「あ、伊之助」


藤の花の家紋の屋敷での休息中。夜、ナマエは風呂から上がって部屋に戻る途中、縁側で伊之助が一人ぼんやりと座っているのを見つける。


「おー、たぬこ」
「ナマエだってば」


伊之助はナマエのことをよく"たぬこ"と呼ぶ。彼曰く、狸と似ているらしい。ナマエは狸を嫌いではなかったが、呼ばれるたび複雑な気持ちだった。


「何してるの? 」
「なんか、ほわほわするなーって」
「ほわほわ…? 」


よくわからないが悪い意味ではなさそうだ、とナマエは思う。
相変わらず空を見上げてぼーっとしている伊之助。ナマエは部屋に戻ろうかと思ったが、(せっかく伊之助と二人だし…)と、思い切って隣に座ってみた。


「……」
「……」


座ったはいいが何も話すことが浮かばないナマエ。どうしようかと横目で伊之助を見てみたが、特にナマエが座ったことに何も思ってないようだ。
すると、急に伊之助が鼻をくんくんとさせる。


「…なんか、いい匂いする」
「へ? 」


なんだこの匂い、と言って伊之助は匂いの正体を探す。そしてナマエの方を見た。


「お前から匂う」
「あー、柚子かな。柚子風呂だったから」
「ふーん」


端正な顔にじっと見つめられる。(これは、なんというか、とても心臓に悪い)と、ドギマギするナマエはせっかく風呂に入ったというのに汗をかきそうだ。


「なんか旨そう」


伊之助がナマエの首筋に鼻を近づけた。


「ちょ、っと伊之助! 」


鼻息が当たりくすぐったい。身をよじるナマエ。しかしそんな彼女の思いもつゆ知らず、伊之助はお構いなしに柚子の匂いを胸いっぱいに大きく吸い込む。そして突如その首筋に舌を這わせた。
生温いザラザラとした感覚に、思わず声を漏らすナマエ。


「味はしねぇな」
「……! 」
「俺も風呂入ってくるわ」


そして何事もなかったように伊之助は去っていく。いや、何事もなかったのだ。彼からすれば。しかしナマエはそうはいかない。一体この身体の熱をどうすればいいのかと溜息をついた。




恋の溜息
(お風呂の柚子食べないわよね? )
2019/12/23