意地悪なのは誰のせい?


「超絶イケメンが待合室にいた!」

仕事終わりの時間、交代で出勤してきた同僚が口々にそんな言葉を口にしていた。昔はそれに混じって会話に花を咲かせたけれど、七海さんと結婚した今となっては七海さん以上のイケメンに早々出会うこともないしそもそもの興味がなくなってしまった。
「お疲れ様です」と未だに会話を続けている同僚に背を向け、更衣室に向かう。着替えて、そういえば外が雨だったことと傘を持ってくるのを忘れたことを思い出してうんざりした。天気予報は雨予報で、七海さんに「傘を持って行ったほうがいいですよ」と言われたにも関わらず、だ。しかも今日は私が夕飯を作る番。外は大雨、一旦家に帰ってからもう一度買い出しに出なければならない。
はぁ、と重いため息を零しながら、院内の売店に傘を買いに向かう。傘を手に取ったところで、「なまえさん」と後ろから声を掛けられた。


「え、あ、七海、さん」
「お仕事お疲れ様でした」
「え?なんでいるの?」
「傘忘れていきましたよね?」
「うん、七海さんに言われてたのに」
「予想外に仕事が早く片付いたので、迎えに来ました」
「え、それだけのために?」
「いえ、冷蔵庫も空だったのでついでに食事でもとお誘いも兼ねて」


さっきまでどんよりと心を覆っていた雲が少しずつ晴れていくような、そんな気持ちになった。「ありがとう」の言葉よりも先に、七海さんに抱き着く自分が居て。ここが職場だとか、きっと忘れてしまっていて。普段「労働はクソ」が口癖のこの人が、面倒なことが嫌いなこの人が、こうして私のために動いてくれたことが、ただただ嬉しくて、七海さんが愛しいと思って、酔った勢いだったとはいえ、婚姻届けを提出した相手が七海さんでよかったと心の底から思った。


「なまえさん」
「ごめん、もう少しこのまま」
「私は構いませんが、多分、すごく見られています」
「……!?!」

びっくりして、七海さんから離れて、周りを見渡して、ようやく自分が今、置かれている状況に気づいた。情報を聞きつけた仕事終わりの人たちがたくさん私たちの周りを囲んでいた。その中には同僚も、同じ科のドクターも、お世話になっている薬剤師さんも居た。人に注目されることも目立つこともなかった私の人生において、初めて『顔から火が出そう』という状況。そんな中でも七海さんは冷静に耳元で「具合が悪いふりをしてください」と小声で私に囁く。どこまでも大人で、冷静沈着で、その判断はいつも正しい。


「行きましょう」と恥ずかしさからその場に崩れ落ちそうな私を支えて歩き出す七海さん。病院を出るころにはもう視線は感じなかった。


「…ありがとうございます」
「はい」
「なんか、ほんと、すみません」
「いいえ、夫ですから」


そう言って七海さんは私に顔を近づける。「中から見たら、キスしてるように見えませんか?」と悪魔のような囁きを添えて。声にならない声をあげ、私は七海さんの肩をドン、と叩いた。

「なまえさんの百面相、なかなか楽しかったですよ」
「意地悪」
「意地悪をしたお詫びに、今日は私が夕飯をご馳走しましょう。何が食べたいですか?」
「……イタリアン」
「いいですね。たまにはワインでも飲みましょうか」


冷静沈着で、優しくて、なのにどこか意地悪。
せっかくちょっといいお店に七海さんが連れてってくれたけれど、その日の私は明日のいいわけを考えるのに精いっぱいで、運ばれてきた料理の味も良くわからず、ただただおいしいワインを飲み続け七海さんに抱えられて家に帰ることになる。それはまた別のお話。