16




──今日の魔法史は いつもよりもずっと 素敵な子守唄だったわ


丸く歪んだ奇妙な文字は、彼女の眠気を表している。最後にぽとりと落ちてくるように滲んだインクの染みを撫でて、もうそろそろ話を終わらせなくてはいけないな、と羽根ペンをとった。カザリからインクの会話を終わらせられるのは、僕よりも優先させたいものがあると言われているようで好きではないのだ。


──今も子守唄が聴こえるなら もう眠る時間なのかもしれないね


カザリの言葉に合わせて、それから最後におやすみと書き加える。
かたかたと、窓が二回揺れる音がしても、カザリからの返事はない。きっと僕の言葉に頷いて、そのまま眠ってしまったのだ。
日記帳を閉じて、羽根ペンを置く。開けたままにしてあったインク瓶の蓋を閉めようとすれば、いつのまにかカナリアイエローの小さな花が蓋の上に落ちていて、僕はそれをつまみ上げながら蓋を閉じた。
手のひらの上で、少し萎びたカナリアイエローがひとつ転がっている。これと同じ色がカザリの首もとに座っているのだと思うと頬が緩んだけれど、いつもと違う花に思わず首をかしげた。


「……ああ、そうか、イースターだからか」


カザリの癖のある文字が、頭の上で僕を見下ろしている。閉じた日記帳を開いて頁を戻れば、もうすぐイースター休暇だと告げるカザリの文字がそこにあった。


──私 イースターのせいで いつも忘れるのよ


花を転がしながら、カザリの文字を追いかける。この時彼女はイースター休暇は何処へ行って僕と何をしたいかだとか、何が食べたいだとか、彼女が話し出すとなかなか止まらないようにつらつらと書き並べるものだから、僕は何を忘れるのか訊けなかったのだ。
明日、起きたら訊いてみようか。もしかすると今更過ぎて、書いたことすら忘れているかもしれない。考えながら、僕はまた頁を戻って、それから直ぐに日記帳を放り投げたくなってしまった。


──それよりね 聞いてトム 私 仲良くなりたい男の子がいるの

──君のしたいように すればいい


カザリの文字の下に、ぐにゃぐにゃと歪な階段を上っていくような僕の文字がある。それを眺めると先ほどまでの穏やかな気持ちは泡が弾けたように消えて、弾けた滴が喉の奥に張り付いて真っ黒く色を変えてしまうのだ。
は、と、手のひらの上のカナリアイエローを握りつぶしていたことに、僕は気付く。慌てて手を開いたが、遅すぎた。カナリアイエローはくしゃくしゃに身を縮ませて、僕を恨めしく見上げていた。


「……気に、しない。僕は、何も、気にしない」


それはここ最近、毎日のように繰り返し自分にかけている魔法のようなものだった。
胸を撫で下ろして、小さくなってしまった花を机の上に落とす。天井にはいつもの白とカナリアイエローがまた入り込んできていて、ぷかぷかと僕をからかうように浮いていた。


「……カザリが帰ったら、色々、訊かなくちゃ」


イースターに隠れて、何を忘れてしまうのか。僕と何処へ行って、何をしたいのか。何を、食べたいのか。それから、仲良くなりたい男の子は誰で、一体全体、どうなったのか。
天井に浮かぶ花をふたつ、背伸びをして捕まえる。潰れてやいないかと確かめて、僕はそれを枕元に飾った。
そうして僕は、その夜遅く、ぼんやりと、それでも確かに引っ掛かるものに気付くのだった。
カザリと出会った春の路地裏から、彼女の誕生日を未だ迎えていなかったことを。





「どうしてたった一週間の休暇に、こんな沢山の宿題があるっていうのかしら、ねっ!」


ぼん!と勢いよく天井にぶつかって落ちてきたのは、私の首に捻れて座るそれと同じ色をしたクッションだった。
明日の朝には汽車に乗って、ロンドンの外れにあるあの家に帰ることになっている。けれど、私はいつも何かを始めるのが遅いので、ベッドの上にはトランクに収まる気なんて指先ほども持ち合わせていない本やラズベリー色が転がっていた。その中のひとつであるワンピースをトランクに詰めようとしていた手を止めて、ベッドのカーテンにひっそりと隠れながら顔を半分覗かせる。床に転がったクッションを拾い上げたのは、いつもジェインを真ん中に挟んで歩く、三つ子の小さな森梟のような女の子だった。
そろそろと、ワンピースを畳むふりをして彼女を見る。彼女の滑らかに波打つブルネットの向こう側には、昨夜、とっぷりと夜に浸かった月が見えていたが、今は横にめいいっぱい引っ張ったような千切れた雲が浮いている。レイブンクローの部屋からなら、それが目の前にあるように見えるのだろうか。ちらちらと、千切れた雲と窓の間に、サミュエルのくすんだ赤毛が揺れて見えた気がした。


「もう、よりにもよって私の嫌いな天文学なんだもの。嫌だわ。ああ、凄く嫌だ」


ブルネットからくすんだ赤毛に寄り道をしていた視線が、またブルネットに戻る。袖の膨らんだ女の子らしいモスリンのワンピースを着た彼女は、アンだろうか、それともリリスだろうか。一度だって話したことのない彼女の名前を、私は知らない。何せ、彼女は私と二人きりになろうものなら森梟のようにばたばたと逃げ出してしまうのだ。
そんな彼女が逃げ出さないのは、彼女の隣、私の向かいのベッドに、スウィートグラスの籠を持つブロンドの森梟がもう一人いるからだった。


「良いじゃないの、天文学くらい。春なんだから、星を見るのもきっと辛くはないわ」

「春だなんて嘘言わないで、私の家じゃあイースターはまだ冬なのよ。少なくともこの寒さではね」

「まだ暖かくなった方よ。でも、良いんじゃなくって?あなたの家じゃあ、兄弟が山のようにいるから寒くなくなるわよ」

「あなたに一人くらい分けてあげたっていいのよ?あなたの屋敷なら私の兄弟全員入っても寒いだろうけれど」


ジェインも口を開けばぽろぽろと溢れて零れるように言葉が止まらなくなるが、彼女の言葉はもっと丸くて柔らかな、受け止めきれなくても痛みのないものだ。そんな彼女を挟む二人の口からは、真っ直ぐ伸びすぎた背中に相応しい、冬に食べるヌガーのように固くて角ばった言葉が飛び出てくるものだから、受け止めきれずに落としてしまえば割れてしまいそうだと背中が震えた。
ブルネットが、ブロンドを睨み付ける。ジェインは、と視線を泳がせるが、彼女は先程腕に大きな荷物を抱え、梟小屋へ行くと言い残して部屋を出ていったのだった。ぎしぎしと床を鳴らして、巣穴のような部屋を飛び出していった後ろ姿を、ぼんやりと思い返す。


「……何よ、そんなに睨んで」

「あんたこそ何よ、文句でもあるの」


きっとジェインは、二人の角ばった言葉を柔らかく、丸くしてしまう魔法が使えるに違いないのだ。だからこそ、ぴんしゃんと背筋を伸ばして歩く二人はいつも彼女をしっかり捕まえて離さないのだろう。
ワンピースをどうにか畳んで、トランクに詰め込む。これでは丸めただけだ、とミネルバが私のトランクの中を覗けば叱るだろう。けれど、彼女は私が目の前でトランクを開けない限り、勝手に開けて覗くことは決してしない、真面目な魔女だ。それを分かっていたので、私はくしゃくしゃの、畳んだつもりで丸めたワンピースの上にラズベリー色と『ゴブリンから教わる春の星座』を重ねた。


「あなたって、本当、いつもいつも、」


低く唸るような声で、角ばったそれを磨きに磨いて棘だらけにしたのは、私が藍色の表紙をそろりと撫でた時だった。
ブルネットの髪が、沸き立つように揺れている。爪先から、何かが天井に向かって上っているようなその揺れ方に、私はカーテンに隠れながら思わず息をのんだ。


「いつも、何よ、私だっていつも、」


ブロンドの彼女の、ブルーの瞳の目尻が持ち上がる。あ、と思うより先に、私の足はベッドから下りて、藍色を撫でていた手は杖を持つよりもずっと早く前に出た。


「カザリ、カザリ!ねえねえねえ!またあの上級生があなたのこと呼んで欲しいって!」


けれど、私の手はブルネットとブロンドの間に入るよりも早く、巣穴に飛び込んできたジンジャーの赤毛の彼女、ジェインに取られてしまうのだった。
大きな荷物を放り投げたジェインは、大きな丸い瞳をもっと正しく丸くさせて、私を見つめる。頬は綺麗なオペラ色で、彼女はヴィーラでも見てきたかのような、甘い息を吐き出した。


「あ、え、えっと、」

「ほら、あの人よ、私、あの先輩ってとっても好きだわ。きちんと話したことはないけれど、話し方は気取ってないし、あの髪も素敵よね。私と同じ赤毛な上に、私、あの癖のある髪、とっても好きなのよ。この寮で一番魅力的なんじゃないかしらって、談話室で見かける度にいつも思うのよ」


丸い瞳の中に、何かが浮かんでいる。けれどそれは彼女にしか見えなくて、私は瞬きをすることしか出来ない。彼女は熱心に私を見つめているようで、瞳の内側の何かを見つめていたのだ。
それが漸く終わったのは、私が五度目の瞬きをした時だった。目の前にいる私に今気付いたかのように、ジェインは慌てて後ろを振り返り、それからブルネットとブロンドを見る。ジェインはいつも、森梟二人がいない時にだけ私に話しかけていた。きっと、私と話してはいけないのだろう。
噂通りの子、と明るく言ったジェインの言葉が、今になってとても重たくて暗いものに思えた。


「あ、の、ありがとう、私、私、行くね」

「あ、ええ、ええ、そうねっ」

「ちょっと!ジェイン!」

「あなたって、本当に、もう!」


どちらからともなく手を話せば、ブルネットとブロンドが瞬く間に目尻を上げてジェインを捕まえた。
沸き立つように揺れるブルネットの背中を横目に、私は慌てて巣穴を飛び出した。
ぐねぐねと曲がる、天井の低い通路を抜けて、談話室に出る。耳のすぐそばにくすくす妖精がくっついて、離れてくれなかった。
くすくすと、妖精が笑う。つん、と痛んだ鼻の奥から目を逸らして、見えないようにと蓋をした。こんなことは、もう、慣れっこだ。


「お、来た来た。カザリ、こっち」


ふるりと頭を振って、くすくす妖精を追い払えば、たちまち軽くなった耳に聞き慣れた声が滑り込んでくる。は、と顔を上げて談話室を進むと私の知らない上級生に囲まれたアンドリュー先輩がソファに座っていて、私は彼に歩み寄る。
私よりも高い場所から、ブルーやグリーンの視線が降ってくる。アンドリュー先輩の友人なのだろう。けれど、ニコラス先輩しか知らない私は降ってくるその視線がとても恐ろしいものに思えて、あと一歩進めば、という距離で足を止めてしまった。


「おい、おいおい、お前ら、見るなよ、カザリを見るな!怖がってるだろ!」

「何だ、お前の恋人か?年下過ぎると思うぜ」

「俺達親友だろう?恋人が出来たなら教えろよな、アンドリュー」

「違う!もうお前らどっか行け!俺の親友はニコラスだ!」

「げえっ、酷いなお前!俺達も親友だろ!」

「恨むぞアンドリュー!お前のベッドにインク瓶引っくり返してやる!」

「ほら見ろ親友じゃないだろ、親友はそんな簡単にインク瓶を引っくり返さねえよ!」


男の子というものは、こんなにも声が大きなものなのだろうか。
知らず知らずのうちに私は呪いをかけられたかのように、石になっていた。そんな私の上で、ブルーやグリーンの視線の持ち主達は大きな声で乱暴なやり取りをしている。ソファに座って私に手を差し出しながら、ビーターのようにそれを受け止る前に打ち返してしまうアンドリュー先輩が、サミュエルとはとても重ならなかった。
しっ、しっ、と、アンドリュー先輩が左手でブルーやグリーンの彼らを追いやって、それから右手は私にぐっと伸びてくる。ソファから腰を上げて私の腕を捕まえたアンドリュー先輩はそのまま私を引っ張って、ソファに座らせた。
ゴブレットひとつ分の間を空けて、今度はグレーの視線が降ってくる。マグルのお店で嗅いだことのあるような香水の香りが、ちょん、と鼻先を撫でた。


「ごめんな、カザリ。口は悪いけど、良い奴らなんだ、あれでも」


アンドリュー先輩はそう言って、私に体を傾けた。間近で見るグレーの瞳を見つめると、アールグレイと、それから私が贈ったカルチェラタンの匂いがそこにいる気がした。やはり、アンドリュー先輩とサミュエルは兄弟なのだ。


「あの、先輩、アンドリュー先輩、どうしたんですか?」

「おっ、と、そうだった」


ふるふると首を横に振って、ここに呼ばれた訳を訊こうと首を傾げる。アンドリュー先輩は一度だけグレーの瞳を大きく瞬かせて、私の手をとった。


「明日から、イースター休暇だろ?」

「はい」

「カザリは勿論帰るだろうし、ほら、あのー、グリフィンドールの、真面目そうな……」

「ミネルバも、ミネルバも帰ります」

「そう、帰るだろう?それで、その、サミュエルも、帰るだろう……?」


ぱしゃり。アンドリュー先輩の視線が、空中の海を泳いでいく。それを追いかけると、巣穴へと入らずに談話室の隅から此方を見て手を振るアンドリュー先輩の友人達が見えたので、手を取られている私は口角を上げてみせた。


「……俺も、今年は、帰ってみようかと思って」


ぱしゃん。アンドリュー先輩の視線がぐんぐんと泳いでいく。その先にあるのは何だろうか。サミュエルと、アンドリュー先輩と、私がまだ会ったことのない、二人の両親が座る食卓なのだろうか。
浮かび上がったそれに、頬がゆるむ。顔のない両親が、私の両親に変わって、アンドリュー先輩は私に、サミュエルはトムに変わった。テーブルに並ぶのは、焼きたてのイースタービスケットと、それから、私の大好きな甘い甘いミルクだ。


「クィディッチより、家族でイースターを過ごす方が、クィディッチの練習より、ずっと素敵だと思いますっ」


アンドリュー先輩の手を握り返して、私は言う。グレーの瞳は泳ぐことを止めて、私に真っ直ぐ向けられた。
くすんだ赤毛が、アンドリュー先輩の白い頬にかかる。うっすらと、内側から燃えるように色付いた頬は、リボンがほどけるように緩んでいった。


「そっか。そうだよな。うん、やっぱり、そうだよな」


ぎゅ、と握られた手が、ぶらりと横に揺れて、私は黙ってその揺らめきを感じていた。サミュエルは何て言うだろう。もしかするとニガヨモギを噛み締めたような顔をするかもしれないが、それでも私は、アンドリュー先輩がサミュエルのいるテーブルに座ることがとても素敵なことに思えた。


「うし、じゃあ、明日、早速サミュエルを捕まえてみるわ」

「捕まえ、捕まえるんですか?」

「一緒に汽車に乗って、二人で帰る。多分、そうするべきだったんだ。クリスマスにも」


に、と笑ったアンドリュー先輩は、きっと明日が待ち遠しいのだ。色付いた頬は段々とその色を濃くして、柔らかなものになっていく。
細められた瞳を、下から覗きこむ。サミュエルによく似たその瞳は、サミュエルと同じ、優しい瞳だ。


「じゃあ、明日、サミュエルは俺と帰るからな。カザリ、頼んだぞ!」

「はい、分かりましたっ」


何を頼まれたのかは分からないが、今は頷くのが正しい気がして、私はこっくりと頷いてみせる。ぶらりぶらりと、ニコラス先輩が巣穴から出てくるまで続いたアンドリュー先輩の機嫌を表すように揺れる手は、羽毛のように温かかった。




- ナノ -




←前 次→

top