56_帰宅
..........
しのぶ様にしがみついて泣きながら寝落ちするという失態を演じた私は、目が覚めたときにそれはそれは青ざめていたことだろう。
鏡を見なくても自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。
師範とも話していたのに、更にはお屋敷から出ていく旨を申し出ようとしていたのに、中途半端なまま眠りこけるというとんでもないことを仕出かしてしまった。
寝台の上で頭を抱え唸っていると、個室の戸を叩く音と共に凛とした声が掛かる。
入室の許可を求める声に二つ返事で了承すると、笑顔のしのぶ様の姿が見えた。
昨日の失態のお詫びとお礼を告げると、私の身体を労る言葉を掛けてくださる。
やはり女神のようなお方だ。
そう思ったのも束の間、彼女から発せられた言葉に私は戸惑った。
「もう今すぐにでも退院して良いですよ。今日は一日ご自宅で静養して、明日以降からまた任務に励んでくださいね」
「えっ……でも私、帰る場所が」
「お迎えもいらっしゃってますから」
「えっえっ」
しのぶ様が個室の扉に向かって予定通り今から帰宅で大丈夫ですよー、と声を掛けると、その扉から顔を覗かせたのは師範だった。
「よし帰んぞォ、なまえ」
「いや、でも…私、もうお屋敷には、」
「帰んぞォォ…さっさとしろォ」
青筋を立てて顔で圧を掛けてくる師範に逆らうべからず、と本能に刷り込まれている私は、喜んで!と謎の返事をし、持てる力の全てを駆使して高速で身支度を始める。
蝶屋敷のお世話になった方々へのお礼のご挨拶を済ませてから、外で待っていてくださった師範に声を掛け、並んで家路を辿った。
ーーーーーーー
過ごし慣れた居間で膝を突き合わせて座れば、案の定無言の時間が流れる。
気まずい。
流れでこのお屋敷に戻ってしまったが、本当に良いのだろうか。
師範は何があっても傍に置いてくださると仰っていたものの、全てを話し終えた後に彼が何を思っていたのかは聞けていない。
正直、聞きたくない気持ちもある。
でもこの問題を避けて通る訳にはいかない。
躊躇いつつも私が口を開きかけたとき、先に師範の声が耳に届いた。
「触れていいか」
「へ、」
後頭部と背中に手を回されたかと思うと、そのまま体重を掛けられあっさりと畳に押し倒される。
私としては本当にまたこちらのお屋敷でお世話になって良いのかという再確認や、それならばそれで改めてご挨拶をと緊張していたので、突然迫って来た整ったお顔に色々と戸惑った。
師範、と抗議の声を上げると一瞬むっとした表情が見え、間髪入れずに唇を塞がれる。
私を黙らせるための口付けから始まったはずなのに、やがて甘く啄まれていく感触にじわじわと熱が灯ってしまう。
「…今は"実弥"、だろォが」
低く囁かれた甘い声に、頭の芯まで痺れていく。
完全に色気に当てられてしまった私は大人しく彼の名を呼び、このまま身を任せることにした。
←prev next→
back