▼▲▼▲▼▲
「ミネルバ、ねえミネルバっ、ほらっ」
「……今ばかりは、メイフィールドに同情するわ」
「え、ど、どうしてっ……?」
こっそりと覗いたコンパートメントの中を指差したまま、私は目を丸くする。ミネルバの顔は、まるでずぶ濡れの屋敷しもべ妖精を目の前にしたかのようだった。
ミネルバが肩を竦めて、瞳を動かす。見つめた先には、じ、と汽車がまだ動き出さないせいで景色の変わらない窓の外を見つめるサミュエルと、そんなサミュエルの向かい側で唇をむにゃむにゃと動かしては何かを言おうとするアンドリュー先輩がいた。
くしゃくしゃに丸めたように畳んだワンピースの詰まったトランクを置いた、三つ先のコンパートメントに目を向ける。二人の様子をこっそりと伺いに来るには丁度良い距離のそこは、扉を開け放したままだった。
「私、あの二人が仲良くなるのは難しいと思うわ」
「……な、なんで……?」
「…………だって、メイフィールド先輩だもの」
それ以外に何の理由があるのか。ミネルバはそう言いたげにちらりと目配せをして、私の手を引く。彼女の目の前からはずぶ濡れの屋敷しもべ妖精は消えてしまって、残るのはサミュエルとアンドリュー先輩だけである。もう戻ろうと、彼女の指先が訴えていた。
「それにしても、イースター休暇って思ってたよりもみんな帰るものなのね」
此方に気付かないサミュエルに視線を送って、ミネルバに引かれるまま通路を歩く。三つ先のコンパートメントまでの距離は短い筈なのに、初めて汽車に乗った時のように生徒の数が多かった。もしかすると、クリスマスよりも多いかもしれない。
監督生用の車輌へと向かう上級生とすれ違いながら、開け放したままの扉の中へと入る。二人きりなのだからと下に置いたままにしていたトランクを端に寄せれば、お腹の底が震えるような汽笛が響いた。もう直ぐ汽車は動くらしい。
「マダムペペもね、帰るみたい。私ね、見たのよ、馬のいない馬車に乗るときに、私見たの」
「私は見ていないわ。何処にいたの?」
「二つ後ろの馬車に乗っていたわ。マダムペペのトランク、小さなトランクがね、とても素敵だった」
サテンのリボンを取手に巻いたそれを思い出しながら、窓にそれを描いていく。歪んだトランクの取手は水滴に変わって、リボンを描くよりも早くそれは溶けるように崩れてしまった。
目の前に差し出されたハンカチを受け取って、指先を拭う。崩れたトランクから透かして見たプラットホームから、アイスブルーの瞳がじっと私を見つめていた。
「あら、珍しい」
崩れたトランクを、手のひらで潰す。べたりと濡れてしまった手をミネルバのハンカチで拭くのがとても悪いことに思えて、何かを見付けて気を取られているミネルバに気付かれないように、こっそりとスカートの裾で手を拭った。
窓の向こうに、アイスブルーの瞳はない。彼はどうやら、もう汽車に乗り込んだようだ。
「カザリ、私の知っている限りでは、確か彼ってハッフルパフだったと思うけれど」
「え、」
ほう、と、ひとり胸を撫で下ろしていた時だった。ミネルバが私の膝をつつき、それから窓の外を指差した。瞬間、彼女は私の濡れたスカートの裾を見付けて眉をきゅっと寄せたので、私は慌ててミネルバの指先を追いかけた。
汽笛の中を、駆けてくる影がふたつ。風で舞い上がった前髪に、上級生の誰かが急げと声をかける。飛び込むように汽車に乗ったのは、ストロベリーブロンドと赤毛の乱れた前髪だった。
「ねえ、カザリ、あなたまさかスカートで……」
「う、ううん、拭いてない、拭いてないよっ」
ミネルバの指先が、私のスカートの裾をつまみ上げようとしたので、私は逃げようと立ち上がる。そして、ミネルバが猫に引っかかれたかのように勢いよく手を引っ込めたのは、私が咄嗟に扉の取手を掴もうとしたその時だった。
冷たいはずの取手が、妙にあつい。がたがたと窓を揺らし、汽車が走り出す。あつい取手は私が転ばないようにと私の腕を掴み、それから背中を支えた。
金の取手は知らぬ間に、ストロベリーブロンドに変わっていた。
乱れた前髪の隙間に、汗が光っている。後ろに立つ赤毛の彼は、肩で息をしながらトランクを抱えていた。藍色は、いない。
「い、イアン、ジャック、」
手の甲で汗を拭った彼、イアンが、通路の頭から爪先をぐるりと見回す。それから彼は困ったように目を細めて、私の背中から手を離した。
「ねえヴィッセル、困ったことがあったら、助けてくれる約束だったよね」
箒よりも早く飛んできたミネルバの手が私を捕まえて、私は引き摺られるように後ずさる。三歩離れたイアンの瞳は、誰も座っていないコンパートメントの座席と私達を見つめていた。
「今日こそちゃんと、ちゃんとするぞ、今日こそは、ちゃんと、」
地面を這いつくばるように低い声が、途切れ途切れに聞こえてくる。マグルの間で流行っているのだと言ってダンが買ってきたハンチング帽をかぶり直すふりをして、僕は前を歩くダンの背中を見た。プラットホームの一番端、汽車が真っ先に滑り込んでくるその場所を目指すダンは、未だ一度だって余裕を持った、所謂父親らしい態度でこの場所に居られたことはないのだ。彼の涙腺は、カザリに会うなり壊れてしまう欠陥品らしい。
ビロードのローブを引き摺るように歩く魔女とすれ違いながら、手元に視線を戻す。此処に来るまで何度もリボンを巻き直し、花は萎れていないかと確かめていたけれど、今も心配で仕方がない。何せ僕は、こんなものを手にするのは初めてなのだ。
「ああ、困ったな。トム、どうしたものか。どうにも落ち着かないんだよ、困ったな」
「深呼吸すると良いよ、きっと。それか、他のことを考えるとか」
「なるほど、そうか。じゃあ明日のことを、ああ、駄目だ、明日もとびきりちゃんとしないと……」
花束なんて、カザリは喜ぶのだろうか。いつも部屋にはカザリに匂いが移るほどに花が浮かんでいるのに、今更過ぎやしないだろうか。それに、この花じゃなくて、もっと、別の花が。
今朝丘で積んできたばかりの真っ白い小さな花を手に、僕はダンに当たり障りのない言葉を返す。頭の中はぐずぐずと煮詰まった後悔ばかりで、指先は落ち着きなくリボンを撫でる。プラットホームに散らばる落ち着きを集めても、僕とダンを落ち着かせることは出来ないだろう。そんなくだらないことを思わず考えてしまうくらいに、僕は後悔を煮詰めていた。
「あ、来たわ」
ひとりの魔女の声を合図に、周りが一瞬静まり返る。は、と上げた視線の先に、未だ春になりきれずに冷たいままの夜を切って、汽車が此方へと近付いてくるのが見えた。カメリア色をしたリボンが、するりとほどけた。
ぐずぐずと煮詰まった後悔が、ぶすりと空気を吐き出して、とうとう僕のお腹の底に焦げ付いてしまう。冬ほどではないが、冷たい夜に悴んでしまった僕の指ではリボンを上手く結ぶことが出来ず、いつかの僕の文字のように右上がりに傾いてしまった。
「ああ、ミネルバ、ミネルバこっちよ」
聞き覚えのある、古めかしい名前を呼んだ魔女がダンを押しやるように前に出て、両手を伸ばした。顔を上げてカザリ探さなくてはと思いはするが、どうして上手く結べないんだだとか、どうしてもっと早くに教えてくれなかったんだだとか、焦げ付いたそれがぶすぶすと空気を吐き出しながらひん曲がった文句を言うので、僕はなかなか顔を上げられなかった。
もっと、ちゃんとしたものを贈りたかったのに。僕は、もっと、カザリに相応しい、それこそこんな花なんかじゃなくて。
「ああっ、カザリ!」
つい先ほどまで地面を這いつくばっていたダンの声が、一気に跳ね上がる。ダークブラウンの視線の先を辿れば、ぴんと伸びた背中を持つ魔女、きっとカザリがよく話してくれるグリフィンドールの彼女だろうその魔女に、頬を撫でられたカザリが見えた。
手のひらが、じわりと熱を持つ。こんなもの、と僕のお腹の底の焦げ付きはまだ言っていたが、それでもカザリは笑ってくれるだろう。蛙チョコを捕まえただけで跳ねて喜び、髪を撫でれば眩しそうに笑うカザリなのだから。
「あ、トム、トムっ!」
「カザリ、」
僕に気付いたカザリが、トランクを放り出して手を伸ばしてくる。それに応えるように僕は右手を差し出しながら、左手は背中にそっと隠した。花の甘い匂いが、背中から顔を覗かせる。
プラム色のローブが目の前を横切って、僕は背伸びをしながらカザリに手を伸ばす。瞬間、プラム色に肩をぶつけたカザリは、爪先をこつりと地面に当てて、小さな梟のようによろよろとよろめいた。
「カザリっ、」
隠していた花も気にとめず、僕は両の手を伸ばす。はらはらとひとつ花が散って、それはカザリの指を掠めていった。
「おっ、と、ヴィッセル、大丈夫?」
そして、僕の両手はカザリの爪の先すら掠めない。
カザリを後ろから抱き抱えるように支えた、艶のあるストロベリーブロンドが揺れる。皺ひとつ無いシャツの襟が、不思議と目に留まった。
「あ、ありがとう、ありがとうイアンっ」
「大したことじゃないよ。でも、何だか僕の手、君が好きみたいだ。最近よく君に触れてる気がするんだよ」
「そう、かな、」
目の前にいるのに、ホグワーツとロンドンの外れよりもずっと遠くにいる。カザリは恥ずかしそうに頬に手を当てながら、皺ひとつ無い襟を見上げていた。
ストロベリーブロンドの前髪の下で、まるでベリーを紅茶に浸して沸かしたような色の瞳が笑っている。僕の焦げ付いたそれは真っ黒い煙を吐き出しながら、喉元へと静かにのぼってくる。
「ごめんね、あの、ありがとう、いつも」
「ううん、全然。いつだって助けるよ」
「うん、イアンも、その、また言ってね。困ったら、私に言ってね」
短い前髪を揺らして、カザリは首を傾げる。その横顔を見つめながら、僕は黙って花束を背中に隠した。
口を開けば真っ黒い煙が出てきてしまいそうで、僕はそれをゆっくりと飲み下す。ちらりと僕を気遣うように向けられたカザリの視線を見付けて、いくらか喉が軽くなった。
「うん、じゃあ、またね」
「うん、うん、また」
ぎゅ、と手を握りあう二人を、僕は黙って眺める。よく出来た紳士の顔をした彼に、何もすることは出来ないのだ。してはいけないのだ。
例え、彼がそのままカザリの手を持ち上げようと、僕は絶対に、彼の手を払い除けてはいけないのだ。
「わ、」
「え、と、トム、トムっ?」
「……………………」
それを、僕が守れるかどうかは別の話として。
ひりひりと、手のひらが痛む。思いの外僕は彼の手をきつく叩き落としたらしく、ストロベリーブロンドの下から僕を見下ろすその瞳は驚きでゆらゆらと揺れている。今にも瞼の縁から溢れだしそうなベリーの紅茶をした瞳を、見上げることは出来なかった。
視界の端で、枯れた花が落ちていく。僕の手にあった花は全て、枯れてしまっていた。
「……カザリ、帰ろう」
「え、待って、トム、待って」
「早く帰ろう。ハツが、家で待ってるから」
彼がまさに口付けようとしていたカザリの手をとって、僕はカザリを引っ張る。まるで子供だと自分でも思ったが、それでも僕はそうすることしか出来なかった。
僕は、カザリに何を贈れば良いのかも、どうすれば此処から早く消えてしまえるかも、何も分からないのだ。
ぶすぶすと、音をたてて煙がのぼってくる。ベリーの紅茶がそれを見つめて、ああ、と小さく笑ったように見えた。
「ヴィッセル、じゃあ、またイースター明けに」
「う、うんっ、また、またねっ」
ストロベリーブロンドの向こう側で、いつの間にかカザリのトランクを手にしたダンが笑っている。大きな手を窮屈そうに振るダンへとカザリを引っ張りながら、僕はカザリに見えないように花を棄てた。
カザリへ贈る筈だったその花は、カザリの誕生日を祝うこともなく、僕の真っ黒い煙のようにその場に取り残されたのだった。
- ナノ -
▼▲▼▲▼▲
top