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細くて真っ白な指先に、アーモンドよりも綺麗な形をした爪がくっついている。その爪がかり、とテーブルの上に落ちてきた二枚のカードを引っ掻いて、それからまるで仕方がない、と諦めたようにカードを手に取った。その動きは、いつも人一倍早く物事を片付けてしまうミネルバにはとても珍しい。
「……ミネルバ、嬉しくないの?」
「…………だって、これ」
「うん、うん。カードでしょう?カードって、貰ったらとってもとっても嬉しいものでしょう?」
「……いえ、あの、だって…………」
熱いミルクに浸したポリッジにスプーンを突き刺して片手でカードを眺めていたミネルバは、とうとうスプーンに集中するためにカードを置いてしまう。二つ折りのそのカード達は声をあげることも出来ず、黙って大人しくテーブルの上で開かれるのを待つしか出来ない。ミネルバの顔は、踊る羽根ペンのペン先が折れてしまった時のような顔をしていた。
二つ折りのそのカードを、私はテーブルに乗り上げるようにして覗き見る。いつもならここで直ぐ様はしたない、とミネルバの尖った声が飛んでくるのに、今日はそれがない。どうやら見ても良いもののようだ。
「ミネルバ、ねえ、見ても良い?」
「…………どうぞ。見たければ、いくらでも」
母さんや弟からのカードは決して見せてくれないミネルバが、スプーン片手にカードを二つ差し出してくる。ピンクアーモンドのそれとローズミストのそれはそれぞれ金のリボンが結ばれていて、私はローズミストを結ぶリボンの端を指先でつまみ、慎重に引っ張っていく。プレゼントを開くように勢いよく引っ張ってしまえば、カードの中から怒ったゴブリンが飛び出してくる気がした。
「……あなたの、あなたの秘密の信者より……?」
しかし、怒ったゴブリンはそこにいない。それどころか、カードの送り主の名前すらない。
もしかしたら、これが名前なのだろうか。カードのまん真ん中にころころと丸い文字で書かれた短いメッセージを指でなぞってみるが、私にその答えは分からない。ミネルバなら知っているのだろう、とカードから視線を上げたけれど、ミネルバは真っ直ぐポリッジに視線を落として私に視線を返してはくれなかった。
ピンクアーモンドの金を指先で引っ張る。その中にいたのはローズミストよりも角ばった大きな文字で、今度はほんの少しだけ長いメッセージだった。
「えっ、と、……あなたはずっと唯一の人。あなたのバレンタインより…………ミスター・バレンタインから……?」
「くっ、」
私がカードを読み上げながら首を傾げれば、ミネルバが咄嗟に口を押さえる。何かを堪えるように顔を赤らめたミネルバに水の入ったゴブレットを差し出せば、彼女は肩を震わせながらそれを受けとり、一口で飲み干してしまう。
「や、やめてよもうっ、笑わせないでっ……!」
「え、え?何で?どうして?私、カードを読んだだけよ?」
「ミスター・バレンタインだなんて、嘘よ、あなたっ、もうっ……!」
「嘘じゃないよ、嘘じゃないっ、だって、ねえ、ほらここに……」
「ちっ、違うの、そうじゃなくてっ、」
ミネルバはどうやら笑いを我慢していたらしい。けれど、それは無駄なことだった。彼女はとうとう声を上げて笑いだし、ゴブレットをテーブルに避難させる。腰を折って笑うミネルバは、それでも何か譲れないものがあるのだろう。口許に当てられた手はとても品が良くて、私とは大違いだった。
私が一体何をしたのだろうか。ミネルバに訊ねたいが、きっと彼女は教えてくれない。今だって、何も言わずに見つめているだけの私にやめてくれ、と何度も言いながら笑っているのだから、私が訊いたりすれば彼女はますます笑うのだろう。サミュエルか、トムに訊いた方が良い。
「……あ、」
今朝はまだ会えていないサミュエルを後で探しにいこうか。それとも、こっそり寮に戻って日記帳を開こうか。
そんなことを考えていれば、一羽の梟が小さな丸い影を引っ張りながら飛んでくる。あ、と顔を上げるとその梟は丁度私の頭の上で何かを離し、そのまま滑るように大広間を飛び出していった。
ひらひらと、ロータスピンクのカードが落ちてくる。右手を伸ばしてそれを受けとれば、微かに甘い匂いがした。頭の中に、ロンドンにあるやわらかな家が浮かんでくる。
私の部屋に浮かぶ、小さな花の匂いだった。
「…………トムだ」
──バレンタイン おめでとう 君の好きな花を贈るよ
短いメッセージの後に、トムのイニシャルが並んでいる。好きな花とは、きっとこの匂いのことなのだろう。ロータスピンクにぎゅっと閉じ込められた甘い匂いに頬が緩んで、私はそれをそっとローブのポケットの中にしまう。
ベリー色に埋もれた杖が、また増えた、と不満そうに私を見上げている気がしたけれど、私はそれを誤魔化すようにローブを叩く。
「…………バレンタイン、かあ」
アビゲイル先輩が図書室で囁いた秘密の言葉を思い出しながら、ぽつりと呟く。ミネルバの背中は真冬の海に放り出されたかのように震えていて、その向こう側にサミュエルが見えたけれど、彼が私達のもとへ来ることはなかった。
──とてもとても素敵なカード 本当にありがとう けれど トム バレンタインって どういうものなの?
赤い日記帳の上で取り残されている私の文字を、じっくりと見直してみる。いつまでも笑い止まないミネルバから逃げるように寮に飛び込んでトムを呼んだけれど、飛行訓練が終わっても、お昼になっても、薬草学が終わっても、とうとう夕飯の時間になっても顔を覗かせてくれない。トムの遅すぎる返事を中庭で待つには少し寒すぎたけれど、私はじっと綺麗なその文字が顔を見せるのを待っていた。
何処かへ出掛けたのだろうか。いつもこの季節になると父さんが甘いものを買いに出掛けていたから、もしかするとホグズミードにでも来ているかもしれない。
「はやく、返事、こないかなあ……」
そうじゃないと、私はまたミネルバに笑われてしまう。
お昼のぱさぱさのサンドウィッチから薄すぎるトマトを滑り落としながらまた笑っていたミネルバを頭の中から追い出して、日記帳を振ってみる。けれど頁には文字どころかインクすら落っこちてこなくて、私は息を吐いた。
「……あ、あ、サミュエル、サミュエルっ!」
やっぱり分からなかったから、ミスター・バレンタインの正体を教えて欲しい。そう言えばきっとミネルバはまた笑うだろうけれど、とうとう諦めて日記帳を鞄にしまいこんだその時、ふ、とくすんだ赤毛が廊下から現れた。
ぼすん、と鞄が膝から転げ落ちて、サミュエルが驚いたように私を見る。朝も昼も間近で見ることのなかったグレーの瞳はゆらゆらと揺れて、頼りなく地面に落ちていった。
「…………カザリ、こんなところにいると風邪ひくよ?」
けれど、サミュエルは落ちたグレーをゆっくりと持ち上げて、中庭の芝生を踏んで此方に向かってくる。それに笑い返せば、サミュエルはほんの少しだけ笑った。
「サミュエル、ねえ、あのね、教えて欲しいことがあるの」
「……な、なに?」
「秘密よ、秘密。誰にも言っちゃ駄目なんだからね、ねえ、約束して?」
「え、な、なに、ねえ、何を訊かれるの……?」
目の前に立った彼の腕を引っ張って、私はひそひそと言葉を紡ぐ。風に飛ばされてしまいそうなくらい小さな声を出したつもりだったけれど、サミュエルの耳はとても器用だ。私の声を簡単に広い集めて、そっと耳を近付けてくれた。
「あのね、ミスター・バレンタインって、知ってる?」
地面に転がるハシバミ色の鞄に、グレーが泳いでいく。それからゆっくりと私の瞳に向かって泳いできたそれは、ふっくらと膨らんだ冬の梟のように丸かった。
「……カザリ、ミスター・バレンタインって、あの」
「わ、笑っちゃ駄目よ、笑うのも、誰かに言うのも駄目なんだからっ……!」
「それは、うん、でも、ねえ、ふっ、ミスター・バレンタインってまさか、」
「ああっ、笑っちゃ駄目、笑っちゃ駄目よっ……!」
ふ、とアールグレイの香りを細く吐き出して、サミュエルは慌てて口許を隠す。それでも今朝のミネルバのようにサミュエルの肩が震えたものだから、私がそれに気付かないはずがなかった。
サミュエルの震えを止めようと肩を押さえれば、くすんだ赤毛がすぐ目の前で揺れる。鼻先をくすぐるそれからもアールグレイの澄んだ香りがして、胸のあたりに生温いものが落ちてくるのを感じた。
こうしてサミュエルが笑うのを見るのは、随分と久し振りかもしれない。
「はー……ごめん、ごめんね、カザリ」
「……ミネルバもサミュエルも、酷いわ。私、本当に知りたいのに」
「うん、ごめん。本当にごめん。……笑ったこと、許してくれる?」
ベンチに座る私と目を合わせるために、サミュエルは私に向き直り腰を折る。ハロウィンの頃よりもずっと伸びた前髪の隙間からグレーの優しい瞳が私を覗きこんでいて、その真ん中には情けなく眉を下げた私がいる。二つの瞳で私を掴まえたサミュエルの眉も、ほんの少し、下がっていた。
「……教えてくれるなら、許す。許すわ」
ぽつりと言えば、サミュエルは長いまつげをたっぷりと揺らして、薄い唇を伸ばしながら笑った。
前髪を耳にかけ、サミュエルが私の耳元に唇を寄せる。あのね、と、先程の私よりももっと小さなサミュエルの声は、瞬きの動きひとつで飛んでいきそうなものだった。
「バレンタインって言うのは、好きな人にこっそり想いを伝えるものなんだ。自分の正体を明かさずに、こっそりと。だから、自分の名前をバレンタインに変えてカードを贈るんだ」
「……けど、私、トムに、トムからカードを貰ったわ。正体だって、隠れてなんかなかったもの」
「ううーん、まあ、恋人同士なら正体を明かすものだろうけれど、まず殆どが家族にバレンタインカードなんて贈らないから……どうなんだろうね」
僕には分からないよ。
サミュエルはほんの少し困ったように笑って、肩を竦める。私の頭の中にはトムの綺麗で真っ直ぐと右に走っていく文字がぷかぷかと浮かんでいて、行き場を無くしてさ迷っていた。きっとトムの中では、恋人じゃなくても贈るものなのだろう。もしかすると、父さんが母さんに贈るから、トムも私にと思ったのかもしれない。ビーンズをあげたらビスケットをくれるような彼で、ホットミルクを作ってあげればうんと美味しいホットチョコレートを作ってくれるような彼なのだ。トムは、とても律儀で優しいから。きっと、彼にとってのバレンタインカードは、ビスケットで、ホットチョコレートなのだろう。
そこまで考えて、私は思い出した。ミネルバに届いた二人のミスター・バレンタインを。
「……あ、」
ぷかぷかと浮かんでいたそれが、私の中でどうにか行き場を作り終えたその瞬間、力を失って落ちていく。それから飛び込んでくるようにトムのものではない文字が私の頭の中を満たして、慌てて口許を押さえた。
サミュエルが囁いた言葉を、私はゆっくり飲み下す。喉を通って落ちていったそれはじわじわと広がって、途端に顔が熱くなった。
「あ、あれは、じゃあ、ラブレターなのね……?バレンタインカードって、ラブレターなのねっ……!」
「……うん、名前は書かないのが決まりだから、一方的なものになるけれど」
「そんな、凄い、凄いわっ、私見ちゃった、サミュエル、ミネルバってとってもとっても人気なのよっ!」
とても大きな秘密を見付けてしまったときのように、胸が弾む。ミネルバはそれを決して隠してはいなかったけれど、私にとってはとても大きな秘密のように素敵なものだった。
思わずばたつかせた足が、地面に黙って転がっていた鞄をこつんと蹴る。その拍子に飛び出してきたインク瓶とハシバミ色の羽根ペンが、爪先の向こう側で静かに私を見上げていた。
サミュエルのグレーの瞳が、ふらふらと泳ぐ。沈むように地面に落ちたグレーの瞳にはインク瓶と、それから羽根ペンがうつり込んでいて、サミュエルはゆっくりと瞬きをした。
「ねえサミュエル、サミュエル、ミネルバは返事をするかしら?あっ、でも、名前が書いてなかったから、返事は出来ないのね……」
「…………そうだよ。多分、誰が想ってくれているか分からないから楽しいんだと思う」
「そっか、そっかあ……。そうね、ミネルバはとっても正反対の顔をしていたけれど、きっと、」
きっとミネルバも、ほんの少しは胸を弾ませたんじゃないだろうか。どの寮のどんな男の子が贈ってきたのか分からない、ピンクアーモンドとローズミストの秘密を見て、今の私のように。
ふふ、と思わず唇から笑いが溢れて、私はそれを拾い上げるように唇を手で覆う。腰を折ったままのサミュエルはそんな私を見て、目を細めて笑った。
「……ねえ、カザリ、僕もひとつだけ、教えて欲しいことがあるんだ」
アールグレイの香りを漂わせ、サミュエルが言う。それに頷くこともせず黙ってサミュエルの瞳を見つめて続きを待っていれば、彼は白い歯を覗かせながら、溶けるような白い息を吐き出した。
湿ったそれが、私の顔にかかる。白い息の向こう側に見えたサミュエルの薄い唇は、寒さのせいか、青白く見えた。
「ヒュー・ガーランドは、君に何を言ったの?」
白い息が、よく分からないものを大事そうに抱き抱えて、私の中に入り込んでくる。サミュエルのグレーの瞳はまた沈むように地面に落ちていって、私は彼の顔を見ることが出来なくなった。
耳にかけていた前髪が落ちても、サミュエルはそれを戻そうとはしない。緩く癖のあるそれを引っ張るようにして顔を隠してしまった彼は、僅かに見える唇で半月を作って、頭を振った。
「ごめん、何でもない、今のは忘れて」
「え、え?」
「寒いから、中に入ろうよ。大広間まで、送っていくから」
「ねえサミュエル、待って、待ってよ、」
「マクゴナガルが待ってるかもしれないから、急いだ方が良い」
まるで目には見えない狼に廊下の影から狙われているように、サミュエルは私を急かす。いつもよりも早い彼の口調に戸惑う私を待ってはくれず、彼は私の鞄を拾い上げてインク瓶と羽根ペンを詰め込み、私の手をとった。
「サミュエル、ねえ、どうしたの?」
「……何にもない。何にもないんだ、本当に」
「でも、」
サミュエル、あなた、とっても気分が悪そうよ。
その言葉を言おうとして、やめた。ぐんぐんと長い脚を使って進んでいくサミュエルを見上げたその瞬間、彼の肩にくすくす妖精が座っているのを見付けて、何も言えなくなってしまったのだ。
私の中にあったピンクアーモンドとローズミストの大きな秘密が、サミュエルから吐き出された溶けるような白い息に飲み込まれていく。それが夜の森に立ち込める霧のようにとても怖いものに思えた私は、サミュエルの手を握り返しながら必死に彼のあとを追いかけた。
そこで、私はやっと気付いた。前を歩く彼から、私が贈ったカルチェラタンの香りがしないことに。
「……ねえ、サミュエル」
白い息が、喉元にべったり貼り付いている。重くて冷たいそれをどうにかしたくてサミュエルの名を呼んだけれど、彼はぎゅっと私の手を握りしめるだけで、振り返ってはくれなかった。
──本当は 僕も知らないんだ ただ 知らないなんて恥ずかしくて言えなかったし それに 君が喜んでくれるなら 何だって良かったんだ
鞄の中で、トムの綺麗で真っ直ぐと右に走っていく文字が顔を覗かせていることに気付かずに、私は黙って自分のローブの裾を払う。そこにくすくす妖精はいなかったけれど、とても、足が重くて仕方がなかった。
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