64_そう甘くはない
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あれから師範と共に変態を片付けてお屋敷に戻ってきたのだが、予想通りと言うべきか、予想以上と言うべきか。
怒髪天を衝くという言葉がしっくりと来るご様子の師範を前にし、私は縮こまって正座をしていた。
「俺ァすぐ戻るって言ったよなァなまえサンよォオ…」
「…ハイ間違いなく仰ってました」
「じゃあ何故お前は連絡も書き置きもなく無断で出掛けてたんだァ?あ"ァ?」
「申し訳ございませんッ!!どうかお許しを!!」
無断外出の理由については、師範のためにお抹茶を調達に、なんて押し付けがましいことを言える訳がなかった。
只管冷や汗をかき畳に額を擦り付けて謝罪していると、急に師範のお小言が止む。
おかしい。いつもならもう少し長いことお説教が続くはずだ。
体調でも悪いのだろうか。
慌てて顔を上げると、眉根を寄せて顔を歪めた師範と目が合う。
次の瞬間、私は師範の腕の中にいた。
「頼むから、心配させんな…なまえ……」
「……!」
弱々しい声色にはっとする。
師範は唯一生き残っている肉親である弟さんのお見舞い帰りだったのだ。
この方は、近しい存在を次々に失った心の傷を抱えた人だというのに。
またその痛みを味わう恐怖がちらついたばかりの不安定な人に、余計な心配を掛けてしまうなんて。
弟さんと同等とまでは自惚れられないが、私も充分師範に大切に想っていただいていると自覚している。
この人は一度懐に入れた人間はとことん守り抜こうとする人だ。
なんて浅はかな行動を取ってしまったのだろうと、今更後悔の念が押し寄せる。
「ごめんなさい、実弥さん…」
「戦闘と訓練以外でウタも使うな。多かれ少なかれ身体に負担掛かるんだろ」
「はい…」
「なまえ……」
目を細めた師範のお顔が近付いてくる。
優しく頬を撫でられ、私も自然と瞼が下がっていく。
あと少しで唇が触れ合い、私も完全に目を閉じる直前、というところで師範が再び口を開いた。
「そんなことも言わなきゃ分からねぇ阿呆弟子には今から稽古つけてやらァ……」
「ええええええぇ〜〜〜…!!あ、ありがとうございます…」
「半泣きになってんじゃねぇぞォ!!さっさと支度しろォ!!」
「はぃいいい!!」
スパンとお尻を叩かれ、慌てて木刀を取りに行く。
てっきり甘い雰囲気になるかと思っていた自分が恥ずかしい。
怒らせた直後だというのに完全に期待してしまっていた。
多分あのご様子だと無限掛かり稽古になるだろう。
想像しただけで胃の中のものが逆流して来そうだが、やはり師範に稽古をつけていただくのはありがたい。
自分の力で戦っていくと決めた以上、剣技の向上は今後も図っていきたい。
ウタに耐えるためにも肉体と精神の強化は必須だ。
自分の心を奮い立たせながら木刀を渡すと、師範がじっと私の顔を見つめてくる。
「師範?」
「…終わったら、お前が買ってきた抹茶とおはぎで休憩だ」
「……!はい!」
やはり師範にはお見通しだった。
私の気持ちを汲んだ上でのお説教だったこともあって、いつもより短かったのだろう。
彼のことをどこまでも優しい人だと感じたのはこれで何度目だろうか。
悲しいお顔と怒ったお顔は充分見たので、休憩のときには彼の笑顔が見られたら嬉しい。
そこまで考えたところで気を引き締め直し、私は手の中の木刀を握った。
死の淵を見るような稽古直後に私が固形物を胃に入れられたかどうかは、また別のお話。
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