「あ、花」


東の空が白み始めた頃、伊之助は蝶屋敷の裏山で蕨を摘んでいた。伊之助は炊事係のナマエに求婚を断られてからも、蝶屋敷で世話になっている時は、毎朝彼女に山菜や木の実を届けている。自分があげたそういったものが、想像を超えた美味しい料理になって出てくるものだから、伊之助はいつも嬉々としていた。
そんな彼は、ふと満開の山桜を見て、先日しのぶに「花を贈ってみてはいかがでしょう」と言われたことを思い出す。しのぶは、きっとナマエも喜ぶと言っていた。


「ホントかよ」


花をもらって喜ぶ気持ちが伊之助にはよくわからなかったが、確かにその桜は見事できれいだと思い、枝を一本折って持って帰ることにした。風呂敷を右肩に担ぎ、左手に持った桜を振りながら屋敷に戻る。
「キレイなお花! 伊之助君凄いわ! お嫁さんにして! 」と、目を輝かせるナマエを想像して機嫌良く山を降りる伊之助。しかし、いざ炊事場に向かって屋敷の中を歩いていると、あんなにキレイだと思った桜があんまりに思えてきた。


「……」


炊事場では、いつものように割烹着姿のナマエが朝餉の支度に取り掛かろうとしている。伊之助はてきぱきと働く彼女をただぼーっと眺めながら入り口に突っ立った。


「あ、おはよう伊之助君」
「……おう」
「どうしたの? 桜? 」


いつもドタバタと飛び込んで来ては、「嬉しいか」「嫁になるか」「今日の飯はなんだ」としつこく聞いてくるはずの伊之助がやけに静かで、ナマエは不思議そうに伊之助の様子を伺った。
伊之助は彼女を見ていると、今まで食べた彼女の手料理を思い出す。あれが絶品だった。この間作ってくれたパンケーキという菓子も美味かった。でも一番は天ぷらだ。そんなことを考えていると、この枝一本ではナマエを満足させられない。そう思った。


「おいナマエ、行くぞ」
「え? きゃあっ!? 」


伊之助は風呂敷を無造作に置いて、桜の枝もぽい、と投げると、許可も取らずに彼女を横に抱えて走り出す。


「ちょ、お、おお降ろしなさい! 」
「断る!! 」


一度これだと思い立って走り出した伊之助は止まることを知らない。混乱するナマエの必死の叱咤を耳に入れず山に入っていく。今日こそは絶対に、嫁になるとナマエに言ってもらうのだ。


「こわいこわいこわいから! 」
「俺は山の王だぞ! 落としたりしねぇよ! 」


躊躇することなく木や草の生い茂った山中を駆け抜けていく伊之助。ナマエにしがみつかれると、余計に伊之助は気を良くした。彼女にはもはやそれしか術はなかっただけだとしても、だ。


「目ぇ開けろナマエ! 」


伊之助は今朝の山桜の前まで来ると止まった。ギュッと目を瞑っていたナマエは、視界いっぱいの桜色にポカンとする。ハラハラと花びらが舞っている。


「えっと…どうしたの? なんで、桜? 」
「花を贈ったらいいってしのぶに聞いた! 」
「そう、なの」
「でもお前にはこっちのでっけえ方がいい! 」


お前は俺の嫁になる女だからな、と言う伊之助。猪頭の下で得意げな笑みを浮かべてた。そして、ナマエが想像通りの反応をするのを今か今かとわくわくしながら待つ。


「……ほんと、貴方って子は」
「ん? 」


呆れた顔をして見せるナマエ。


「朝餉の支度途中だったんですよ? 伊之助君、後でしのぶさんに怒られますよ? 」
「げぇっ」


そこまで考えていなかった。伊之助は以前にも彼女に説教されたことがあるので、その怖さを知っている。すると、顔は見えずとも、伊之助の気が小さくなるのがナマエにはわかったのか、彼女はふふっと柔らかく笑って猪頭を撫でた。


「でも、ありがとうございます。きれいな桜を見せてくれて嬉しいわ」


その時伊之助は、心が暖かくなるのを感じた。彼の言葉で言うのであれば、「ホワホワ」した。しかし、いつものそれとは、少し違う。


「お、おう。俺の嫁になったら、山の花も菜も果物も全部お前のもんだ! 」


愛や恋の伝え方を知らない伊之助の、精一杯の告白。伊之助から出てくるのは、わからない彼なりの素直で純真な言葉だ。


「あら。それは贅沢ね」
「番いになる気になったか! 」
「それは…どうかしら? 」


これ以上の提案はないだろう、とむくれる伊之助。そんな伊之助を見て声を出して笑うナマエは、存外満更でもなさそうな顔をしていた。




たえて桜のなかりせば
(慌ただしい春も悪くないかもしれないわ)
2020/05/22