付き合いが多い方だからね、クリスマスシーズンはパーティーばかりさ」

「パーティー……パーティーですか……」


まるでサミュエルなんて視界に入っていないかのようにアルヴィ先輩は真っ直ぐ私の前まで進んできて、当たり前のように私の髪をひとふさ手にとる。アンドリュー先輩やニコラス先輩がいないからだろうし、そしてミネルバもいないからだろう。アルヴィ先輩はそのまま私の髪に指を絡め、腰をおって髪に唇を寄せた。いつもならここでアンドリュー先輩が怒鳴るか、ニコラス先輩が頭を叩くか、ミネルバが私を引っ張るのうちのどれかなのだけれど、今日はそのどれでもなく、私の髪はアルヴィ先輩に捕まってしまったのだった。サミュエルの肩が、視界の端っこでびくりと揺れた。


「カザリも来るかい?帰りの汽車で招待状を書いておくよ」

「えっと、あの、私、私、……あの、招待状より、クリスマスカードの方がとっても、とっても嬉しいです」

「……そう言うと思ってたさ、うん」


私の髪から指をするりと引き抜いて、アルヴィ先輩は肩を竦めてみせる。アルヴィ先輩が言うパーティーは、おとぎ話に出てくるような光の粒が集められた素敵なパーティーなのだろう。魔法のかかったドレスローブに身を包んで踊るような、そんなパーティーなのだろう。それなら私は、小さなクリスマスカードを貰った方がずっと幸せに決まっている。何せ私はそんなドレスローブも持ってはいないし、踊ることだって出来ないのだから。


「それなら夏休みあたりにでもまた……おっと、」


ぴんと背筋を直し、シャツの襟を正したアルヴィ先輩が、何かに気付いたように言葉を止める。アルヴィ先輩の視線は、今日何度目か分からない私の頭の上に向いていた。
遠くから、廊下を駆ける足音が聞こえてくる。


「これは失礼、僕としたことがこれを見逃すなんて」

「見逃す……?」

「ごめんね、カザリ。でも大丈夫だ、ちゃんと気付いたから」

「え、エインズワース先輩っ……!」


タタタ、と近付いてくる足音と同時にアルヴィ先輩がまた腰をおり、サミュエルが困ったように彼の名を呼んだので、私は二人を交互に見るが、何が何だか全く分からない。前を見ればアルヴィ先輩が真っ直ぐ私を見つめていて、思わず息を止めて彼の首元を見る。きちんと上まで留められたシャツのボタンが、きらきらと光っていた。


「ちょっと!何してるんですかっ!?」

「ぐっ、」

「あ、み、ミネルバ」

「マクゴナガル……!良かった……!」


そんなことを考えていればぐらりとボタンが揺れて、アルヴィ先輩はふらふらと横に数歩よろめき、私の目の前から消えてしまった。どうやら足音の持ち主はミネルバだったらしく、彼女はレポートを右手に、そしてきつく握られた拳が左手にあった。膝丈のテールグリーンが、ゆらゆら揺れている。


「カザリ、あなたどうして、ああ……!もう!駄目じゃないこんな所にいちゃ……!」

「ミネルバ、ミネルバ、遅かったのね」

「ああ、そう、そうなのよ、私ってば部屋の鍵も忘れてて鍵を探してたらすっかり……、違う、そうじゃない、カザリ、あなた分かってるの!?」


ミネルバの左手が開かれ、手のひらの上に青いリボンのついた銀の鍵が顔をのぞかせるが、彼女はそれを乱暴にスカートのポケットにしまいこみ、私の肩を引っ張る。つん、と右のつま先で左の踵を蹴ってしまいミネルバの方に倒れ込んでしまったが、彼女はそうなることを知っていたかのように私を胸に抱き迎え、左手だけで私をぎゅうっと抱き締める。ミネルバのなめらかな頬が、私の頬を撫でた。


「み、ミネルバ?ミネルバ、どうしたの?」

「どうしたのって、カザリ、宿り木の下に立つなんてっ……」

「え、え?宿り木?……え?」


ミネルバの左手の力が緩まったのを感じ、私はそっと顔を上げて宿り木を振り返る。その直ぐそばに立ち私達を見ていたサミュエルとアルヴィ先輩は互いに目配せをし、サミュエルはオペラ色の頬を隠すように俯き、アルヴィ先輩は何故か腰のあたりを撫でながら宿り木を指さし困ったように笑った。


「なるほど、知らなかったのか……。それは残念」

「……カザリ、あなた、嘘、……そうね、そうよね、知らないわよね、私が悪かったわ……」

「な、なに?なに?どうしたの?」

「はあ……あのね、カザリ、もう宿り木の下には立ってはいけない。絶対によ」


ミネルバが私の髪を撫で、心底疲れたとでも言うように大きなため息を吐き出す。白くなったそれは私の鼻先をかすめて瞬きをする間に消えてしまい、私はまた瞬きをして困ったように下がるミネルバの眉を見上げた。


「あのね、カザリ、宿り木の下に立つってことは、キスして下さいって言ってるようなものなのよ」

「それから、キスしてもらえなかった女の子は幸せになれないって言われてるんだ」

「……そ、そうなの?そうだったの?」


頬や額や鼻先に触れた唇を思い出しながら、私は漸く理解する。そうか、あれは全部私に幸せがくるようにとしてくれたものだったのか。
真面目な顔をしたミネルバが、私の額を指でつく。もうこんなことはするな、と怒られている気がして額を押さえながら俯けば、ミネルバはまたため息を吐いて私の背中を撫でた。
サミュエルを振り返れば、彼は黙って足下を見つめている。汚れひとつない彼のつま先は、今にもこの場から逃げ出しそうな程落ち着きなくぱたぱたと上下に揺れていた。もしかすると、彼も私を幸せにしてくれようとしていたのだろうか。


「もうこんなことはしないでね、カザリ……」

「う、うん、うん。あの、あのねミネルバ、でもね、私、平気よ。みんながちゃんとキスしてくれたから、幸せになれるわ」

「違うの、幸せになれるとかなれないとかそんな、……待って、あなた、今何て言った……?」

「え、え、みんなが、みんながキスしてくれたから、」

「あああっ……!何てこと!どこ!?どこにされたの!?」

「う、わ、」


幸せがくるから問題はないと伝えたかったのだけれど、どうやらそれはミネルバにとっては幸せなものではなかったようだ。慌てたようにミネルバは私の頬に手を当て、ミネルバのレポートが廊下に落ちる。あれだけテールグリーンを煩わしそうにしながら廊下を駆けて取りに戻ったはずの大切なレポートが、何の価値もないとでも言うようにミネルバの足下で黙っている。アルヴィ先輩が無言でそれを拾い上げていたが、ミネルバは振り返ることすらしなかった。


「どこ!?どこなの!?誰がしたの!?もう、もう、信じられないっ……!」

「あの、ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ミネルバ……」

「謝らないで!謝るべきなのはあなたにキスした奴よ!」


ここ?それともここ?ここもなの?
ミネルバはそう言いながら私の頬や鼻、額を指でなぞり、眉間に深いしわを作り出す。今ならそこに羽根ペンを挟めるんじゃないだろうかと思ったが、あまりにもミネルバが真剣な顔をして私に触れるので、私は今度は何も言わず、ミネルバの眉間のしわがなくなるようにとずっとそこを見つめていた。


「……君がカザリを大切にしてるのは分かったから、そろそろこのやけに長いレポートを持って汽車に向かわないかい?」


アルヴィ先輩の言葉に、ミネルバの眉間がひくりと動く。私はやはり何も言わずに黙りを決め込んで、早くミネルバの眉間がなだらかになるのを願うことしか出来なかったのだった。せめて、汽車をおりる頃にはそうなっていますように、と。







←前 次→

top