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ころころと転がってベッドの下に潜り込んでしまった丸い石鹸についた細かいほこりを、ふう、と息で吹き払う。レモングラスの香りがするそれをひとつと、イランイランとゼラニウムの香りがするそれをふたつ、サミュエルが石鹸と一緒に贈ってくれた白くてくったりと滑らかな布の袋にしまって、お気に入りのラベンダーのカーディガンの間に挟むようにトランクにしまった。
「カザリ、靴下が床に置き去りだけど?これは僕と一緒に留守番?」
「あ、あ、待って、待って。トムは留守番だけど、それは持っていく」
「……ふうん、そう。ふうん」
私のベッドの上に座り込み、トムは膝の上に分厚い本を乗せたままつまらなそうな顔をする。ストウ・オン・ザ・ウォルドの村の外れにある魔女の小さなお店で買ったクリケットセーターは、とっぷりと深いミッドナイトブルーの色で、つまらなさそうな顔のトムを私よりもずっと年上に見せた。誕生日に私が選んだそのセーターは、私が思っていたよりもずっとトムに似合っていた。
思わずゆるんだ口元を隠しながら靴下をトランクにしまいこめば、私の視線に気付いたトムが目を丸くして、何でもない風に本に視線を落とす。それでも少しだけ大きなセーターから覗くトムの指先をじっと見つめていれば、トムは何故だかはあ、とため息を吐き、本を閉じた。
「あまり見ないでよ、僕が悪かったから……」
「え?トムが?トムが何かしたの?」
「……何かした、って、僕が拗ねたから、……いや、分からないなら良いよ。見てただけなんだったら、別に、それで、」
ああ、もう。トムは口元を手で覆い隠しながら小さく呟いて、ベッドの上に本を投げ出す。それからベッドからのそのそとおりてきて私の隣に座り込み、トランクから逃げ出すようにはみ出していた羽根ペンを荷物の隙間に器用に入れ込んだかと思えば、床に散らばっていたインク瓶やリボンやチョコレートの箱をどんどんトランクに詰め込んでいく。ぴっちり、きっちりトランクの中に並んだそれに驚いてトムを見れば、トムはすっと私から目を逸らし、あれは?と呟いた。
トムの白い指先の向こう、部屋の角のクッションの上に、星が流れる小さな箱がある。銀のリボンが巻かれたそれは、ハシバミ色の羽根ペンが挟まっていた。
「あれ、クリスマスプレゼントだよね。まだ開けてないけど、どうかしたの?」
「……クリスマス、プレゼント、だと思うんだけど、思うんだけど、」
「……なに?」
「ううん、あの、ミネルバと、ミネルバと開けようと思って」
「……そう。じゃあ、トランクに入れとこうか?」
四つん這いになってそれを手に取ったトムに慌てて首を振り、私は小さな箱をトムの手から抜き取る。と、と羽根ペンが滑り落ちて床にペン先が当たったけれど、ペン先が潰れたんじゃないかと羽根ペンを拾おうとしたトムの手を制して、また首を振った。
トムの綺麗な形をした眉が、ぐ、と皺を寄せて近付く。
「み、ミネルバと汽車で開けるの、汽車でっ」
「……そう。じゃあコートのポケットに入れておかなきゃ」
「うん、うん、入れる。入れるね」
皺にならないようにと母さんが壁にかけてくれたコートのポケットにそれを押し込んで、目を細めて私を見てくるトムに両の手を見せつけるように前に出す。トムはまるで私が何かするんじゃないかと思っているように私の全身をじっと見つめて、たっぷり瞬き四回分見つめたところで漸く眉間の皺をなくし、ふう、と息を吐いた。
「……イースターにも、帰ってくるんだよね」
「う、うん、うん。帰ってくる、絶対帰ってくるよ」
「…………それなら良いよ、別に」
何も訊かないでおく。
ぽつりとトムはそう呟いて、ひらひらと私を手招きする。あんな風にトムに見つめられるのは、羊皮紙ふた巻き分レポートが足りていないのだとミネルバに助けを求める時のように胸のあたりがざわつくので、何も訊かずにいてくれるトムにほっと胸を撫で下ろした。
ベッドにもたれながら、トムが隣に座れと床をぽんと叩く。まだほんの少しだけざわざわとする胸をおさえながらトムの隣に座れば、ぷかぷかと浮かぶ花を払ったトムの右手がそのまま此方に伸びてきて、私の髪をかきあげた。
「……ずっとクリスマスなら良いのに」
「トム、トム、冷たい」
「そうしたらずっと、カザリは此処にいるのに」
ひやりと冷たいトムの指先が私の耳朶をつまむ。きっとトムが贈ってくれたピアスを見つめているのだ。珍しくほんの少しだけ跳ねたトムの後ろ髪に手を伸ばしてそれを撫で付ければ、トムは一瞬目を丸くして、それから頭の後ろにある私の手を捕まえた。
「ふふ、跳ねてた、跳ねてたよ。きっと寝相が悪かったのね」
「……カザリが悪いんだ、僕の枕を独り占めしたりするから」
「うん。うん、でも、明日の夜はきっとぐっすり眠れる」
「…………だから、どうして、そんな事言うのさ」
私はトムが求めていたものとは随分と違う形をした言葉を吐き出してしまったらしい。まるで私が箒の後ろにトムを乗せようとした時のようにトムは口元を歪めて、それから私の両頬を包むように手を添えてくる。真っ白に染まった丘に箒片手にトムを連れ出そうとして、夜までずっと不機嫌になってしまった昨夜のことを思い出しながらトムの前髪を見つめれば、トムの滑らかで真っ直ぐなその髪は大人しく私を見つめていた。後ろ髪のように、跳ねてはいない。
頬に触れる冷たい手が、熱いミルクにチョコレートを浮かべたようにじわりと溶けていく。私の頬と混ざるそれに手を添えれば、トムは私の目を覗きこんできた。
「……何だか、カザリが最近意地悪になった気がする」
「そう?私、私、意地悪?」
「…………うん。すごく、意地悪だ」
下唇を噛むトムは、何を考えているのだろう。そろりと私の頬から手を離し、その手はそのまま背中に回ってくる。私もトムの背中に手を回そうとしたけれど、視界の端でトムの跳ねた髪がこちらを見つめてくるものだから、私は背中に手を回さずにトムの髪を撫でた。
するすると指を滑るトムの髪は、ミネルバがくれたあの素敵な櫛なんて必要ないのだろう。いつもよりもずっと素直だけれどそれでも天井を向こうとしている自分の前髪をつまめば、耳元でトムがため息を吐き出した。
「本当に、カザリは、意地悪だ……」
もぞもぞと身動ぎして、トムは私の肩に顔を埋める。耳を撫でた声はほんの少しだけ不機嫌だったけれど、それでも少しだけ優しかったので、どうやら怒っているわけではないらしい。
天井に浮かぶ小さな花が、窓の方へと飛んでいく。そのすぐそばに掛けられたコートのポケットの中、藍色の星が流れるそれを頭の片隅で思い浮かべながら、私もトムと同じようにトムの肩に頬を擦り寄せる。トムからは新しいセーターと、昼に飲んだダージリンと、それから、小指の先程、花の甘い匂いがした。
「今日は枕を半分こね、半分こして、寝ようね」
そうしたらきっと、トムからもっと花の甘い匂いがするだろう。
肩に顔を埋めたまま、トムは私の背中をぎゅっと掴む。今彼の頭に宿り木のリースを乗せると怒るだろうから、代わりにぷかぷかと浮かぶ花をひとつつかまえて、トムの肩にそっと乗せる。トムは花を払うこともなく、窓の外が薄い灰色になるまで私を離すこともなかった。
「カザリは何にも分かってないんだ……」
トムの小さな小さな声は、私の耳に入ることなく流れ星のように消えていく。頭の片隅にあった藍色が、コートのポケットの中と、それからローブのポケットの中へ入り込んでいく。
いつか私が無くしたハシバミ色の羽根ペンをくっ付けてクリスマスに現れた星の流れる藍色は、くすくす妖精とヒュー・ガーランドから逃げた医務室で渡されたそれと同じものだった。
「母さん、待って、待って、トムが、トムが早いっ……!」
「私に言うんじゃなくて、トムに待ってって言わないと……」
「それならカザリ、父さんと行こう!ほら!父さんの右手が空いてるぞ?左手も空いてるぞー?」
「あ、と、トム、トム、待ってっ……!」
「……分かっていたけれどね…………」
マグルでごった返すキングスクロス駅の中を、コートのポケットに手を突っ込んだまま突き進んでいく。待って、とくぐもったカザリの声が聞こえて足を止めずに後ろを振り返れば、ホームに着いたばかりの汽車からおりてきたマグルの波に呑み込まれてしまいそうなカザリが見えて、慌てて足を止めて手を伸ばす。ポケットにずっと手を入れていたからか、カザリの手が少しばかり冷たく感じた。
随分と背の高い、それでいてきっと値段も高いだろうコートを着た男の後ろから、カザリが漸く出てくる。随分と揉まれたのか、頬はいつもより蒸気していて、家を出る直前まで念入りに櫛を通していた髪は嵐にあったかのように乱れていた。
「トム、早い、早いよっ……」
「……ごめん。ほら、貸して。僕が持つから」
「ううん、平気、平気よ。そんなに重くないの」
「良いから貸して、ほら」
カザリの右手にあったトランクを左手で奪って、右手はカザリの左手を握り直す。夏よりも伸びた前髪は、それでも眉より上にあって、下がりがちな眉をますます下げて、カザリは笑った。
今朝起きてからずっと胸の下あたりで燻っていた黒いものが、息をする度小さくなっていく。このまま家にいればいい、ホグワーツなんかに行かなくていい、と何度となく喉をせり上がってきた言葉も、カザリが嬉しそうに僕を見るせいで小さく丸くなって消えてしまった。
どうにも僕は、カザリには強く出られない。
「カザリ、行くよ」
「うん、」
カザリの手を引いて、バーガンディーの派手なコートに身を包んだマグルが目の前を通りすぎたところで、ホームを遮る壁に向かって歩いていく。ふ、と一瞬だけ暗くなった視界は直ぐに明るくなって、代わりに真っ黒い梟が入った籠を持つ魔女が目の前を横切っていった。ホウ、と鳴きながら僕を見る丸い瞳から目をそらして、夏よりもずっと人の少ないホームを進む。
「夏よりも少ないね」
「うん、うん、あのね、クリスマス休暇だけれど、ホグワーツに残ってる人もいるから。イースターはもっと、クリスマス休暇よりもっと短いから、もっと少ないのかな」
「……帰って来なきゃ、駄目だからね」
「ふふふっ、分かった、分かった」
紅の汽車沿いにゆっくりと歩きながら、カザリが僕のことを忘れてホグワーツに残ったりしないよう、ゆっくり、ゆっくり、言葉を紡ぐ。それが面白かったのか、それとも何かを思い出して笑っているのか、カザリは何故だか僕の頭を見つめながら空いた手で口元を隠していた。
前から四両目、汽車の中程で誰もいないコンパートメントを見付けて、近くの戸口から汽車に乗り込む。ホウ、と隣のコンパートメントから聞こえてくる梟の声を聞きながらコンパートメントのドアを開ければ、こつこつと弾むように靴の踵を鳴らしてカザリが窓へと駆け寄った。ガタン!と大きな音を立てて開いた窓の向こうに、ダンとハツが見える。二人は大きすぎる奇妙な形の羽根が乗った帽子を被った魔法使いに捕まっていた。
「あっ、サミュエル、サミュエルっ!」
ダンはもしかすると今日もカザリを見送れなかったと泣くことになるかもしれない。そんなことを考えながらトランクをコンパートメントの一番奥に置いていれば、カザリが窓の外に身を乗りだしたので、僕は慌ててカザリをつかまえる。強い風に吹かれたカザリのワンピースの裾は、僕の足に押さえられて暴れることはなかった。
「カザリ、危ないから止めて……」
「ごめん、ごめんなさい、ふふっ、でもね、でも、サミュエルが見えたから」
窓の枠に手をかけて、カザリが笑う。頭に浮かんできたのは黒い革の日記帳に浮かぶカザリの眠たげな文字と、それから丸くて甘い匂いのする石鹸で、消えてしまったはずの黒いものが泡を立てて戻ってくる。
「あ、」
かたん、とコンパートメントのドアが開いた音に、カザリが僕の向こう側を見て頬をゆるめた。それから直ぐにラベンダーを浮かべたような紅茶の匂いがして、頭の中でティーポットを傾けながら僕を見るハツが口を動かす。確か、この匂いは、カルチェラタンだ。
カザリが僕の向こう側に手を伸ばすと同時に、僕は振り返る。目を隠してしまうほどの長さのくすんだ赤毛が開きっぱなしの窓から吹き込んでくる風に揺れて、その下にあったグレーの瞳が僕を見た。僕より高い位置にあるその瞳に口元が自ずとひきつってしまうが、それに気付かれるより早く笑みを浮かべた。
大丈夫、僕の背はまだ伸びる。
「え、っと、」
「……初めまして、僕はトム」
「ああ、君が……。僕はサミュエル・メイフィールド、……その、よろしく」
天文学のペア。丁寧で綺麗な文字を書く。アールグレイの匂いがして、着ているコートはいつも柔らかそうで、妖精の針も通らない。カザリの文字が頭の中で音もなく走って、僕は目の前の彼に手を差し出す。彼はあまり人と話すのが得意ではないのか、気恥ずかしそうに視線を落としながら口を結んで、それから漸く僕の手をとった。僕の手よりも大きい彼の手を一度ゆるく握りしめて、離す。
大丈夫、手だって、大きくなる。
「サミュエル、サミュエル、サシェ、使ってくれたの、使ってくれたのねっ」
「うん。ちゃんとトランクの中にも入れてきたよ」
「私も使ってるのよ、石鹸、とっても素敵な石鹸っ!学校でも使えるようにトランクに入れてきたのっ」
「ありがとう、使ってくれて。嬉しいよ」
ぼこり。僕だけに、大きな泡が弾ける音が聞こえる。やけに粘着質で大きな音がするのは、それだけ僕がどろどろでしつこくて重たい何かを持っているからだろうか。何故だか、とてもこめかみが痛い。
ホウ、と隣のコンパートメントからまた梟の声がしたところで、僕はくすんだ赤毛の彼、メイフィールドに小さく笑いかけ、汽車を降りようとコンパートメントを出る。出たが、戸口からやけに目立つ二人組が乗り込んできて、その二人組がそこで立ち止まっているせいで降りることが出来ない。目立つ二人組の一人、ストロベリーブロンドが、僕の後ろを見て頬をゆるめた。
「や、久しぶり。良いクリスマスは送れた?」
「あ、う、うん、うん。とっても!二人は?二人はどうだった?」
「僕は散々だったよ、君からのプレゼント、ジャックがずっと僕の家にいたせいで使えなかったんだ……」
「え!?何だよ!俺のせい!?それよりイアン、お前結局何貰ったんだよ!」
赤毛が怒ったようにストロベリーブロンドに近付いた隙を狙って、戸口からホームにおりる。同時に鳴った汽笛に、目立つ二人組のやり取りは聞こえなくなった。
開け放された窓に歩み寄って、ホームにかかる時計を確かめる。もう一分で動き出すそれに指を這わしていれば、視界に薄く影がかかる。顔を上げれば、窓から身を乗り出していたカザリと目があった。ダークブラウンの瞳が、僕を見下ろして嬉しそうに細められる。
「……カザリは、」
「うん?なあに?」
「…………ねえ、カザリ、少しだけ、頭を下げて」
やっぱり意地悪だ。今吐き出すと黒い何かのせいで棘だらけになっていそうな気がして、そっと言葉を飲み下す。煩くホームに響き渡る汽笛の音でコンパートメントの中のやり取りは微かにしか聞こえてこない。先ほどの二人、グレーの瞳のメイフィールド、それからはきはきとした女子の声と、ぽつりぽつりと一言二言だけで返す男子の声。
一段と大きな汽笛が鳴って、先頭の車両がゆっくりと動き出す。身を乗り出していたカザリの肩を、頭の高い位置で髪をまとめた女子が引き寄せようとした。
「あ、ミネルバ、」
振り返ろうとしたカザリの耳に触れて、ピアスに触れて、それから長い柔らかなダークブラウンの髪を耳にかける。ぐっと背伸びをして近付いたそこからは、あのグレーの瞳の彼が贈ったのだろう石鹸の香りと、それからカザリの部屋に浮かぶ花の甘い匂いがした。
僕以外の誰かが、気付いてくれればいい。カザリからほんの少しでも、僕の匂いがすればいい。
「待ってるからね」
ひやりと固い感触と、あたたかくて柔らかなものが唇を一瞬だけ撫でて、僕はカザリの髪から手を離す。ゆっくりと動き出した汽笛の窓から身を乗り出していたカザリは右耳を撫でながら、僕を見つめる。小さく頷くカザリの細められたダークブラウンの瞳に、胸の下あたりに戻ってきていた黒い何かは消えていた。
「ちょ、ちょっとカザリ!いい加減に戻って、危ないわ……!」
「うん、うん、でもね、ミネルバ、ああ、ミネルバいつ来たの?とっても久しぶりっ」
「ああ、ええ、そうね、ええ、今来たわ。ねえメイフィールド、この子の頭にはずっと早く春が来たみたい……」
「う、うーん、良いことなんじゃないかな……」
汽笛に隠れて、そんなやり取りが聞こえてくる。遠ざかっていく僕に向かって手を振るカザリを見送りながら、僕は泣きながらカザリの名を叫ぶダンの声を聞いていた。
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