▼▲▼▲▼▲
「ダン、これはなに?」
昼の残りを嬉しそうにほうばる彼は、自分の妻の手作りなら例え茹ですぎてくたくたになったハギスでさえも喜んで食べるのだろう。それも、とびきり上等なウイスキーをかけて。
そんな彼が最後の一口であるシェパーズパイを飲み下した時、僕はテーブルに置かれた一枚のカードを見つけた。今にも落っこちそうなほど端に置かれたそれは花の模様で縁取られていて、手に取ってみるとカードに触れた指先から何かが落ちてくる。小指の爪よりも小さな花びらだった。
「おっと、トム、大事に扱ってくれよ?それはとても大切なものなんだからね」
「へえ……ハツへ贈るの?」
「……ま、まあね、」
僕が問えば、口の端にパイをくっつけたダンは大きな体に似つかわず肩を小さく縮めて頭をかいた。どうやら照れているらしい。
誕生日か、それとも何かの記念日か。何かと理由をつけては花を買って帰ってくる彼だから、このカードもその類いなのかもしれない。床に落ちていた花びらをつまみ上げて、僕はカードをダンに返す。僕がカザリに贈るなら、もっと控えめなものを贈りたい。
「これはまだトムには早いな、うん」
「……結婚記念日?」
「え?いやいや、まさか。結婚記念日ならもっとうんととびっきり豪華でハツが泣いて喜ぶくらいのものを贈るさ!」
「…………そう」
「まあ、実は、この間がそうだったんだけど……」
この間、とダンが言ったので、僕は頭の中にぽつぽつと浮かび上がってきた記憶の糸を一本ずつ引き上げていく。まさか、と思ったのは、確かつい三日前にダンが大きすぎる花束を裏口から持ち込んで、ハツに叱られた日のことだった。こんなに沢山買ってどうするのだと叱られた彼は、目を押さえて黙り込んでいた。彼はどうにも涙脆いらしい。
つまんでいた花びらをすり潰せば、初めから花びらなんてなかったかのように指先には何も残らない。今度は叱られないために必死に選んだらしいカードだったが、それが何なのか僕には今だ分からなかった。
「気になるかい、そんなに」
「んー……僕にも関係はあるの?」
「そうだな、まあ、追々、かな」
「……じゃあカザリには?」
「おっ、おい、お、いやっ、暫く無くても、良いんじゃないかな……?」
途端に言葉を詰まらせる彼を見て、それから僕はふと思い出す。そういえば、あの薄暗くて陰気臭い孤児院の部屋から、何かをぼんやりと見下ろしていた筈だ。鼻につくような甘い匂いが立ち上りそうなほどの笑みを浮かべた、名前も知らないマグルのことを。
「……カザリに花でも贈ろうかな」
「あ、ああ!そうだ、それはいい、そうするといい。今度一緒に花を見に行こうか、トム」
「いや、遠慮しておくよ」
ああ、そうか。バレンタインか。
そう気付くなり呟いた僕の独り言をダンは目敏く拾い上げ、嬉々としてそれを僕に投げ返してくる。僕はそれをするりとかわして、腕を組みながら考えた。視界の端でダンが口をはくりはくりと開閉させていたけれど、僕は彼と目を合わすことはしなかった。
「ダン、言い忘れてたけれど、口にパイが付いてるよ」
「え!?な、何だって!?」
唇に指を当ててそう言って、僕はさっさと二階へとかけ上がる。頭の中を名前も知らない、顔だって思い出せないマグルが駆け抜けていった。鼻につくような甘い匂いだけ、頭の中に落として。
僕は、知らない。彼がどんな顔で、どんな名前をもっているのか。僕は、知るはずがない。バレンタインというその日が、何のためにあるのか。
「…………ダンに訊くのは、何か、嫌だな」
開け放されたままのカザリの部屋のドアの隙間から、ぷかぷかと白い花が飛んでくる。僕はそれをそうっとつかまえながら、カザリの部屋に入り込んだ。
カザリの匂いが微かに残るその部屋の匂いは、マグルが落としていった鼻につく匂いに混ざり、僕のお腹の底へと溶けていったのだった。
「えっ?今日は図書室に行かないの?」
「うん、うん、あのね、今日はね、ふふふふっ、秘密よ、秘密」
「……そ、っか、」
こっくりと頷きながら、私はシュガーポットを引き寄せる。隣に座ったサミュエルのくすんだ赤毛の前髪は初めて出会った頃よりもずっと伸びていて、彼が俯けばくすんだ赤毛のカーテンが彼の顔を隠してしまった。
シュガーポットの中に沈んでいた銀のスプーンをすくい出して、真っ白な砂糖をパンケーキにさらさらと落とす。私が何も言わなくてもサミュエルはテーブルの端にあった果物の山からレモンをひとつ取り、それを軽くローブで拭ってナイフを突き刺した。ぼとぼととレモン汁が垂れたけれど、サミュエルは嫌な顔ひとつせず二つに切り分けたうちの片方を私にくれた。きっとミネルバがいれば眉間にきゅっとしわを寄せるのだろうけれど、飛行訓練の授業でスリザリンと喧嘩になったグリフィンドールの生徒達は、それぞれトイレ掃除の罰則を与えられてしまったらしい。
「ありがとう、サミュエル」
「……うん」
砂糖のかかったパンケーキにレモンを絞りながら、サミュエルを見る。とてもつやつやとしたシルクのハンカチで手を拭ったサミュエルはそのまま前髪をかき分けて、そっと耳にひっかけた。グレーの瞳は、ぼんやりとレモンの片割れを見つめている。
今頃ミネルバは三階の女子トイレだろうか。それともそのトイレはスリザリンの生徒だっただろうか。頭の中で水の音がして、私はふるりと頭を振る。グレーの瞳は、今度は何も乗っていない銀のお皿を見つめていた。
「……サミュエル?サミュエル、具合悪い……?」
「え、」
「何だか、何だか少し、ううん、ねえ、大丈夫?これ、きっと、きっとね、元気が出るから、食べる?」
レモンと砂糖がたっぷりかかったパンケーキを一口切り分けて、私はフォークごとサミュエルに差し出してみる。するとサミュエルは漸くグレーの瞳を私に向けて、綺麗なそれを丸くした。
グレーの中にいる私が、ゆらゆらと揺れている。それが薄い水の膜のせいだと気付いた時にはサミュエルはとてもやわらかな笑みを浮かべていて、私は何も言わずに笑い返した。
「……ありがとう、カザリ。じゃあ、一口だけ」
「うん、はいっ、どうぞ」
サミュエルの薄い唇がそっと開いたので、私はパンケーキをそこに運ぶ。ほんの少しだけ色付いた頬に安堵しながらフォークを抜けば、サミュエルは口を動かしながら小さく笑った。グレーの瞳は、真っ直ぐ私を見つめている。
レモンに溶けた砂糖をパンケーキに広げて、大きく切り分けたそれを口に運ぶ。べたりと口許に溶けた砂糖がついたけれど、私は気にせず二口目をほうばった。甘酸っぱい匂いが、頭の上でふわふわと漂っている。
「……ねえ、カザリ」
最後の一口は、とびきり大きなものだった。わ、とあけた口に、溶けた砂糖がたっぷり乗ったそれをゆっくり運ぶ。しゅわしゅわと口の中で溶けていくような感覚に頬を緩めながら、私はサミュエルを振り返った。
「…………あのね」
「うん、うん、なあに?」
「………………口に、砂糖がついてるよ」
「え、えっ?」
ごくりと口の中のものを飲み込んで、私は慌ててローブのポケットの中を探る。けれどそこにあるのはラズベリー色と、ラズベリー色に押し潰されて怒っているような杖があるだけで、目当ての物は見つからない。
鞄だろうか、とテーブルの下にもぐり込もうとしたその瞬間、ほら、とサミュエルが言って、口許にひんやりとしてつるりと滑らかなものが当てられる。思わず動きを止めてじっとすれば、サミュエルはその滑らかなもの、シルクのハンカチで、私の口許を拭ってくれた。
レモンの、匂いがする。
「はい、とれたよ」
「ありがとう、ありがとうサミュエル」
「ううん、良いんだ。……全然」
ゆっくりと細められたグレーの瞳が、ぼんやりと私をうつした。それがとても不思議なことに思えて彼をじっと見つめるけれど、ふるりと彼の唇が震えただけで、その正体は分からない。くすくす妖精すら、そこにはいなかった。
溶けた砂糖だけがべたりとくっついたお皿を端に寄せれば、サミュエルが私から手のひらひとつ分離れたので、私は立ち上がる。耳にひっかけていたはずの前髪のカーテンはいつの間にかおりていて、サミュエルの顔の半分が隠れてしまっていた。
くすくす妖精ではない何かが、そのカーテンの向こう側にいる気がする。そこにこっそりと隠れて、私をじっとうかがっている気がする。
「カザリ、気を付けてね。じゃあ、また」
「う、ん。うん、またね」
けれど、サミュエルが笑って言ったので、私は小さく頷くことしか出来なかった。
鞄を抱えて、そろそろと歩き出す。大広間を出てしまうまでサミュエルは手を振ってくれたけれど、くすんだ赤毛のカーテンを思い出すと何故だか喉の奥がこぽこぽと音を立てる気がした。重たいような、軽いような何かが、深いところへ沈んでいく音だ。
あの、プラチナブロンドの、彼に見られた時のように、嫌な気分だ。
「…………い、ない、」
は、と、本棚の向こう側から私を見つめていたプラチナブロンドが目の前に立っている気がして、私は辺りを見回す。大広間を出てしまえばひんやりと静かな廊下が伸びているだけで、そこには本棚も、本棚の向こうから覗く瞳もいない。それでも私は早足で廊下を歩いた。
かつんかつん、と踵が音を立てるけれど、廊下の壁がそれを丸ごと吸い込んで、耳をきんと冷やしてくる。それがいけないことに思えて私はとうとう走り出し、慌てて中庭を抜け、城を抜け、芝生を蹴った。雨が降ったのだろう。湿った匂いの中に土の匂いが混ざり、足元を見れば小さな滴が光っていた。
ざくりと地面を踏んで、城の直ぐそばにある湖の畔へと出る。大きな木の根を飛び越えたところで、藍色の丸い頭が見えた。私はその藍色を見て、漸く走るのを止めた。
「……が、ガーランドっ」
多分、初めて藍色を口から吐き出した気がする。
藍色の頭、彼、ヒュー・ガーランドは私の小さな声を簡単に拾い上げ、ゆっくり振り返る。畔にある船着き場に座り込んだ彼は私を見るなり歯を見せて笑って、とん、と隣を手のひらで叩いた。
昼、湖の畔で、と、それだけ書かれた羊皮紙の切れ端は、鞄の底で寝息もたてずに眠っている。
「早かったな」
「うん、うん、……それ、借りてきたの?」
「ああ、これ?そう、借りてきた。一番後ろにはでっけえ地図付き!」
鞄を下ろしながら、私はサミュエルやミネルバよりは距離をとって、彼の隣に座る。船着き場から足をぶら下げても湖の水面には届かなかったので、雨は大して降らなかったらしい。
私と同じようにぶらぶらと足を揺らしながら、ガーランドが本の表紙を見せてくる。『マグルの胃袋 ひっくり返すと泥の味』は、私たちの首もとにあるカナリアイエローと同じ色をしていた。
「マグルの、マグルの胃袋……?」
「そ、これ、マグル界のベーカリーとかの本。あと、作り方とか、魔法界のお菓子との違いとか」
私とガーランドの間に、どすん、と『マグルの胃袋』が腰を下ろす。重たい表紙を捲った先にあったのはエディンバラの真ん中にあるパブで、頁の端には小さな地図が載っている。本の一番後ろからはみ出している頁は、きっと彼が言っていたでっけえ地図とやらなのだろう。
ぱらぱらと頁を捲るたびに、埃の匂いがふわりと舞い上がる。『マグルの胃袋』に、魔法使いや魔女達は興味を示さないらしい。少なくとも、彼と、私以外の魔法使いや魔女達は。
あ、と彼が声をもらして、パンケーキの頁でぴたりと止まる。マグルが考案した美味しい食べ物のその頁には、私の好きなものが沢山並んでいた。ラズベリーソースがけのパンケーキに、もっと近くで見たいと思った私は前のめりになってしまう。しかし、何故だか視界に飛び込んできたのはカナリアイエローで、思わず顔を上げた。
藍色の髪の向こう側で、ダークグレーの星が静かに浮かんでいる。ガーランドは形の良い唇を歪めて、『マグルの胃袋』を膝に置いた。
「……駄目だ」
「…………な、なに、が?」
「……だって、」
『マグルの胃袋』を名残惜しそうに撫でて、ガーランドは私を見る。彼の後ろに隠れていた鞄から、彼の髪と同じ色をした羽根ペンが覗いていた。
「……もう、見せるレポートが無い」
だから、駄目だ、教えてもらえない。
ぽつりと、彼は言葉をこぼす。それはとても細やかなガラスの粒のようで、彼が口を開くとさらさらと音が聞こえるような気がした。それくらい、彼は、とても丁寧に、慎重に言葉をこぼした。
藍色の瞳の奥へ、す、とダークグレーの星が沈んでいく。それは、イアンやジャックの後ろを歩く、いつもの彼だった。
頭の中で、沢山の言葉がくるくると回っている。それはどれもばらばらで、纏まりがなくて、捕まえようとして手を伸ばしても、ひらりと逃げていってしまう。それでもどうにか捕まえなくてはならない気がして、私は一度目を閉じた。
「……あ、あのね、それじゃあね、」
ひとつだって言葉を捕まえられないまま、口を開く。頭の中ではだってだとかでもだとか、そんな言葉を掴もうとして、私は手を伸ばしていた。
真っ黒い文字達から離れた場所に、何かが一瞬光る。それが正しいのかどうか分からなかったけれど、私はそうっとそれに手を伸ばし、捕まえた。
瞼を開けば、カナリアイエローを撫でる彼の指先が見える。ミネルバより骨ばっていて、サミュエルよりほんの少しだけ小さな手は、マグルの上を何度も何度もなぞっていた。
「あの、それなら、私を、私を助けて」
藍色の瞳が、ゆっくりと私を見つめる。ダークグレーの星は、帰ってこない。
「……助ける?」
「う、ん、うん。あのね、マルフォイに何かされてるのを見付けたら、守って欲しいの」
「マルフォイって、スリザリンの……」
「うん、そう、そうよ。だって、私、」
あの人達の前では、私はマグルだ。スクイブだ。
その言葉を続けることは出来なくて、私はぎゅっと口をつぐんで彼から目を逸らす。それを口にしてしまえばそうなのだと認めてしまうような気がして、ずっしりと気分が重くなるのだ。喉の奥で引っ掛かっている今ですら、とても重たいのに。
たまらずスカートの裾を握りしめて、私は重たいそれを飲み下す。細く吐き出した息はレモンの匂いがして、視界の端でくすんだ赤毛のカーテンが揺れる。それからプラチナブロンドが靡くように目の前を通り過ぎたので、私は顔を上げた。
「……そんなの、頼まれなくたって、やってやる」
けれど、そこにプラチナブロンドの彼はいない。目の前にあるのは、藍色の瞳と、そして、そこに静かに浮かぶダークグレーの星だけだ。
「だって、俺達、おんなじハッフルパフだろ」
「……うん」
「お前がマルフォイやスリザリンに何かされたら、絶対助けてやる。約束だ」
星が瞬く。とても、綺麗な星が。
ローブのポケットから彼は杖を取り出して、私に杖先を向ける。それを見た私は慌ててローブのポケットに手を突っ込み、杖を引っ張り出した。ぽちゃんと音を立てて、ラズベリー色が湖の水面を揺らした。
震える私の杖先に、ガーランドは器用に自分の杖先をくっつける。チョコレートの甘い匂いが鼻をくすぐって、杖先の震えはおさまった。
「約束な」
「……うん」
に、と笑った彼の瞳の中で、音もなく星が流れていく。私はそれを眺めながら、小さく頷いた。
私達の首もとにあるカナリアイエローが、優しく笑っている気がした。
- ナノ -
▼▲▼▲▼▲
top