4話
発せられた音を脳が処理しきれず、まともな言葉を返すことができなかった。
ゆるく弧を描いたままの彼女の唇はその先を語る様子が無い。
壁掛け時計の秒針を刻む振動以外の一切の音が消える。
あいしてます、とは?
伝える相手を間違えている、数日間の昏睡からの目覚めで混乱している、もしくは日本語ではない他言語で何かしらの言葉を発したのを、私が聞き間違えたのか。
あらゆる可能性を思案しながら彼女の顔を穴が開きそうなほどに見つめていると、重たそうに瞼を瞬かせた彼女の視線が私の後ろに移った。
「何だやっと起きたの。おはようなまえ」
「しょ、こさん…」
沈黙を破った、いや、破ってくれたというべき存在は、白衣の裾をはためかせながら覚醒したばかりの彼女の元へ真っ直ぐに歩みを進める。
彼女の様子を一通り観察し、二、三言会話した後、問題なさそうだねという言葉とともにベッドサイドの丸椅子を引いた家入さんが腰を降ろすまでの様子を、私はただ眺めていることしかできなかった。
「私、確か……呪詛師とやりあって…頭、カチ割られた…気がするんですけど……生きてるんですね」
「七海がなまえをここに担ぎ込まなきゃ死んでたね」
「……ナナさんが」
記憶を辿りながら途切れ途切れに話す様子から、彼女はやはり相当消耗しているのだと見て取れる。
先程の言葉は混濁した意識から発せられた寝言に近いものだったのだと結論付けて良いだろう。
再びこちらに向けられた琥珀色の双眸に目を合わせ、私は努めて冷静を装った。
「ありがとう、ございます。面倒を掛けて…申し、訳ない、です」
「いえ、なまえさんの命を救ったのは家入さんの術式です。私はむしろ救援が遅くなり申し訳ありませんでした」
「そ、んな…謝らないで、くださいよ」
「…本当に、貴女の命があって何よりです」
生きていてくれて良かった。
またこうして言葉を交わすことができて本当に良かった。
私の想いの全てなど伝わらないであろう短い言葉にも、彼女は笑みを返してくれる。
長い睫毛の影が落ちる白い頬に再び手を伸ばしたくなるのを自制していると、柔らかな声がゆっくりと音を紡いだ。
「相変わらず、お優しい、ですねえ…」
「そんな風に思っているのは貴女ぐらいだと思いますが」
「そういうところが、ほんと、だい、すきです…」
「…は、」
数秒の思考停止を経てから、今なんて、と聞き返そうとしたが、彼女は既に目を閉じて穏やかな寝息を立てていた。
死にかけて、昏睡して、漸く目覚めたかと思えばタチの悪い寝言を発して。
一頻り人の感情を揺さぶった後、すやすやと眠りこける彼女の様子に深い溜息が漏れる。
「家入さん、なまえさんは問題なく回復しているのですか」
「そんな顔して寝てる人間が死ぬと思うか?もう暫く安静にしてれば、またすぐ元気に起き上がってくるよ」
「脳機能の後遺症の方を心配しているのですが」
「なまえが阿呆なのは元々だろ。生まれ持ったものまで私に治せないよ」
「いや先程の言動は明らかにおかしいでしょう。あれが一時的な混乱なら良いのですが…」
「先程って?」
「聞いていたくせに」
「さあ。よく聞こえなかったな」
口の端を吊り上げてこちらに視線を送ってくる家入さんの表情に、ある人物の姿が重なる。
先程のやり取りがあの男の知るところとなれば、私も彼女もからかわれ、飽きるまで散々ネタにされ続けることが容易に想像できる。
それだけはなんとしても避けたい。
「五条さんに余計なことは言わないでくださいよ」
「余計なこと、ねぇ…」
「あの人の耳に入れば私もなまえさんも良いオモチャにされるでしょう。面倒事は御免です」
「考えとく」
言わないとは明言しない1つ年上の先輩に、クソが、と悪態を吐きそうになるのをぐっと飲み込む。
「帰ります。…また来ます」
健気だな、と掛けられた声が既にからかいの色を多分に含んでいて、自分の額に青筋が浮き立つのが分かる。
しかし何も知らずに再び眠りに落ち続ける彼女の寝顔を視界に収めれば、苛立った心が静まっていくような気がした。
次に目覚めた時には、いつもの彼女に戻ってくれているだろう。
程々の距離感で、ただ挨拶をして、軽口に小言を漏らして、世間話程度の会話を交わして。
いつもの日常が戻ってくる。
それを少しばかり残念に思う自分に気付かないふりをしたまま重い腰を上げ、彼女の眠る医務室を後にした。