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「何かとても大事なことを忘れている気がするんだ……」


クリスマスの前から珍しく降り続いていたおかげで玄関の前に降り積もった雪を退かしにトムが出ていったから、苦い苦い珈琲の匂いが真っ直ぐ私に向かってくる。それから逃げるように天井の隅を見上げながら父さんから離れ、ソファーの上でミネルバがクリスマスに贈ってくれた櫛で髪をときはじめれば、父さんは珈琲のたっぷり入ったカップを片手に何故だかとても傷付いたような顔をして両手を広げて見せた。トムを手伝おうといそいそと手袋をはめる母さんが、ふ、と口許を覆って笑う。


「あら、なあに?何を忘れているの?まさか仕事だなんて言わないでよね」

「いや……それも不安はあるけるど、そうだな、それより大事な何か……うーん」


ミネルバが贈ってくれた櫛は、私にぴったりの素敵な魔法がかけられている。ダークブラウンにそれをするりと滑らせるとたちまち彼方此方に向いていた髪は捕まえてきたばかりの妖精のように大人しくなり、すとんと真っ直ぐ下に伸びる。それでも前髪はほんの少しだけよそを向いていたけれど、トムが毎朝誉めながらアルヴィ先輩からの贈り物のリボンやアンドリュー先輩からの贈り物である花の髪飾りをつけてくれたので、私はここ数日毎朝欠かさず櫛を握ってダークブラウンを撫でていた。


「何だったろう、ああ、困った、思い出せないぞ」


今日は何をつけよう。ジャックが贈ってくれたチョコレートボンボンを食べながら二階で考えようか。それならイアンが贈ってくれたキャラメルの甘い甘い匂いがする紅茶もいれて持って上がろう。ニコラス先輩がくれたお菓子の詰め合わせもベッドの下に隠していたはずだ。
するり。ダークブラウンの髪を撫で終えて、もくもくと私を追いかけてくる珈琲の匂いから逃げるようにソファーから立ち上がる。二階に上がる前にトムを手伝って、雪かきを終えてしまおうと考えた。


「あああっ!何てことだ!」


泥が混ざった雪を退けた後は、サミュエルから貰った匂いの変わる石鹸の泡をたっぷり使って手を洗わないと。薄いコーラルの泡の中に手を入れるところまで想像したところで、父さんの珈琲がぱちゃんと弾けて、私の泡もぱちんと弾けて消えた。
父さんを振り返ると、父さんは勢いよくカップをテーブルに置きながら立ち上がり、私と母さんを交互に見つめる。私と同じ色をした目が、ドラゴンの口のように大きく見開かれていた。


「まずい!まずい!まずいぞ!」

「なあに、やめてよ、明日で十二月も終わるのに騒々しい」

「そうだよ!明日!明日なんだよハツ!」


おろおろばたばたと父さんは部屋を歩き回り、母さんが困ったように父さんを見る。父さんの白い肌はだんだんと真っ赤になって、それから白くなって、青くなった。父さんの肘には、珈琲の染みが二つもついていた。


「明日!明日はトムの誕生日だ!」


ばん!と父さんが焦ったようにテーブルを叩き、珈琲の入ったカップが揺れる。三つになった染みに母さんが悲鳴を上げそうになったけれど、父さんの口から飛び出した言葉は真っ白いシャツを珈琲で洗うよりも大変なことだった。





「……カザリ?」


廊下のきんと冷えた空気に、耳がじんじん痛む。廊下の突き当たり、階段のすぐそばの窓の外は真っ暗なのに、窓のふちに積もる雪はぼんやりと光って見えた。
こん、と一度だけ小さくカザリの部屋のドアをノックして、僕は息をひそめる。いつもならホットミルクをのみ終えたカザリが、僕が分厚い本の一章分を読み終える頃には僕の部屋に潜り込んできていたはずなのに、今日は何故だか姿を見せない。それどころか今朝雪かきを終えて家に入るなりカザリはハツと慌てて出掛けて行ったし、ダンはダンで妙に笑顔で昼食にサンドイッチを作り、夕食にはコテージパイを焼いた。二人きりのティータイムにはハツの作りおきのミンスパイにアップルダッピーまで付いてきたのだから、おかしなものだ。四人揃ってのティータイムならまだしも、二人きりのティータイムにダンがわざわざレースのついたエプロンを身に付ける理由が、僕にはわからない。


「…………寝て、は、ない、ね」


それから、僕が早めの夕飯を終えて漸く帰って来たカザリが、僕を避けるように二階にかけ上がっていった理由も、わからない。
一度だけ下でホットミルクを飲みながらハツと話しているカザリを見たものの、カザリは僕に気付くなりぱたぱたと二階にまた上がっていって、それきり部屋から出てこない。時折僕とカザリの部屋を隔てる壁に耳をくっつけてみたけれど、妙な鼻唄と物音がするだけで、何をしているのかはさっぱりわからずにいた。それから随分と時間が経って、もう夜も遅いから寝てしまったのだろうか、僕の部屋にも来ずに、寝てしまったのだろうか、とそんなことを思って廊下に出てきてみたが、ドアの向こうからはまだ物音がする。それから、妙な鼻唄も。


「…………ねえ、カザリ」


目の前を黒いどろどろしたものが過って、首を振ってからもう一度ドアをノックする。ドアに飾られた僕の歪な宿り木のリースが僕を見下ろすけれど、部屋の中から返事はない。どろどろが、胸に入り込んでくる気がした。


「ねえ、カザリ、入っても良い?」


こん、とまたドアをノックして、問いかけてみる。一瞬だけ物音が消えて、きんと耳が痛んだけれど、それはやはり一瞬のことだった。
僕は何かしてしまっただろうか。もしかすると、カザリが毎朝嬉しそうに僕に選ばせてくれる髪止めやリボンを、本当は気に食わないと思っていたのが知られてしまったのかもしれない。いや、それとも、他にもなにか。


「あ、」


ぐるぐるとそんなことを考えていれば、一回にある時計がボーン、と少しだけ間抜けな音をたて、家中に日付が変わったことを報せる。途端に無性に虚しくなってきて、僕は懲りずにドアをノックしようとしていた右手をおろし、カーディガンのポケットにその手を突っ込んだ。
いつもなら、ベッドの上で丸くなって眠りについている頃なのに。隣で眠るカザリの寝返りの音を聞きながら、眠りについている頃なのに。どうして僕は廊下で、立ち尽くしているのだろう。


「…………ねえ、なんで、」


どうして僕を、放っておくの。
あの薄暗い孤児院の部屋で一人きりでいた頃を思い出したのと、十二回目の間抜けな音が鳴り響いたのと、目の前の宿り木のリースが跳ねるように床に落ちたのは同時のことだった。


「トム!お誕生日!おめでとうっ!」


突然開いたドアに僕が驚いて目を見開いた瞬間に、クロムイエローとミルキーホワイトの粒が降ってくる。瞬きをする間にそれは小さな花に変わって、花の向こうでカザリが大きな包みを抱えて立っていた。
ふらつくように一歩後ずされば、目を細めて嬉しそうに笑うカザリがぴょんと跳ねて僕との距離をつめ、すぐ目の前に顔を近付けてくる。サミュエルだとかいうホグワーツの友人から贈られてきた石鹸の匂いを漂わせるカザリはじっと僕の目を見つめて、大きな包みを差し出してきた。


「え、あ、え?」

「開けて開けてっ、母さんとたくさん悩んで選んだの、たくさん悩んだのよっ」

「あ、うん、いや、え……?」

「ああ、でも、ねえ、トム、下に行けばもっと素敵なことがあるのっ、もっと素敵なことがたっくさん!」


すぐ目の前で、僕があげたピアスが光る。カザリは包みを抱いた僕の手をぐいぐい引っ張って、花を踏み潰すのも気にしないで廊下を進み、階段を下りていく。カザリの部屋からぷかぷかと花が逃げ出していたが、今の僕にそれを戻してやる余裕はない。
明かりがついたダイニングにカザリが僕を引っ張りこんで、僕は途端に舌の上で転がしたくなるような甘い匂いに包まれる。ダイニングのテーブルの上には大きなチョコレートプディングとホットミルク、ブラックティーが待ち構えていて、思わず後ろを振り返る。ダイニングの入り口に目を凝らせば、透明の膜がゆらゆらと揺れている。どうやら魔法で匂いを遮っていたらしい。


「おお、主役の登場だ!」

「さあさあ、こっちに座って、王子様。今日は夜更かしが許される数少ない特別な日よ」


ダイニングのテーブルを囲う椅子に、一つだけ見たことのないクッションがおかれている。まさかと思っていればカザリがまたぐいぐいと僕を引っ張って、やはりその椅子に僕を座らせ、カザリはそのすぐ隣に椅子を引っ張ってきてそこに座った。
テーブルの下に、リボンのかかった箱や細長い包み、丸い大きな箱が並んでいる。椅子に座って僕を見つめているであろうカザリを見ることが出来なくて、僕はカザリに渡された包みを抱き締めたまま、黙っていた。


「さて、何から開けてもらおうかしら。その前にプディングはいかが?」

「ブラックティーに砂糖はどうかな?ああでも、プディングは甘いし、砂糖はいらないかもね」

「あら、トムはいつも砂糖無しよ。あなたと違ってね」

「……ハツ、なんだか棘がないかい?僕がアップルダッピーに砂糖を入れすぎたこと、まだ怒ってるのか?」


口を開けば、ぽろぽろと、言葉の代わりに涙が出そうだ。
ぎゅっと包みを抱き締めていれば、そろそろと視界の端から手が伸びてくる。ラベンダー色のカーディガンに身を包んだカザリがそうっと僕の手を撫でながら顔を覗きこんできて、僕はカザリのダークブラウンの瞳を見つめ返す。長い睫毛が薄く影をつくり、カザリは笑った。


「トム、今日はとっても、とっても素敵な日ね」

「………………」

「今日は、今日はトムが生まれた、とってもとっても、素敵な日だわ」


僕が贈ったピアスをつけて、カザリが言う。たちまち胸に甘ったるい何かが込み上げてきて、無性にカザリの肩に顔を埋めたくなったけれど、僕はどうにかそれをこらえ、カザリの手を握り返した。
ゆらりと湯気がのぼるブラックティーと、少しだけいつもより大きく切り分けられたチョコレートプディングが目の前に置かれて、プディングには温かいベリーソースがかけられる。きらきらと光るそれがやけに眩しく感じたのは、自分が生まれた日を初めて心から祝ってくれる人がいるからだろう。隣でカザリが嬉しそうにプディングを見つめて、ほう、と息を吐く。カザリが一番、眩しかった。


「……あの、みんな、」


そろそろと、口を開く。涙はどうにか引っ込んだけれど、声がほんの少しだけ震える。きっと外がとても寒いからだと言い訳をして、僕はカザリの指に自分の指を絡めた。


「ありがとう、僕、すごく、」


嬉しい、と言うつもりが、言えなかった。ダンとカザリに、ぎゅうぎゅうと抱き締められていたから。
ワインでも飲んだのだろうか。ダンの熱い手が僕の背中を力強くたたき、カザリの細い腕が僕のお腹にまわされる。何が起こったのかとダンの胸に顔を押し付けられながら目を白黒させていれば、何故だかダンは鼻をすすっていた。何故、泣いているのだろう。


「ありがとうだなんて!トム!君の誕生日なんだ!お礼なんて!なんて良い子なんだ!」

「く、苦しい、やめて、離して、」

「そんなこと言わずに!」


ダンはどうやら涙脆すぎる人らしい。そういえばカザリがホグワーツ特急に乗る時も、降りてくる時も泣いていた気がする。真っ赤になったダンの顔を思い出しながら、僕はお腹にまわったカザリの手にふれる。頬に触れるものは、カザリの前髪だろうか。ふわりと擽るそれが擽ったくて身を捩れば、カザリがそっと僕の耳に近付いて、すぐそばでくすくすと嬉しそうに笑った。
甘ったるくて重い何かが、込み上げてくる。ダンが僕達を覆うように抱き締めているせいで視界は真っ暗なのに、目の前がカザリのラベンダー色で満たされている気がした。


「生まれてきてくれて、ありがとう、トム」


頬に触れたものに覚えがありすぎて、僕は顔が火をふいたように熱くなるのを感じた。漸くダンの腕から解放されてもその熱は消えてくれず、目を細めて笑うカザリから目をそらし、ダージリンの香りのするティーカップを見つめることしか出来ないのだった。


「カザリは、卑怯だ……」

「え、え?なあに?」

「…………何でもないよ。ほら、プディング、食べよう」


薄暗いあの孤児院は、今頃真っ白い雪に囲まれて静まり返っているだろう。そして僕が使っていたあの部屋には僕の知らない誰かがいて、窓の外を眺めている。けれど、その誰かは思いもしない。その薄暗くて冷たい部屋に閉じ込められていた僕が、一度だって誕生日を祝ってもらえなかった僕が、今こうして甘く柔らかなものに満たされていることを。
プディングをほうばるカザリを横目に、腹のあたりを撫でる。幸福で満たされる感覚を確かめて、僕もプディングをほうばった。隣で笑うカザリにつられて、僕の頬も溶けるように緩んでいく。
外には梟が羽ばたく音すらない、静かに煌めく夜だった。




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