足踏みをしていた代償
あの日キスできそうなくらいトレイくんと顔が近くて、あと少し遅かったら私は目をつむってキス顔を晒していたかもしれない。
何でもない日のパーティーも新作ケーキが好評だったことより、前日のトレイくんの事で頭がいっぱいだった。みんながケーキに夢中になっているときに、トレイくんと目があってその琥珀色の瞳に心臓がバクバクして恥ずかしくなって、結局逃げてしまった。
「それで、未だに進展ナシな訳?」
「し、進展…。ハードル高いよ、前みたいなので私は十分っていうか」
「いやいや、ここ最近は彼にお近づきになれて凄い幸せそうだったじゃん。それを何で前みたいに戻ろうとしてるの?そんな事してると、そのうちポッと出の子に取られちゃうけどいいの」
グサグサと私の心にナイフをぶっ察してくる彼女の言うことは正論だ。
むしろ3年間、彼女らしき人を見かけなかったことすら運がいいかもしれない。トレイくんかっこいいし。
「トレイくんは物じゃないよ。それに、近いと顔が良すぎて恥ずかしくて死んじゃいそうなんだよ…」
「はあ、スケッチブックに書いたのとキスの練習でもしてれば何とかなるんじゃない」
「それとこれとはっ、」
「違うでしょうね、そろそろスケッチブック離れしたほうがいいんじゃないの?本物の彼に失礼よ」
ぐうの音も出ずに彼女の前で縮こまっていく私。心配してくれてるのは分かるんだけど、もっと優しく言ってくれてもいいじゃんか。
恋愛相談の相手としては凄く頼りになるけど、如何せん意気地なしの私にとっては彼女のアンサーはハードルが高すぎる。
私は彼女と別れてトボトボと寮の廊下を歩きながら部屋へ向かう。するとお菓子のとてもいい匂いがした。
トレイくんが作ってるのかな、少しだけ覗いて部屋に帰ろう。そう思ってキッチンへと足を向けた。段々とキッチンへ近づいて行くと話し声が聞こえる。
誰かと作ってるのかな、なんて呑気に考えながらキッチンをそっと覗いた。
「お、なかなか手際がいいな。監督生はお菓子作りのセンスあるかもな」
「ふふん、マロンタルトで鍛えられましたから」
「ははっ、そうかそうか。監督生、ホイップついてるぞ」
トレイくんは監督生のほっぺに付いたホイップを掬う。あっ、2人の距離近い…。
その時、私は頭を鈍器で叩かれたような気がした。そしてさっきの彼女の言葉が頭にリフレインした。
"そんな事してると、そのうちポッと出の子に取られちゃうけどいいの?"
目の前の光景を信じたくなくて逃げようとするけど足が動かなかった。床に張り付けになったみたいに硬直する。
見たくない。見たくない。
ふるふると手が震えて涙が出そうになった。しばらくしてようやく足が動くようになって、逃げるようにその場から離れた。
緊張感が解けた途端に涙がボロボロと溢れていく。
やだ、見たくなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、部屋に帰ると何もせずベッドにダイブして顔を枕に押し付けて思いっきり泣いた。
こんな気持ちになるなら見てるだけで十分だった。近づかなければよかった、仲良くなるんじゃなかったんだ。
*
それから何もやる気は起きないし体調も優れなくて3日ほど学校を休んでしまった。数人からメッセージが来たけど風邪って事で適当に返した。
もちろん、トレイくんからも心配のメッセージは来ていた。
"風邪って聞いたけど大丈夫か?何か必要な物があったら言ってくれ"
いつものような優しさが、今の私には辛かった。だから既読無視してしまった。
「嫌われちゃうかな…。でも、もう私よりあの子の方が…」
ぼそっと出た言葉が胸に突き刺さる。自分で言って自分で傷つく。
はあっと大きなため息が出て布団を頭まで被った。目を閉じて見るも、昼間まで寝ているせいかいつまで経っても意識を手放せない。
それにトレイくんとの思い出や、見たくもないトレイくんが他の女の子と仲良くしている光景が瞼に映る。
またじんわりと涙が出そうになったとき、ぽんとメッセージが来る音がした。送り主は親友であり、よき相談相手の彼女からだった。
"大丈夫?何があったか知らないけど話くらい聞くわよ。とりあえず、授業のノート全部取ってあるから安心して。"
彼女の言葉に少しだけ救われた。事情を深くは聞かないところに彼女の思いやりを感じる。
ありがとう、と1言返したあと私はベットから出て机の前に座る。気晴らしにスケッチブックの描きかけのものの続きをしよう。
引き出しから2冊のスケッチブックを取り出した。無意識に緑のスケッチブックを捲ると私が3年間想い続けたトレイくんがいて胸が締め付けられた。
見たくなくてもう一冊の方を開く。ペンを手に途中までのページを開くが、手が進まなかった。
此処ににはスケッチブックしか置いてないから、部室に行こう。
私は制服に着替えて部室と言う名の美術部のアトリエに向かった。