6話

「インプリンティング、っていうんだっけ?」


ほらあの卵から孵った雛鳥が一番最初に見たものを親だと思いこむってやつ、と付け加えた白髪の男はどっかりとソファーに腰掛け、甘ったるそうなカフェオレの缶に口を付けた。
目元を覆う布のせいで表情は半分しか伺えないが、ニヤついた口元は「完全に楽しんでます!」とでも言いたげで、彼の本音がダダ漏れであった。
苛立ちを抑えつつ、彼女は鳥でもなければ孵化したわけでもなく単純に眠りから目を覚ましただけでしょうと冷静に返答すれば、ぶすくれた声が再び言葉を返してくる。


「あの状態から回復したんだから、一度死んで生まれ変わったようなもんでしょ」

「全く違うと思いますが」


適当なことばかり並べては話題を変える気のない相手に辟易しながら、自分も先程購入したブラックコーヒーに手を付ける。
程よい酸味のスッキリとした飲み口は缶コーヒーにしては完成度が高い。
目の前でうだうだとし始めた28歳児を相手にせざるを得なくなったこの状況で、手の中に収まるこの190g缶が唯一の救いと言っても過言ではなかった。


「ずるいなー七海。僕もさぁ、なまえに愛してるって言われてみたい人生だったよ」

「ずるいもクソもないでしょう」

「もう一回昏睡させて目覚めたときに僕が一番最初に視界に入ったら言ってくれるかな?」

「外道ですかアナタ」

「やらないけどね」

「当然です」


涼しい顔でとんでもないことを口にする男に怒りを通り越して呆れる。
本気で実行することなどないと分かってはいるが、九死に一生を得た人間をもう一度昏睡させようなどということを冗談でも言えるあたり、やはりお世辞にも尊敬できる人間性ではないなと心の中で毒吐く。
そんな心の内を口にはしなかったものの、私は彼に思い切り軽蔑の眼差しを向けてしまっていたらしくい。
そんな目で見られたら傷ついちゃう!ショックでさっきのこと高専中に言いふらしちゃうかも!と喚き散らす28歳児を、果たしてどう黙らせたものかと考えながら再び手中のキレの強い苦味を喉に流し込んだ。


彼女の負傷とその回復経過については上層部へ報告され、当然の如く五条さんの耳にも入っていた。
その報告の中に認知障害や身体機能への後遺症等は一切無く、以前同様に問題なく現場復帰可能という形で締め括られていたという。
現時点で彼女の奇妙な発言は私に対してのみ行われており、この言動を除けば負傷前とほぼ変わらぬ状態に回復しているというのだ。


「なんでお前にだけあんな感じなんだろうね。なまえが目ぇ覚ましたときなんかヤラしいことでもした?」

「そんなことをするわけが……」


ないでしょう、と否定しかけたところで一つの可能性に行き当たる。

責任感という聞こえの良い言葉を盾にし、彼女にとってただの同僚という立場でありながら、私は勝手に病床へ通い詰めていた。
毎日毎日、彼女が生きていることを確認するために。
もう一度あの瞳に射抜かれる瞬間を切望し、心底勝手な想いを抱き、只管彼女のもとへと足を運んだ。

そして彼女が意識を取り戻したとき、私はあの白く柔らかい頬を撫でたのだ。
異性の身体に無許可で触れ、図々しくも、まるで恋人か何かのようにその目覚めを喜んだ。

自分自身の一連の行動を思い返し、背筋に冷たいものが走る。
長い眠りから覚醒したばかりで意識の混濁する中、私の行動は彼女の眼にどう映っただろうか。


「やっぱ何か思い当たる節あるんでしょ、お前昔っから結構なムッツリだもんね」


からかいの言葉に言い返す気力も湧かず、自分の軽率な行動に対する後悔が波のように押し寄せる。
もしも、あれがトリガーとなって彼女の記憶領域に何かしらの影響を与えていたのだとしたら。

暢気にけらけらと笑う男への苛立ちと相まって、こめかみの辺りに拍動性の痛みが走り始めていく。
無意味だと理解しつつ痛みの部分に手を当てながら肺の中の空気全てを吐き出しても、もやもやとした思いは体外に出て行ってはくれない。
もう一口分すらも残っていないコーヒー缶を煽ると、冷めた苦味の雫が喉を伝っていく。
これから彼女にどう接していくべきなのか、どうフォローしていくべきなのか、そもそも距離を取るべきなのかと、当分答えが見つからなさそうな問いに頭を悩ませ続けた。



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